逆ナン
「なにしてるのかナ?」
それが詰問調でなく、いっそ柔らかな、からかいを帯びた女性の声だったものだから、俺は内心の動揺を表すことなく振り返ることができたのだった。
そこに、ワルっぽい笑顔で、一人の職業女性が、自信満々な様子で立っていた。自分の美学をもっている、おそらくは30代間近の、貫禄がある美人だ。職場ではリーダーとして慕われているのかもしれない。そんな雰囲気の、春らしいブラウスとスカートが似合っている──はっきりいって全然知らない女性だった。
「──いえ、これは、その」事態が把握できない。
「しいたけさんに、なにか恨みでもあるのかナ?」
「いえ、とんでもないっス、つまり──その」何者だろう、何の用なんだろう──?
「しいたけさんに、悪戯はダメよ?」げっ、自警団の人か? 俺はパニック寸前にまで追いやられてしまう。
そのときだった。美女がスッと顔を寄せてきた。そして、ほのかな香水の香りとともに、とろけそうな甘い声音でこう、ささやいたのだ。
「悪戯なら、このア、タ、シ、にしてみない?」
そして、小首をかしげて、小悪魔的に見つめてくる。
「──!」
ここに至ってようやく、頭の中の歯車がすべてかみ合った。了解、状況把握!
逆ナンだ!
クラッときたよ。ホントウに。たったいま、現在進行形で我が身に起こっていることが信じられんかった。
いま一度、同じ言葉を繰り返してしまうことを許してほしい。
なんたってこっちは、ここに越してきたばかりの、地方の山猿だったんだよ? 白状するけど、こんなメにあうのは――女性に引っかけられちゃうってのは――ホント生まれて初めて、初体験だった。田舎じゃまずムリ! ムリムリ! 絶叫するがさすが東京ーッてわけで、さぁそれからの俺は、やぁ、何をしゃべったんだか記憶にネェ! 逆にあってたまっか! とにかく、目の前のこの素晴らしきお姉様のメンツ潰さないこと一番に、かつ、この場を穏便に逃れることを大目標に、あわあわし、へこへこし、えへえへと顔まっ赤にさせて、最後はもう、へっぴり腰で逃げ出していた、という顛末。ああもう、その通りだよ。俺はまだガキんちょだったってわけさ。ははははは……。
ああ――
どこをどう、どんなふうに歩き回ったんだか!
どこ行っても、いまの一幕を見られていて、ほらアイツだと指さされ笑われているようで――
恥ずかしくもあり、同時に鼻血が出そうなほど有頂天にもなっていて――
オレがオレが。オレのオレの──
自分の、確実に来る近未来に期待して興奮して――
無性にハジけたくなって──
喉の渇きを覚え、いや、自分がバカなことしでかす前に、アホなこと叫びだす前に、とにかくどこかに身を固着させたくなって、心臓を鎮めたくて、目についた喫茶店に突入してアイスコーヒーをオーダーしたんだ――が――!?
座った席が、なんと偶然。そこは2階で、窓から駅前コンコースが一望できて――
まるでさっきの自分がそこにいて、それを自分が嗜虐的に覗いているような感覚に襲われて――
うっひゃあ!
もう、床に転げ回りたい気分! 頭からコゲくさい煙がプスプスプス……。
幸い、店員は中年のオバチャンで。
運ばれてきた冷たいコーヒーをひっつかんで、ぐびびびびッと飲み込んで。それでようやく――
ようやく――
平素の落ち着きを、少し、少し取り戻したって次第、なんである。
もうね、だあああ……と、脱力したったよ、ほんに。
あああ……!