2 進路
「佐伯! 佐伯陽菜!!」
爽やかな朝には似つかわしくない、太いイガイガした大声で、突然呼ばれ我に帰る。
「はい……」
何もそんなに大きな声で呼ばなくてもいいのに!
担任の青木繁は、放たれた声にぴったりのずんぐりむっくりで、無精髭がよく似合う風貌だ。
その見た目をカバーするかのような、たまに光るユーモアセンスに、意外とクラスの人気者でもある。
「校庭にいい男でも走ってたか??」
どっと湧き上がったクラスメイトの笑い声に流石の私も顔が上げられない。
あまりの恥ずかしさに俯いていると、
「まぁ、きっと勉強のし過ぎでボーッとしてたんだろ? 明日からのテスト、期待してるぞ!!」
出席簿がボンと頭に降ってきて、まんまと裏を返して勉強不足の図星を指さされた私は、追い討ちをかけられた。
「ちょっと、陽菜、だいぶハンプティーに弄られてたけど大丈夫??」
HRが終わると親友の結城美咲が駆け寄ってくる。
そうそう、ハンプティーとは不思議の国のアリスに出てくるハンプティダンプティの姿から、風貌がそっくりな担任の青木に命名された不名誉なニックネームだ。
「うん……、ちょっと昨日色々あってさ……」
机に突っ伏し思い出したくもない昨日の記憶がまた蘇ってくる。
「昨日って、悠真と一緒に楠高校の文化に行ったんでしょう? 陽菜楽しみにしてたじゃない?」
確かに先週の金曜日、美咲とさよならするまでは、彼女に久々に悠真と二人で出かけられる喜びを全力でアピールしてたかもしれない。きっと美咲には浮き足立った私の背中に羽が生えているのが見えたはずだ。
「楽しみにしてたんだけど……、実際楽しかったんだけど……」
言うか言うまいか……そう迷っていたら一限目開始の鐘がなる。
「ごめん! 時間になっちゃったから昼休みゆっくり話そ!」
急いで席に戻っていく美咲を見送りながら、彼女にちゃんと昨日の様子を伝えられる様私は頭の中の整理を始める。
昨日、あの軽音部の演奏の後の悠真は、急に学校中を熱心に見学し始めた。
「ちょっと俺、学校案内のパンフ貰ってくるから、陽菜はここで待ってるか?」
職員室に一番近い昇降口は、表の賑やかさとは真逆でひっそりと静まり帰っている。
偏差値の高い楠高校にはまず縁もないし、もしこの学校の先生達に話しかけられたりしたら面倒くさそうだと思い、外で待機を選択した。
悠真は吸い込まれる様に校舎の中に入っていき、私は一人そよそよと心地よく流れる初秋の風を感じながら、大きくて綺麗な校舎を見上げ一望する。
この学校のどの生徒も、賑わいの中にも品があり、気持ちのいい挨拶が其処彼処から聞こえてくる。
今の自分と重ね合わせて見れば、遥かに心が成熟した大人の集まりの様に見えて正直憧れた。
「もっと勉強しとけばよかったなぁ…」
そんな今更な独り言も、そよ吹く風にさらりと持っていかれてしまう。
だんだん惨めな気持ちになりそうだったので、もうそろそろ戻ってくるだろうと、悠真の姿を探し始めた。
ところがいつまでたっても戻ってこない彼に、ただパンフを貰うにしては遅すぎると、痺れを切らして思い切って昇降口の中に駆け込んだ。
なにやら職員室の付近から聞こえてくる男女の声に、恐る恐る聞き耳を立てる私。
「じゃ、星宮先輩、今日はお話が出来て本当に嬉しかったです」
聞き覚えのある悠真の声だ。
「朱莉でいいわよ、君が軽音部に来てくれるの待ってるね!」
滑らかな声が静かな廊下を駆け抜け私の耳にも届いた。
これは、間違いなく、あのボーカルだった女性の声だ!!
職員室の前から顔を出し悠真と朱莉が歩いてくる。
「陽菜、お待たせ!!」
珍しく頰を赤らめた悠真は、颯爽と私と悠真に笑顔で会釈をしながら通り過ぎて行く彼女をいつまでも目で追って行く。
ふわりと残された朱莉の女性らしいさわやかな匂いが、いつまでもその場に残り、悠真は彼女の余韻に浸っている様に見えた。
「悠真、遅かったけど今の女性と何話してたの? あの女性軽音部でさっき歌ってたよね?」
私は聞きたくない答えが返ってくる事を何となく予想しながら、悠真の表情を伺う。
「あぁ、パンフ貰いに行った時、たまたま職員室から彼女が出てきて……。星宮朱莉さんって言うんだけど、俺さっきのライブめちゃくちゃ感動してさ、本人が目の前現れてテンパっちゃって……」
恥ずかしそうにサラサラの髪の毛をくしゃくしゃしながら話す悠真。
「自分もずっとバンドやりたかったって話を勢いに任せてつい話したら、三年生が結構抜けちゃうから是非うちに来てってさ!! 俺嬉しくて嬉しくて、ヤバイ!!」
悠真のキラキラした瞳は切なくもかっこよくて、私は素直に、
「悠真なら入れるよ! きっと! 頑張って!!」
なんて言っちゃった……。
確かにそう思ったの。
彼の期待に満ち溢れた表情を見た瞬間、自分のことの様に応援したいって、本気で思った。
だって、悠真が好きだから……。
悠真にいつも幸せな気持ちでいて欲しいって想いは紛れも無い真実なのに。
……なのに帰り道、星宮先輩の話で持ちきりの悠真に、私はずっと作り笑いを浮かべて相槌を打ってるだけだった。
時間が経てばつ程、現実味を帯びてくる悠真の進路。
彼の願いが叶ったら……、きっともう今までみたいにずっと一緒にはいられなくなるんだろうな……。
笑顔で玄関先で別れて、自分の部屋に入った途端、ずっと堪えていた涙が溢れ出す。
隣の悠真の部屋からは、また大音量でバンドミュージックが流れ出した。
私は泣き声を聞かれないためなのか、悠真の部屋から聴こえてくる音楽をシャットアウトしたいのか……、布団に潜り込み、ひたすら声を殺して泣いた……。