20 初恋
「ただいまぁ……って誰もいないか」
玄関のドアを開け、帰りに寄ったスーパーの袋をドサリと投げ置く。
「……私、今日海斗の彼女になっちゃったんだ……」
午前中たっぷりと身体を動かしたせいか、石を担いて歩いているかの様に重くてだるい。
思考まで疲れてしまったのか、海斗との未来がうまく想像できなかった。
誰もいないキッチンで野菜をやっとの思いで冷蔵庫にしまっていく。
「はぁ……」
気がつくとため息が空気砲の様に誰もいない空間へと放たれ、抜け殻の様な私は暫く動けずに床に座り込んでいた。
「眠いなぁ……」
悠真が帰ってくるまで、少しだけこのまま寝てしまおうとダイニングの壁に寄りかかり頭を揺らしながら居眠りを始める。
「……陽菜! 陽菜! こんな所で寝てたら風邪引くぞ!!」
遠くの方から悠真の声が聞こえる。
夢かな……?
私の隣に大きな影が移動し、右側から温もりを感じる。
引き寄せられるようにその影に身体を預け、私はまた夢を見る。
なんて心地よくて、安心できるんだろう……
俺は陽菜の寝顔をずっと見つめて考えていた。
陽菜の存在は、俺にとって何なのか……
今までこんな事、自分から考えようとも思わなかった。
視線の先の陽菜は、いつのまにか大人の女性の顔になっていた。
意識してちゃんと見たことも今までなかったな……
陽菜がどんな顔だって、俺からすれば気になるところじゃない。
彼女の無邪気で、天真爛漫で、優しくて、くるくると変わる表情が可愛らしくて……、挙げればきりのない魅力が日常の中に当たり前にあり過ぎていて、それが本当はとても貴重で尊い事だったんだと、今彼女の顔を眺めて初めて気がついた気がしていた。
そっと陽菜の柔らかい髪に触れてみる。
「髪の毛、口の中に入ってるぞ……」
こういうところは昔のまんまだな。
ついつい笑みが零れる。
髪の毛を元に戻そうと手をかける。
温かくて柔らかい陽菜の頬に触れて、唇の端からスッと髪の毛を抜き出す。
ぷっくりと艶やかな唇がこんなに近くにあったら、きっとどんな男性でも彼女にキスしたくなるだろうな……
陽菜はいつからこんなに色っぽくなったんだ……?
視線を落とすと大きく膨らんだ乳房がTシャツ越しに見えた。
流石に寝ているとはいえ、そこから目を離せずにいる俺は、今罪悪感と戦っている。
「………ん…、悠真……」
彼女の妖艶な口元から吐息とともに吐き出された俺の名前にドキリとした。
「……陽菜……」
ダメだ……抱きしめたくなってしまう。
……抱きしめちゃいけないのか……?
何故だ?
ついこの前まで、当たり前の様に彼女を自分の胸元に引き寄せてたじゃないか……
陽菜の存在が、急に簡単に触れてはいけない崇高な物に感じてきた。
大切にしたい……
もちろん今までもそう思っていた。
でも何かが違う。
そうだ、きっと独り占めにしたいんだ…
誰の手にも触れられずに、俺の腕の中だけにいて欲しいんだ。
あの時翼が言っていた様に……
「……悠真……? どうしたの? 怖い顔して……」
寝ぼけ眼の陽菜がおれをずっとみていた。
「……陽菜……」
だぶん、翼の話が本当なら、俺は陽菜に知らず知らずに恋をしていたのかもしれない。
この、未知なる気持ちを、今陽菜に伝えたら……、ずっと俺だけのものになってくれるだろうか?
「……あのな……」
と俺が口を開いた時だった。
陽菜がスッと俺のそばを離れてこう言った。
「……悠真……。私、恋人できたんだ……」
なぁ、陽菜……?
幸せな表情を恥ずかしがっているから俺の方を見ていないのか?
それとも俺を驚かす冗談がバレないように、わざと背を向けているんだよな……?
お願いだ……! 後者であってくれ………!!
「……そ…、そうなんだ……」
陽菜の告白に動揺した俺の気持ちは隠しきれてるだろうか……?
「うん、今日、海斗に付き合おうって言われたんだ」
どうしてそんなに大人の顔をしてるんだ?
海斗に何かされたのか……?
「へぇ……」
言葉が見つからない……
初めて自分の気持ちに気付いた途端にこんな事ってあるのか……?
「星宮先輩といい感じの悠真に負けてらんないからさ……! 幼馴染として……」
陽菜のその一言が、俺が正しいと思ってしてきた行動全てを後悔の海で浸していく。
「悠真……、今までありがとう……」
急にお礼を言われて戸惑った。
「なんで? どういう意味?」
俺の声は震えてないだろうか……?
「ずっと、私を守ってくれて、優しくしてくれて……。今度から、海斗がきっと私の側に居てくれる……。もう大丈夫だから。星宮先輩と仲良くね」
そんなよそ行きの声で、俺たちの仲を終わらせようとしないでくれ………頼む……!
そう本音を伝えられるわけもなく、その後何を会話したのか、ほとんど記憶がない。
ただ、冷蔵庫のモーター音が、いつも以上にうるさく聞こえていたんだ……




