10
目を開けると、暗闇だった。ただ、ただ果ての見えない暗闇が広がっている。
ーーオレ、負けたのカ……
ガイ=オーラムは仰向けに寝転がったままぼんやりと思う。
負けた。自分が。あんな小さな子栗鼠に……。その事実はガイ=オーラムのプライドを砕き、無気力にさせるには充分だった。
王狼の群れの中では、父親に次いで2番目の実力を自負していた。何なら、年老いた父親を抜ける日も近いとさえ思っていた。しかしそれは、ただの自惚れにしか過ぎず、広い世界では矮小な事でしかなかった。それがとても恥ずべき事に思えた。
自分達が何故こんな森の奥にひっそりと暮らすのか疑問に思った事もあった。
獣人たちの中でも屈指の戦闘能力を持ち、恐れられる王狼の一族。しかし、今は何かから隠れる様に穏やかに密やかに暮らしている。
世界が平和になったから。そう思い、その事が良い事でもあり、少し残念にも思えた。
親父は竜妃を畏れ、従う。
何であんな、滅多に姿も見せない線の細い女なんかの言う事を聞き入れるのだろう。ずっと不満だった。
しかし、きっと竜妃は親父なんかよりずっと強いのだろう。あの子栗鼠なんかよりもずっとずっと。
確かに、油断はしていた。
しかし、勝てば生き延び、負ければ殺させる。そんな世界で生きてきた。生き物を狩り、殺し、食らう。それが自然の理りだ。
面と向かって、身体一つで戦ったら自分が勝つかもしれない。でも……
ーー栗鼠が面と向かって立ち向かって来るわけ無いよな……
罠を仕掛け、上手に逃げて、相手を誘い込む。それだって立派な戦術だ。
当たり前の事。
ガイ=オーラムの完敗だった。
親父はさぞ落胆するだろう。自分の息子がこんなにも弱く情けなくて。
身体が重くなり、ゆっくりと沈んだ行く感触だ。呼吸がほんの少しずつ苦しくなってくる。気付かれない様に真綿でそっと首を絞められる感覚。
天井に銀色の光が見えた。
ふと、シロガネと出会った時の事を思い出す。
彼の存在はガイ=オーラムにとって衝撃的なものだった。見慣れた、日に焼けた黄土色とは対照的な白く透き通る肌。中に息づく血管まで透けて見えそうだ。土埃に塗れごわついた漆黒の髪とは異なる、月明かりで光る銀の絹糸の様な髪。風になびけば、サラサラと心地良い音まで聴こえて来そうだ。銀色の瞳は気高く何者にも媚びない。そして、何よりその鋭い眼光の様に研ぎ澄まされた剣技。的確に攻める無駄がない動きとしなやかな身の熟し。大胆で荒削りのガイ=オーラムのものとは全く違う。
この世界にこんな強く美しい生き物が存在するなんて……
自分達の崇める神ではないが、異国の神であるのだと思えた。どんなに森の縄張りを広げようと、集落の中で指折りの強さを身に付けようと、長の子と粋がっても、それは小さな世界の中でだけの事だと感じた。自分の世界がとてつもなくちっぽけなものだと知らされた。
彼との出会いがガイ=オーラムの世界を変えた。
ガイ=オーラムはシロガネを祭壇に匿った。それが、話にだけ聞いていた“妖精”だと気付いたのは暫くしてからだった。
「まだ死にたくないのか?」
動けないガイ=オーラムを踏みつけ、見下ろしながらあきれた声で子栗鼠の少女が問い掛けてきた。
「ーー死にたく、ない!!」
ガイ=オーラムは屈辱に耐えながら叫んだ。
「みっともない生き恥を晒してもか?父親に何と言い訳する?」
少女はあどけない顔を歪ませてニヤニヤしながら言う。
「オレは……オレは負けタ。自分が弱かったからダ。言い訳はできない。
でも、だから、もっと強くなる!」
強くなりたい、と思った。きっと初めて。
大きな獲物を狩りたい。兄弟分に勝ちたい。いずれは父親に勝ちたい。集落を守りたい。
漠然としていた今までの気持ちとは違った。
少女はいつの間にか父親の姿に変わっていた。
「お前の敗因は己の力の過信だ。お前など、片手で捻り潰せるほど弱い」
核心を突く言葉に何も言えない。
父親は、自分の前でただの一度だって本気を見せた事が無いのだろう。きっと父親の側近達も。
自分は揺り籠の中で大事に育てられたに過ぎない。
「世界を知りなさい。自分の小ささ知りなさい。そして強くなるのです」
外の世界には自分達と違う生き物が多種多様にいる。
自分より強い者達が巨万といる。
世界を知らないままに死んでいくのが急に惜しくなる。
「そう、世界は広いのです」
父親の姿はいつしか、自分が幼い頃に死んだ母親の姿に変わっていた。美しく優しい母親が笑みを称えていた。