2章
苦しみは、共有することで軽減される。また、苦しみの理由の根源を断つことで改善されることもある。
どのような手段をとるかは個人により、また男女の傾向にも差があるようだが、私の(私たちの)持つ苦悩は、少なくとも共有しやすいものではなかった。それどころか、共有を試みた途端、全ての人に背を向けられてしまう恐怖があった。LGBT、犯罪、特殊性癖、そのような類のものも苦悩が多いと想像されるが、それらを表す概念として言葉が存在しているだけまだ救いがある。
私は、自らの状態を端的に表す言葉を未だ世の中に見つけられていない。当時もそうであった。つまり、実質的に、私には「生まれ持ってしまった」要素を変えること、あるいは自身を社会に適応させることしか道が残されていなかった。それをやろうとしたことがある人間なら、それがいかに大変な仕事であるかがわかるだろう。私は物心がついてから20年余りかけて自らの矯正に励んだが、ついにできなかった。何より、私は自分のその「変人」の要素がとても人の役に立つことをしっていたし、変人な自分に価値を感じ、自分が好きであった。
死ぬことを決意することは、すなわち、自分の「生まれ持ってしまった」要素を受け入れ、最後まで守ることだった。
私は私の個性を変えず、ありのままで生きる決意をする。そのことが、自ら死ぬという選択に結論づいた。矛盾を感じるかもしれないが、いかに生きるか、とは、いかに死ぬか、と同義である。私は明確な死に向かって歩きはじめることで、自分がどのように生きるかを決めたのだった。不思議なことだが、そのときから、私は初めてはっきりと自分の人生が明るくなるのを感じた。昔どこかの漫画で読んだ、「絶望って世界を明るくするのね。絶望ってもっと暗いものかと思っていた…」という台詞の意味がわかったのもこの時だ。終わりが明確なとき、そこに続くまでの道は鮮やかに浮かび上がる。
私は変わり者であったが、一方で、どこにでもいる未熟な大学生であった。変わっている人間だと悟られないよう細心の注意を払って、他人の(特に目上の)顔色を伺いながら生活していた、という点を除けば、ごく一般的な新成人であった。すなわち、社会に自らを適応させる力も無く、1人で生きていけるようなビジネスの知識も無く、将来に漠然とした不安と希望を持ち、誰かに価値を認めてもらいたいと思っている20代の若者だった。
死ぬことを決めてからも、私は普通の大学生として、学校に行ったりアルバイトをしたり、人と会話をしたりして過ごした。周りは就職活動にいそしんでいたが、社会で生き続けていくことに何の希望も抱いていなかった私は、特に何もする必要がなかった。
刻一刻と“命日”が迫ってくる感覚は私に言いようのない安心感を与えた。私は理不尽に他者から八つ当たりされることが大嫌いだが、そのようなことがあっても「でも、1年後には生きていないから」と思うことで、感情を最低限に抑えることができた。
明るくなったね、元気になったね、と言われる機会が増え、同期と遊びに行くこともするようになった。遊びに行くことやファミレスでご飯を食べることに、以前ほど抵抗は無くなった。同期たちと一度だけ原宿に行って、若者らしく安価な服を選んではしゃいだ。このきらびやかな都心の灯りと私を友だちとして扱ってくれる同期たちは、死ぬときに良い思い出になるだろうと思った。最後に思い出すことは楽しいものがいい。同期たちを含め私は全ての人間を信じていなかった。しかし、彼らが私に笑いかけてくれること、横を並んで歩いてくれることは、本当に嬉しかった。
夏に大勢で行ったキャンプのことを今でもよく覚えている。
私にとって、1人になれない空間が何日も続くことはストレスだ。全ての他人を常に警戒している状態にあったため、”敵“と数日間の寝食を共にすることは大変な苦労だからだ。それに、学生のキャンプには酒が伴う。私は酒を飲むことは嫌いだし、酒に酔ってここぞとばかりに弱さをむき出しにする人間はもっと嫌いだ。しかし、私を友人として娯楽に誘った彼らに、悪意が無いことは知っていた。死ぬ前に「普通の人間らしい」生活に積極的に身を投じてみるのも悪くないと考えていた私は、いかにも乗り気である装いをして円満にキャンプへ向かった。
キャンプ初日の飲み会を適当に受け流し、1人外に出ると星空がきれいであった。川辺の大きな岩の上に乗り、むし暑い夏の夜の空気と黒々とした空を楽しんだ。深呼吸を繰り返すととても穏やかな気持ちになって、来年にはもうこの景色を見ることないのだと思うと少し寂しかった。世界には楽しいことも美しいものもたくさんある。私はそれらが好きだ。生きているうちにこの澄んだ空気をたくさん吸っておこうと思った。本当に死ぬことを決めてしまった人間を止めることはできないのだと、他人事のように納得していた。