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ライナは昔の記憶がない。理由は分からないが、ここ5年間程の記憶しかない。
だからライナは自分の事をよく知らない。
どこで生まれて、本当の名前は何で、誕生日はいつで、一体何歳なのかも。
そして、どうして自分には家族がいなくて、どうして自分を知っている人が誰もいないあの村にいたのかも。
一番古い記憶は、銀色の髪の、満月みたいな瞳をした人の事。ライナは彼を、暗闇に明るく輝く星の様で、とても綺麗だと思った。
彼は村の外れの湖で、彼女に名前をくれた。そしてたくさん世界を見てごらん、と囁いた。
何故、あの湖にいたのか。どうして彼と一緒にいたのか。そして彼は誰なのか。
それは分からなかった。
それより前の事を思い出そうとすると、酷い頭痛がする。頭痛はやがて吐き気を伴いライナを苦しめた。
それでも、手を繋いで幸せそうに笑う家族を見たり、誰かの誕生日が来る度、何度も何度も思い出そうとした。しかし、光の無い暗闇を目隠しされて見詰めている様に、何も思い出せないでいた。
ナディルは知っているのだろうか、その訳を。
「…どうして……」
聞きたい事は山程あったが、辛うじて絞り出す様に出た声はそれだけだった。
どうして私は置き去られたの
どうして誰も迎えに来てくれなかったの
どうして私は独りぼっちだったの
どうして誰も助けてくれなかったの
どうしてどうしてどうして……
どうして私には記憶が無いの。
堰を切ったように気持ちが溢れて、胸が掻き乱される。ライナはそれを零れ落ちない様に必死に押し留める。
「いきなり言われてもびっくりするよね。
それは昔、父様が付けてくれた“印”なんだよ。
俺達だけにわかる名札の様なもの……かな」
そう言ってライナの右手の甲の模様を指差す。
そして悔しそうに顔を顰める。
「君は1歳の時忽然と姿を消したんだ」
ーー1歳?
ライナは耳を疑った。
彼女は、正式には幾つか分からないが、もう10代半ば位だ。彼女が覚えていないのは1歳までなんかじゃない。
「俺は君が消えてしまってからずっと君を探していたんだよ」
それは本当に嬉しい事だった。でもライナの本当に欲しい答えは何一つ無かった。
「今まで何処にいたの?
殆ど全部の大陸は回ったんだけど……
でも、とにかく何より、君が無事で本当によかった」
ナディルは本当に嬉しそうに、満面の笑みを湛えて話す。
混乱していたライナは、答えがここには無い事を知り、波打った心がすうっと凪いでいくのを感じた。
ライナはナディルに何も答えてやれなかった。
だって、彼の前から消えた後、自分が何処にいて、どの様な生活を送っていたのかが分からなかったから。
彼に与えてやれる答えも、何も持っていなかった。
冷静さを取り戻した彼女は、改めて、兄だと言うナディルをよく見た。
ハニーブロンドのさらさらした髪に甘い顔をしている。形の良い通った鼻筋に少し薄い唇。ほんの少しだけタレ目気味の瞳は美しいペリドットだ。肌は少し日に焼けているがキメが細かく、バランスよく程よい筋肉がついている。すらっとしていて身長は高い。
モテるんだろうな、とライナは客観的に思った。
じっくり見れば見る程、自分とは全然似ていないと思う。そして同時にその顔はもう二度と会う事は無い、ある人物の顔そっくりである事に気が付いた。髪の色も瞳の色も違うから最初はわからなかった。しかしその顔の造形や纏う雰囲気がそっくりだった。
ーーどうして……
ライナは運命の悪戯に戸惑う。
彼ではないと分かっているのに抗う事はできない。鼓動が早くなり冷や汗が滲む。只の他人の空似だ。彼ではない、そう自分に言い聞かせる。それともこの事には何か意味があるのだろうか。彼は一体何者なのだろう。
そういえば、彼は魔力を基にする魔法を使っていた。精霊の力の力を使うライナの精霊魔法とは性質が違う。
魔力は人間や一部の獣人が使うもので、精霊の力はその名の通り、精霊や妖精の力だ。
精霊の力はとても強力だが、遺伝的に魔力に対して劣勢だ。そしてその力は相殺され、力を持たない子供が産まれ易い。その為、この2つの性質は長い間、相容れずきた。そもそも精霊や妖精は、人間や獣人を忌む者が多い。
ライナにはそんな感情は無いが、きっと両親は妖精の類いなんじゃ無いかと思っていた。
ごく稀に魔法も使える精霊や妖精がいるは聞くが、ナディルの容姿はどう見ても人間だった。
ーー本当に兄なのだろうか。
一抹の不安と疑問が頭を掠める。