4章
その日、いつものようにバイトへ行き、夜に自宅へ帰ってきた。
今日が昨日と唯一違う点は、明日には私はこの世にいないという点だ。
過去にも何度か自殺をはかろうと頑張ったことがあるが、どれも突発的なものですぐに挫けてしまった。
今日こそは完遂してみせる。
当時していたバイトは調理場の清掃だ。掃除は私の性に合っている。自分の行動の末に場所が美しくなるのは心地が良い。要らないゴミを捨てて調理場がきれいになるように、私が私を捨てれば私はきれいになるのではないかと、そんなことを最後の掃除をしながら考えていたと思う。
10代のとき、母親と言い争いをした末に住宅のゴミ捨て場まで出向いたことがあった。正確な文脈で言葉を発しているのに、言葉を理解してもらえない。話が成り立たないまま、部分的で感情的な言葉に晒される。一刻も早く逃げ出したいが、自分は無力である。諸々の悲しみと共に、自分が粗大ゴミとして人間の世界から捨ててもらえたらどんなに楽だろうと思って、しばらくゴミ捨て場に座っていた。しかし、あまり長いことそうしていれば「かわいそうだと思ってほしいんでしょ?」と言いながら母親が乗り込んできそうだったので、そのときは適当な時間で家に帰った。
もう苦しまなくて良い。
今日という日の、その瞬間さえ乗り越えてしまえばもう苦しまなくてよい。
結論から言ってしまえば、今このように過去をつづっている通り、その日の自殺は「失敗」だった。
しかし、当時の私はそれはもうものすごく真剣だった。
嬉しさと怖さが均衡して、ついに気持ちは平坦になっていた。
部屋に突っ立ってぐずぐずしながら、最後に誰かに連絡したいとも思った。LINEアプリをひらいて、悩んで、また閉じて、携帯の電源を切った。誰かに連絡をして返事が来たらきっと生き続けてしまう。
今から死ぬことを誰かに伝えたいとも思った。勿論その気持ちの根底にあるのは、自分の置かれている状況をわかってほしいという意識だ。私はそれに気づいていた。だから、それも抑えた。
首に細いベルトをかけて、一息ついた。首を吊る際は、よくある首つりの描写のように喉を潰すやり方よりも、仰向けに寝転がるようにして頸動脈を絞めればよいと記憶している。この日のためにタオルで首を絞めて感覚を掴んであったから、やり方に関してはきっと大丈夫だと思った。頸動脈が圧迫されると、世界と自分の間に壁ができたように耳が遠くなる。呼吸はできて、顔がぼうっとして、ゆっくり意識が遠のいていく。それを永遠に続ければいいだけだ。
意を決して、私は「えい、」とぶらさがった。
自宅には成人が完全に宙に浮けるほどのスペースは無いので、床に足がついていた。
ドアノブほどの高さがあれば首つりは成功するとはいえ、めちゃくちゃに滑稽な姿だと思った。
狙い通り、首の側面が圧迫された。ベルトがギギッと軋み、さあ早く終われと思った。
面倒くさい感情が湧いてくる前に、何もかも全て終われと思った。
耳がキーンとして、顔に血が溜まって、ぼわっと世界が遠のいていく。
きっともう少し、もう少しだと自分に言い聞かせる。
あと少し、あと少し恐怖と苦しみに耐えれば全てがなくせる。
しかし、そこから先がなんだかうまくいかなかった。
細いベルトで40㎏ほどの私の体重を支えるには、どうにも首の後ろが痛い。
動脈を圧されてせっかく朦朧としているのに、首の関節の痛みや肌の擦れる痛みが強くて現実に引き戻される。
私は苛々していったん起き上がった。苦しかったわりに余裕で起き上がれて落胆した。まだ死は遠いらしい。
柔らかいタオルを持ってきて、ベルトに巻いた。
死のうとしているのになぜこの程度の痛みに耐えられないのだろうと自分が情けなくなった。
首吊りは楽だときいていたが、「死ぬ割には」楽だということなのだろう。
もう一度、と再びベルトにぶらさがった。
一回目より長くユラユラしていた。
当然のように苦しい。
タオルのおかげで首の肌が千切れそうな痛みはなくなったが、ギリギリと肉に食い込むベルトが痛い。
気道は塞がれていないものの、無理な姿勢で呼吸も苦しい。
音がなくなり、水の中にいるような感じになる。目の焦点を合わせるのが面倒になる。
だらりと垂れさがった腕が重たくなって、動きたくなくなる。
そのままなんとなく意識を手放せるような気がした。
ジリジリと死に近づいていけている気がした。
眉間から、ジーッという変な感覚が突き抜けている感じだ。
得体の知れない鋭い痛みが首から脳天にかけて走っている感じがした。
私は咄嗟に地面に落ちた。
冷や汗をかきながら、痛みよりも何よりも、すごく悲しかった。
体は生きたいのだなと思った。
痛みや苦しみは脳に危険を伝える信号で、つまり生命を繋ぐための仕組みだ。
私も、苦悩さえなければ、生きたいのになと思った。
普通に笑って生きていたいのになと思った。
私は床に座って泣いた。
一通りベソをかいたあと、また立ち上がって挑戦した。
何度もやっているうちに、ベルトの一部が壊れた。
何度もやっているうちに、なんとなく察した。
自分は自ら死ぬことすらできない。
やがて朝陽が昇ってきてしまったので、疲れて眠った。
携帯の電源をつけ、アラームをかけて定刻に起き、何事も無かったかのようにバイトへ向かった。
私が自殺に失敗したことなど、誰も知らない。
その夜も自殺を試みた。
しかし、朝陽は再び昇ってしまったのだった。