序章
私はもともと教室にはなじめないタイプであった。
それは大人になっても変わらなかった。すなわち、自分は変わり者であった。
変わり者というのは、普通を望むものだ。「本当に変な人は自分のことをわざわざ変と言わない」とは凡人の想像である。変人は、幼い頃から、自分が変であることをやむを得ず自覚させられていて、よほど運の良い環境に生まれたのではない限り、常に批判を浴びて育つからだ。一生懸命生きれば生きるだけ否定され、それはまさに自分の持つ感性や性格によるものだと気づく。自分は愚かで、変で、矯正すべき人格だと思い悩むのである。
「変な人」は、しばしば予防線を張って自身をわかってもらおうとする。「私、よく変な人って言われるんだけど……」そうして相手の顔色を伺うのである。
変わり者の種類について、文章による説明をすることは手間がかかる。何を基準にどんなことを「変」と定めるかを言葉で述べなければならないからである。私はこれから自分自身を「変わり者」として話を進めるが、私があなたの身近にいるどの「変わり者」に共通しているかを想像しながら読んでいただきたいと思う。もしかしたらいないかもしれないし、あなた自身が私のような人物かもしれない。
確かに、幼い私は変わり者であることに加えて、気性の荒い自己中心的な性格であった。ゆえに、私が小学校という集団行動から排除され(あるいは自ら抜け)、幼いクラスメイトたちが身を守るために私を遠ざけたことは、特に不思議なことではない。年齢があがり、思春期になれば、趣味嗜好が違うことだけで批判されるというのはよくあることだ。孤独を感じたことがあるのは、私に限ったことではなかっただろう。
しかし、自己中心的だとか怒りっぽいだとか、そういう人間性の部分をコントロールできるようになり、思春期を過ぎて「大人」としての諸々が落ち着いてきたころ、本当の意味で変わり者はあぶりだされるのだ。
私の何が「変」だったかというのは大学で明らかになったが、それについて詳しく語ることはしない。私は大学で自分と同じような「変わり者」の大人に出会い、助けてもらうことで、自分自身を正確に認識することができた、とだけ言っておこう。それまでの人生では悪者は常に自分であったが、実はそうではなくて、私はごく良心的なきちんとした常識のある人間であり、たまたま持ち合わせた「変わり者」の部分が周囲に“意味のわからない”感覚を与えているだけだった。意味のわからない感覚というものは不快感や恐怖に繋がるため、人々は、意味のわからない変わり者の私を、無意識に排除していたのだ。それによって生じる苦しみを、私は自分の人間性の問題だと勘違いしていたのだった。