1章
さて、私は、大学4年生に進学するころに、自分が死ぬ日を決めた。
前章で述べたように、私は変わり者で、仲良くしたいと思う人間たちに常に批判され、排除されていた。大学では意欲を持って勉学に励んでいたことも災いし、同期の大学生たちは私を指さしながら不快がったり、笑ったりした。特定の集団の中においては、流行の服に興味がなく、断固として化粧をしたくないという意志も悪く影響した。わかりあうためには妥協も必要だと思い直し、今ではファッション誌を見ながら最低限の装いを試みているが、しかし、どうにもなんだか狭苦しい。
22歳のとき、私はすっかり生きることに疲れていた。
自分を正確に理解されないことは、長い年月をかけてじわじわと生きる気力を削いでいった。「いや、そりゃ完璧に自分を理解してくれる人なんていないよ」―――それはそうなのだが、私の(私たちの)感じる「理解のされなさ」具合は、多くの人のそれと比べたら恐らく「種類が違う」のである。そもそも個人の感じるそれぞれの苦しみに程度の差をつける考え方がおかしいと言ったらそれまでだが、苦しみの程度の基準として「共有されやすいか/されにくいか」「根本解決の図れるものか/そうでないか」があることを考慮すれば、私や私に似た者たちの持つ苦悩は、なんだかとても悲劇に思えてくる類のものなのだ。
例えるなら、「あそこにオバケがいる」と言って気持ち悪がられたり、厳しく言動を制限されたりするようなものだ。私たちはありのままに見えているものを説明するたけで、頭のおかしい者として社会集団より排除される。そして、後になってそこに本当にオバケがいたと判明したとしても、誰も私の言ったことを覚えていない。私はそのような人生を送ることに疲れてしまったのだ。
「1年後に死のう。」私はそう決意し、お気に入りのノートに書きとめた。
なぜ1年後かと言えば、誰にも死を気づかれないためには大学を卒業してからでないといけなかったからだ。あるいは、生きることに少しの希望があったからかもしれない。
大学を卒業する日、何の因果か、その日は自分の誕生日でもあった。私は自ら死を選ぶ日が自分の生まれた日であることを知り、妙に嬉しく思った。両親が悲しむだろう、彼らに申し訳ない、という気持ちはその当時は全く無かった。彼らこそが私を理解できなかった最初の人物であり、私は彼らとの関係でずいぶん苦しんだからだ。言っていることをほとんど理解してもらえず、不本意な批判を受けながら充分な衣食住を与えられ、「不自由ない幸せな家庭で育っている」「なんて教育熱心な良いご両親なの」と言われながら「私は恵まれているので、文句を言ったらいけない」と思わなければならなかった。
さらに都合の悪いことに、彼らは私を大切にし、愛してくれていた。そのため、私は不幸中の幸いの、そのまた不幸のなかで、「私は幸せだ。」と自分を説得しなければならなかった。そんな環境にあった私が、やがて「これが幸せならば、私が望む幸せはこの世には存在しない。死が一番の幸せだ。」という結論に至らざるを得なかったのは、同じような経験のある人間なら詳しく読まずとも分かってくれるだろう。
もしあなたが「わからない」のであれば、それはあなたが普通の人間として、普通の幸せを叶えることができるという証拠だ。私の気持ちを想像し、寄り添ってくれたら私はとても嬉しく感じる。しかし、私に共感できるということは、私の苦悩もわかりうるということで、それはあまり喜ばしいことではない。私は世の中に対して少し恨みがましいところはあるが、誰もかれもに不幸になってほしいと考えているわけではない。
そしてもちろん、私の苦悩を理解できない人がいるのと同じように、私には理解できない苦悩を持った人々が大勢いることを私は知っている。私の両親は暴力的ではなかったし、子どもをほったらかして遊び歩くような自分勝手な人間でもなかった。つまり私は、たとえばそのような環境で育った人の気持ちを正確に理解することはできない。巧みに言葉を操り、いかに自分の置かれた状況が苦しかったかを淡々と伝えてくれる相手ならば、想像くらいはできるが、それは本質的な理解ではない。その意味では、私の持つ苦悩もまた、普通のものであると言えるだろう。