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深い森の中、まるで緑色の薄いヴェールに包まれている錯覚に陥る。澄んだ空気が流れ、どこかで群生しているであろうハーブの匂いを運んでくる。足元ではチラチラと光る木洩れ日に誘われる様に、小さな薄桃色の野の花が咲いている。
この森に入ってすでに半日は経過していた。もう目的の街に着いてもいいはずだ。しかしこの美しい森に囚われてしまったかの様に、出口の気配は一向に感じられない。やわらかい風に乗って、自分たちを惑わし嘲笑う悪戯な精霊の声でも聞こえてきそうだ。
「おかしいですねぇ。そろそろ着いても良い頃なんですが……」
金色のウェーブのかかった髪を風に揺らし、穏やかそうな目をした青年が困った様に呟いた。ふうっと溜め息を吐くと、前髪の分け目かちらりと覗く金属の輪が揺れる木洩れ日の光を浴びて、キラッと鈍く光った。彼の頭には、眉間の辺りでVの字に曲げられた細い金の輪が飾られている。この世界の聖職者が神への揺ぎない忠誠と祈りを誓った証に付ける頭飾りだ。
「そうだね。どこかで道を間違えたかな。」
何度も見返してしわしわになってしまった地図を片手に、隣に歩いている少女が無表情な顔を少しだけ歪め、澄んだアクアマリンの瞳を細めた。その顔とは裏腹に申し訳無さそうな落胆の色がその声から感じ取られる。彼女が小さく首を振ると、後ろで一つに結んだプラチナブロンドの真っ直ぐな髪がさらさらと揺れた。
「ライナの所為じゃないですよ。落ち込まないで下さい。
ほら、今日はすごくいい天気です。風がとっても気持ちいいですね」
少女を励まそうと、青年はにっこりと笑って彼女の頭を優しく撫でた。
「彼処に居たらこんな遠くまで来られる機会なんてそうそうないですから」
遠くで小さく鳥のさえずる声が聞こえてくる。どうしようもない状況とは裏腹に、森は長閑かで美しく、木々の間から溢れるきらきらとした光の粒が午睡を誘っている。
彼は遠くの見えない出口の方角を少し見つめた後、ライナの顔を覗き込んで笑顔ではっきりとした口調で言う。
「連れ出してくれてありがとうございます」
ライナは彼のみせる屈託のない笑顔を陽だまりのようだと思った。優しくて、暖かくて、自分を受け入れ許してくれる様で、穏やかな気持ちになれる。
彼はいつでも優しい。きっと誰にでも。でもその優しさに甘えてはいけない。彼の言葉が彼の本心の全てでは無いとわかっているから。
彼は祈祷師で、毎日神に祈りを捧げる事を義務とされている。人々の為に五穀豊穣、大漁追福を願い、天候や国の吉凶を占い、悪しき者を祓い清め、産まれてきた赤児に祝福を与える。信仰という祈りが神に力を与えて、代わりに神の奇跡を体現する。祈りや儀式に長い時間を費やす為、神殿から殆んど出た事は無いはずだ。
彼はまだ青年になりきれていない華奢な躰つきをしている。あまり外出しない所為か、手足は細く筋肉はあまり付いていない。肌も日焼けを知らない白磁の様な白さだ。そんな彼にこんなにも長い時間、森を彷徨い歩き続けさせて疲弊しない訳がない。
彼の顔をそっと見上げる。柔らかい表情の中性的で整った顔は、普段よりうっすら蒼白い気がする。金糸で精密な刺繍の施された上品な教会の衣装も、その純潔な白さが一層顔色を悪く見せる様だ。ギャザーをたっぷりと寄せた薄手の生地のボトムと少し長めのベルスリーブは裾だけ朝露を湛えた露草色に染められている。その鮮やかなグラデーションでさえ今は寒々しい。
ーー私が何とかしなければ。
口数の少ないライナは心の奥で強く思った。その薄水色の瞳が淡く揺れる。