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緑の森の姫君  作者: 高峰 玲
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〈1〉大翔の文使い



 緑の森の奥深く、その庵はあった。


 住む者の名はルカリィア。

 唯一の大陸シンと、それを取り巻く聖なる七つの島から成るこの世界で、広くその名声を知られる賢者のひとりである。

 大賢者、と呼ばれることもある。

 もっとも、本人に言わせると彼は未だ探求者であり、魔女王メイシスによって授けられた叡智と不老で、長いながい歳月をそのために費やしてきている。


 深い森の彼の庵をおとなうのは、ルカリィアが長い放浪の旅の中で出会った知己か、あるいは道に迷った者たちであった……。











 便りは、一羽の大翔(おおしょう)によってもたらされた。


 彼女は館の女たちとともに野に出て薬草を摘んでいた。

 それは本来、彼女のような身分の者のする仕事ではないのだが……彼女の知識がなければ、女たちは八割以上の雑草を摘んで帰るのがおちなのだから、仕方がない。

 ただ知人の縁者だからという理由だけでこの半年ばかりおいてくれた館の主へのささやかな──しかし、あきらかに価値ある──恩返しと思えば、多少の労働は苦にはならなかった。

 おだやかな春の日差しがぽかぽかとぬるむ、午後。

 快適にはしつらえてあるが、どこか陰鬱な冷えびえとした石造りの館に閉じこもっているよりは、野外の風に吹かれているほうがよっぽど気持ちがよい。

 それは同行の女たちにも共通する思いのようで、用意してきた弁当を他愛もないおしゃべりをまじえながらたっぷり時間をかけて片づけていた。

 まるで、少しでも館に帰るのを遅らせようとしているかのように。

 それがすむと、今度はとりどりに好きな花を摘みだす。薬草だろうと雑草だろうと、関係なかった。ある者は花束に、ある者は冠に、器用に形作る。

 彼女は口元にわずかな微笑を浮かべて、それを眺めていた。

 内心のいらだちなど、つゆほども、見せずに……。

 館の女たちの()()()()()()とした働きぶりなどは、いま、はじめて知ることではないのだ。

「これが普通なのよ」

 自分自身に言い聞かせるようにつぶやく。

 幸い、誰の耳にも届かなかったらしく、そっと見回すと女たちはまだ花摘みに熱中している。


 自ら望んだことではないか──。


 つい先月、選択したばかりの自分の一生が現在の生活の延長なのだと思うと、なにやらむなしくなってくる。胸の奥がチリチリとくすぶり、手足の先から血の気がひいて冷たくなるのを感じる。

「──姫さま!」

 まずいと気づいたときには手遅れだった。

 それまで彼女が見ていた光景から、急速に色彩が消えてゆく。かわっておとずれるのは耳鳴りと吐き気。

「どうなさったのです」

「しっかりなさって」

 実際よりも遠い場所からのように聞こえる声に応えることもできず、それでも彼女はゆっくりと腰を下ろす。

 単に貧血を起こしているだけなのだということはわかっていた。

「ご気分が」

 誰かが気をきかせて背中をさすろうとする。

 できれば、自分以外の手に触られたくなかった。しかし触るなと叫べば嘔吐してしまいそうで、青ざめながらされるがままになっているしかない。

 そんな己の有様にはかなり気が滅入った。

「あっ」

 別の女の叫び声が聞こえた。耳鳴りがおさまりかけている。そして彼女は堅く閉ざしたまぶたを通して、なにかが陽光をさえぎって通り過ぎてゆく影を見た。

「カドゥリアーナさまっ!」

 次いで彼女の周囲は悲鳴に満たされた。

 なんとなればたったいま、上空を飛び去ったはずの優美な猛禽──大翔が彼女をめがけて降下してきたからである。その刹那の、女たちの恐怖がひしひしと伝わってくる。

 館の大切な客人(まろうど)の姫君が襲われる!

 残虐な空の王者の鋭い爪に、容赦ないくちばしに、引き裂かれてしまう……誰もがそれを想像していた。

 そして、当のカドゥリアーナよりも青ざめながらも為す術すら知らず、縫いつけられたかのようにその場に立ちつくす。

 なにしろ、ふだん料理やら裁縫やらといった家内のことしかしないため、身を挺して彼女をかばおうという悟性など、働く由もない。

 おのおの、自分の頭をかばいながら地面につっぷした。

 それがやっとの動作だった。

「キリア?」

 長い尾をひく美しいつややかな羽をまとったものが再び大空へと上昇する姿を見届けたのは、カドゥリアーナの緑の瞳二つだけであった。

 濡れたように青く光る羽が、日の光を弾いてきらめくばかりに美しい。その大翔の名を、知っていた。

 めったに飼い主のそばを離れないはずのそれがカドゥリアーナの近辺に現れた()()は、彼女の足元に落ちていた。小さな筒状に巻かれた手紙のようだ。

 いったい誰が、誰に宛てて書いたものなのか、わからないわけがない……。

 大翔の目的は文使いで、その主が近くに来ているということではないのだ──安堵感と、言いようのない焦燥、そして失望を覚える。

「……いまさら」

 ほとんど声にならないつぶやき。

 それから、手紙を拾って薬草かごに入れる。

 最前まで、冷たい汗を吹き出しながらただうずくまっているのが精いっぱいだったとは思えないくらい、機敏に身体は動いた。

「あああ、姫さまお怪我は?」

 永劫とも思える(とき)をこらえたつもりで恐るおそる顔を上げた女が、ぬけるほどに白い頬に一筋二筋、風になぶられた髪をはりつけた姫をそこに見つけて声をかける。

「ええ、大丈夫。ありません」

 平然としすぎていやしないだろうか、ドキドキしながら応えた。

 気をおちつけようとそっと胸に手をあてる。そうして()いているほうの手で、頬の髪をかきあげた。結い上げるには中途半端な長さの髪──黒みの強い栗色だ──なのは、風の月に肩の長さにそろえたためだ。

 生涯を決定したあの日に。

「わたくしは平気です。それよりも誰か、怪我などしていませぬか」

 キリアと呼ばれる大翔が、いたずらに人に危害を加えたりしないことなど、知っているくせに尋ねている。

 そのころには、あんまりみっともよいとは言いがたい格好で地に伏せていた者たちも起きだして、自分の無事と周囲を確かめている。

「……いえ、みな無事、無事なようです。それにしても恐ろしい。あんなに大きな鳥が姫さまを……」

 無言でカドゥリアーナはうつむいて女の視線を避け、薬草かごを抱え込んだ。どさくさで体調がもどったのは幸いだ。

「そういえば姫さま、ご気分は?」

「ええ、まだ少し……」

 わざとらしくも口元に手をやったりする。

 そのとき、数匹の犬の鳴き声が聞こえてきた。威勢のよい、きびきびとした吠え方から察するに館の猟犬のようである。

 遠目に見える複数の騎馬の姿に、女たちは安堵の息をつく。

「まぁ、ノマフィさまですわ」

「こちらへいらっしゃるようですよ」

「願ってもないこと。若さまに、お馬でカドゥリアーナさまを館へお連れいただきましょう」

「こうもご都合よく来合わせるなんて、よほどおふたりの(えにし)は深いんですよ」

 ──なんといっても許嫁(いいなずけ)なんですから!

 ──どんな名医よりも男君の腕の中は安心よね!

 彼女たちの視線で交わされる言外のロマンスの香りに、内心カドゥリアーナは舌を見せたい思いだ。

 うすらばかではないものの、お世辞にも情趣に()け機転が利くなどとは形容できない狩猟狂の情緒性の欠片(かけら)もない男が、狩りの最中に引き返したりするものか!

 婚約者に対する幻想など微塵も持ち合わせないだけに、カドゥリアーナは冷徹に男を観察していた。

 うら若い乙女から夢が消え失せると残るのは超現実的な判断なのである。

 寄るとさわると甘ったるい話に花を咲かせる噂スズメよりは、彼女の人を見る目は確かだ。彼を見るための身内のひいき目がないせいかもしれないが……。

「大翔を見なかったか?」

 荒々しく馬を寄せてきた館の後継どのは、女たちに囲まれてうつむく姫には目もくれずに尋ねたものだ。

 年かさの女が、半ば憤慨して言葉を(もっ)て斬りつける。

「ノマフィさま! 姫君はお具合が悪くていらっしゃるのですよ?」

 それでやっと男は、青ざめている(はずの)カドゥリアーナに目線を落とす。言葉ひとつかけずにただ自分を眺めるだけのまなざしに、意識的に彼女は目を合わせない。

「ふ、ん。どうやらそのようだな。深窓のなんのと館にこもってばかりいるくせに、こんなところへ出てくるからだ」

 彼のいらだちそのままに、せわしなく馬は足踏みを繰り返している。

 数えるほどにしか言葉を交わしたことのない許嫁の姫に対する優しい心遣いやいたわりなど、期待するだけ無駄なのだ。

「それよりオレの質問に答えろよ。大翔だ。あんなにでかいやつは初めて見たぞ」

 そのやせた男の頭の中には、いまは狩りの獲物のことしかないのだ。

 もともと、カドゥリアーナとの縁談も彼自身が決めたことではない。

 ノマフィが父親の勧める結婚を承諾したのはカドゥリアーナに惹かれているとか、その身分に目がくらんだというわけではなく、若い女性で申し訳程度には美人だから、なのではないかと彼女は推察している。

 彼のいささかは整った面差しは、無関心なものに対しては冷酷そうな表情しか見せなかった。

「……西のほうへ、ゆきましたわ」

 乗馬鞭を持つ指に力が込められつつあると見てとると、静かな声でカドゥリアーナは答えた。大翔の行方を見届けた者は彼女しかいないのだ。

 仮にも許婚の身への無礼を思えば教えてやる義理などないが、男の狩りに対する異常なほどの執着では周囲にどんな八つ当たりをするかわかったものではない。

「西、か」

 虚言を呈して荒野をさんざんに走り回らせてやることも可能だったが、あえて真実を告げた。そんなみみっちい画策をめぐらせたところでこの男の無礼が(すす)がれるわけではないし、キリアは賢い鳥だ。むざと狩られることなどなく、逆に自分を追いまわす慮外者に一泡ふかせるぐらいはしてのけるだろう。

「はい」

 人の言葉を素直に容れるだけの度量があっても疑っていてはどうしようもない。

 確かめた男に、カドゥリアーナはうなずく。視線はあくまで合わせない。

 いまさらこの許婚者に期待などしていないが、腹が立つのとそれとは別問題だ。

 セルパの領主の息子であるノマフィ・アルカーンにとって、カドゥリアーナ姫は美しいだけの手弱女(たおやめ)でなくてはならない。

 いいかげん慣れた猫かぶりでも、己の緑の瞳が時としてその紅い唇よりも雄弁に意志を語ることを彼女は知っている。

「西だな」

 再度言ってノマフィは馬首を転じた。

「若さま!」

 いますぐにも馬に一鞭くれようとしたところへ女が声をかける。カドゥリアーナの不調に最初に気づいた年かさの女だ。ミルバラ、という名前だったと記憶している。

「せめて、姫さまに馬を一頭、お貸しくださいますよう」

「エルド!」

 不承不承という顔で、領主の息子は従者のひとりに命じた。

「館へ連れ帰れ。終わったら追ってこい」

 そうして、ノマフィはいたわりの言葉どころか、簡単な挨拶すらせずに行ってしまった。もはや淡泊な性格とか、そっけないという言葉でフォローできる所業ではない。

「姫さま……」

 まるで生まれたときからの侍女のような気遣いをミルバラはみせようとした。

「……館へもどります。ミルバラ、ついてきてくれますか?」

 まだ午後が始まったばかりで、この野原で遊んでいる時間はたっぷりある。自分のために誰かの楽しみを奪うのは嫌だと思った。

 春の野の陽だまりと花園を女があきらめられないのならば、ひとりで帰る。エルドと呼ばれたノマフィの従者の楽しみ(狩り)を中断させたことは、苦にならなかった。

 返事の代わりに、ミルバラは自分の日よけ(ヴェール)をカドゥリアーナにかけた。

「私のものなど、姫さまには畏れ多いのですが、ないよりはと思いまして……。私は先にもどりますが、おまえたちはかごいっぱいに薬草を摘んでから帰りなさい。いいですね」

 口うるさい現場監督者が帰ることに異議を唱える女はいなかった。

 ぎこちない手つきのエルドの手を借りてカドゥリアーナが馬上の人となる。野外に出るためにいちばん質素な衣装をまとった姫の裳裾が風になびく様は、それでもとても優雅なものに一同の目には映った。

 エルドが轡をとり、馬が歩きだす。そのすぐ傍をミルバラが歩く。

「お苦しくはありませんか?」

 数歩進むごとに、うるさいくらいにミルバラは尋ねた。大丈夫だとカドゥリアーナは微笑む。

 なにげなく顔を上げた拍子にエルドはその笑顔を見てしまった。

 美しいだけがとりえと言われている()()()姫君が、本当に、まぎれもない美人なのだということを実感すると同時に、かあぁーっと頭に血が上る。

「あっあのーお姫さま」

 気がつくと、カドゥリアーナに直訴していた。

「うちの若さまは、ホントに狩りにしか興味なくて、ぶっきらぼうで愛想がなくって、き、気の利いたことも言えない人ですが根はいいひとなんでス。金銀財宝とか、戦争とか、名誉なんかどうでもよくって、酒もバクチも女も無縁な人ですっ」

 あたりまえだ──小首をかしげて従者の言葉に聞き入りながら、心の中で毒づいた。

 あれで酒乱だの女グセが悪いだのといったところがあるようならば、いくら世話になっている領主の頼みでも結婚を承諾したりはしない!

 彼女の身分は客人とはいえ、王族の姫であり、本来ならば国王の許可なくして妻とすることなどかなわないのだ。

 国王が承認することなどわかりきっているから彼女は独断でノマフィの(正しくはセルパの領主の)求婚を受けた。半月後の婚礼には都から国王の代理として大臣が来ることになっている。

「……殿方が狩りに熱中なさるのは勇敢な証し。歯が浮くほどに美辞麗句を連ねられるよりも沈黙のうちに込められる真心にこそ、女は心を動かされるものですわ」

 その真心とやらをついぞ見たこともないくせに、カドゥリアーナはうそぶいた。彼女が望むのは毒にも薬にもならぬ夫なのだ。

 彼女は十七歳……王家の姫が結婚するには遅すぎるくらいの年齢である。やはり国王のおぼえがよくない姫だから行き遅れるのだなどと陰口をたたかせないためには、それで手を打つしかあるまい。

 幸せな結婚をしたいならば、その才智と美貌をもってノマフィを籠絡すればいいのだろうが……夫を愛するつもりもないのに愛されるなど鬱陶しいだけだと思うあたり、彼女の青さがみえる。前科、もある。

 それは、やけ、なのかもしれなかった。

 いちばん幸せだと思える結婚を、きっと自分はできないのだと、わかっていたから。

 彼女の身分ゆえに。

 彼女が彼女であるがために。

「ホントですかぁ?」

 エルドは釈然としない。

 ノマフィは一見頼りなく見えるほどひょろひょろにやせているが、幸い容姿は及第ものだ。しかしあのつっけんどんな態度で好印象を抱けというほうが無理なんではないかと、従者たちは思っている。

 父である領主も、カドゥリアーナが否と応えると読んでいた。

 しかし、彼女は受けたのだ。

「わたくしがノマフィさまのお気に召さないことなど、わかっております。でも、ご領主が望んでくださったのですもの。いつかは、あのかたもお心を開いてくださると……信じております」

 自分のことは棚に上げ、いけしゃあしゃあと言ってのけたカドゥリアーナの厚顔は、いまのところ本人しか知らない。

「お姫さま……」

「カドゥリアーナさま」

 エルドもミルバラも、いたく感心した様子で彼女を見上げる。

 ノマフィとの婚姻がいかに不毛で、陰鬱なドロ沼のような毎日の連続であったとしても……行かず後家の姫という汚名を王家に与えない役割をするだけは実のあることだと、ルドゥーンの娘(カドゥリアーナ・)カドゥリアーナ(オ・ルドゥーン)は考えていた。

 そっと、馬のたてがみをなでる。

 馬に乗るのは久しぶりだ。横乗りというのがいただけないが、姫君が乗馬する場合はこれが常識だ。仕方あるまい。

 冬のあいだ、石造りの館に閉ざされ、ここ二年ほどの運動不足もたたって今日は貧血を起こすという失態を演じてしまった。実は彼女は従者に轡などとられなくても、ちゃんと馬に乗れる。走らせることもできる。

「あ……」

 さっと風が通り抜けた。

 たなびく衣よりもたてがみのそよぎにカドゥリアーナは風を感じた。忘れ去ろうとしている感覚が身体の内を駆けめぐる。

 それは、大翔によって届けられた便りと同じく、彼女が決別を決めた過去のものだった。

 見渡すかぎり、どこまでもどこまでも続く草原を思うがまま馬で掛けまわったのはそれほど遠い昔のことではない。

 乾いた荒野を渡る風の匂いも、海辺の都市の湿った潮風も……木々のあいだを漏れ落ちてくる雨の匂いも、萌え立つような草のいぶきも……彼女は覚えている。

 それらをすべて忘れるために、彼女は髪を切った。


 忘れてみせる。


 呪文のように、規則的な馬の歩調にあわせて心に刻みつける。

 忘れられるはずだった……。









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