第2-4話 『Memory』
「遅い!もうすぐ門限だというのになにをやってるんだ」
「ま、まぁまぁ、メモリさん。落ち着いて」
正面玄関で仁王立ちするメモリとそれを宥める歌燐。メモリの雷は洒落にならないのは今までの経験でよく知っている。御使いを頼んだ手前、若干の罪悪感がある歌燐。それとこちらに説教が飛び火するという多大な恐怖もある。先程から冷や汗が止まらなかった。
『早く帰ってこい』と、頭の中で願う。同時に『どうして私がこんな目に』と理不尽な怒りも湧き上がる。そして『やっぱり自分で行けばよかった』と少し後悔。
最終的な結論は『朧が悪い』である。
「あと、2分だ」
ジロリと睨まれる。まさに蛇に睨まれたカエルの心境だった。これは門限遅れたら説教は免れないかも知れない。
だから、月明かりに朧らしき人影が現れた時は久々に感動した。
「あっ!メモリさん!帰って来ましたよ!」
「見ればわかる。だが、こんな時間までほっつき歩くのはやはり説教もの・・・」
ふと、メモリの口が止まる。
「メモリさん?」
メモリは急に駆け出した。
歌燐は状況がわからずにその場に立ちすくんでしまった。
「朧!朧!どうした!なんでずぶ濡れなんだお前は!・・・というか、臭いぞ!!」
「はは、ドブ川に突っ込んだんで」
「落ちたのか!?猫でも拾ったのか!?」
「いや、そんなんじゃ・・・」
メモリは歌燐を振り返って叫ぶ。
「今すぐ風呂だ!あとタオル!それと新聞紙だ!風呂の廊下まで並べてくれ!大至急!」
「は、はい!」
慌てて中に飛び込む。談話室でコーヒーを飲んでいた凛堂も引っ張って二人で新聞紙を広げた。
「・・・って、お前!なんだこんな傷だらけなんだ!喧嘩か!?喧嘩なのか!?相手はどこのどいつだ!まさか、負けたわけじゃあるまいな!」
「メモリさん。ちょっと、話を聞いてくれ」
「言い訳無用!とにかく体を洗ってこい!!」
そんな会話をしながら、玄関から朧が文字通り放り込まれる。
玄関の土間に投げ出された朧。明かりの下で見ると、その惨状は一目瞭然だった。
ジャージはところどころ破け、手足は擦り傷だらけ、右頬も盛大に擦り剥いていた。ジャージの下から覗く脇腹にも打撲の痕が残っている。
喧嘩にしては派手にやられたもんだ。
「あんた、何人相手にしたの?」
「いや、その」
口ごもる朧。常日頃から格闘技を習っている朧。そこらのチンピラに遅れを取るわけがない。
「・・・ボロ負け」
凛堂もそう評する。朧は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「まぁ、その様子だと不意打ちでも食らったんでしょ」
とりあえず、骨折とか大きな怪我はないみたいなので一安心である。そして、安心したらお腹がすいてきた。
「あっ!朧!エクレアは!?」
「エクレア?」
「やっぱり買って来てないよね。そんななりじゃ仕方ないか。メモは無事?」
「メモ?」
「お使いのメモ。明日、私が行くから。あっ、もしかしてずぶ濡れ?」
「お使い?なんのことだ?」
「なにとぼけてるの?あんたが行く前に渡したじゃん」
「えっ?」
ふと、沈黙がおりた。
「・・・・・・あっ」
朧が「しまった!」という顔をした。
次の瞬間、メモリさんの平手が彼の頬を張っていた。
メモリは肩をいからせ、朧の胸ぐらを片手で掴み上げる。
「お前!まさか!」
朧はメモリさんを直視できなかった。
「・・・・・・すみません」
「こぉの!馬鹿野郎がぁあああ!」
投げ捨てるように朧を叩きつける。新聞紙が吹き飛び、朧が床に転がる。土間ではなく、床の上だったのはメモリさんのせめてもの慈悲だったのだろう。
「っつ・・・ててて」
傷口をさすりながら、上体を起こす朧。
メモリさんは土足で上にあがり、朧の胸ぐらを再び掴み上げた。
「朧、『魔法』を使ったのか」
この人の細い体のどこにここまでの力があるのか。朧は上体を無理やり起こされ、メモリさんを見上げる。
彼女は怒りに目を血走らせ、声の一つ一つに明確な怒りが込められていた。
それを前にして嘘をつく勇気は朧には無かった。
「・・・使いました」
メモリさんの左手が振り上げられる。殴られるかと身構えた。目をつむり、奥歯を噛み締めた。だが、衝撃はいつまでたってもやってこない。代わりに大きなため息が頭の上から降ってきた。
「・・・まったく、お前は・・・」
メモリさんは疲れたようにそう吐き出した。彼女は朧の体を離し、こめかみに手を当てた。
失望させただろうか?そんな疑問が浮かんだが、見上げた彼女の表情はただ疲れているように見えた。
「・・・・・・話は後で聞く。いいから風呂に入ってこい」
「すみません」
「返事は『はい』だ」
「・・・はい」
言われるがままに朧は浴室へと向かった。
それを見送り、メモリは歌燐と凛堂に「すまない」と謝った。
「仕事を増やしてしまったな」
散乱した新聞紙。朧の被っていたドブ水がそこらに飛び散っていた。そして、メモリがつけた足跡もしっかり残っている。
「雑巾を取ってこよう」
「あ、いいです。私がやります」
「そうか?ありがとうな。朧があがったら、私の部屋に来るように言ってくれ。二人も一緒にな。あとは・・・」
メモリさんは疲れた顔で靴を脱ぎ、玄関に並べる。
「そうだな、あいつにコーヒーでも淹れてやってくれ」
メモリさんはこちらの返事も聞かず、そのまま二階へと階段を登っていった。
「・・・私、雑巾を取って来ます」
凛堂が洗面所へ向かう。
「あっ、私のもお願い」
「・・・その前に」
凛堂が背中越しに言った。
「歌燐は先にコーヒーを・・・先程淹れた分は私が飲んでしまいました」
「えっ?もう飲んだの?」
「・・・ですので、お願いします。私の分と彼の分と・・・メモリさんの分を淹れてあげてください」
「はいはい、任されましたよ。でも、雑巾は二つお願い。私もすぐに手伝うから」
「・・・では、ゴミ袋もお願いします」
「はいはーい」
そう言って、二人はそれぞれの仕事に取り掛かる。
キッチンに向かった歌燐は凛堂がブレンドした豆を取り出して、コーヒーメーカーに流し込む。ああ見えて凛堂はコーヒーには煩い。スイッチを入れると豆を砕く音がしてコーヒーメーカーが動き出す。歌燐は流し台に寄りかかった。
「ん?」
ふと、気づく。流し台に置いた手が震えていた。
「・・・大丈夫・・・」
歌燐はそう言って前を向いた。食器棚に映る自分の顔は笑顔だった。表情は自然だ。誰が見てもこの笑顔が偽物だと言うことはできないだろう。
「さぁって!ゴミ袋ゴミ袋!」
新聞紙を捨てるためのゴミ袋を引っ張り出し、歌燐は玄関に戻る。手はまだ震えていた。
二階にあがったメモリは自分の部屋の電気をつけた。
そこは書斎のような部屋だった。壁には天井まで届くであろう本棚が立ち並び、奥にあるデスクの上には書類が散乱していた。本独特のカビ臭さが鼻をつく。
壁に並んだ本はその多くが専門書。様々な著者が様々な言語で書いた分厚い本が隙間なく並んでいる。その多くは『人間の記憶』に関わるものだった。唯一の例外は本棚の片隅に並べられた色とりどりのアルバムぐらい。
メモリはまっすぐにそのアルバムの前に立ち、本を次々に引き抜いていく。引き抜かれたアルバムを積み上げ、メモリは本棚の奥へと手を伸ばした。
メモリが取り出したのは小型の金庫だった。ダイアルと鍵を必要とするタイプの金庫。だが、メモリはその金庫にも目をくれない。
金庫があった部分の床を開ける。
この下にこそメモリが必要としていたものがあった。
引っ張り出されたのは三冊のファイル。
古くはないが、手荒に扱われた形跡がある。メモリはデスクの上の書類を全て床に落として場所をあけ、ファイルの中身を取り出した。
一番上はカルテのような書類だ。それぞれに子供の顔写真がクリップで留められている。
メモリは男の子の顔写真が留められている書類に手を伸ばした。
「被験体179・・・か」
カルテには名前は無い。生まれも、歳も、なにも書かれていない。あるのは無機質な数字のみだ。
メモリは書類をめくる。内容はほぼ頭に入っている。だが、もう一度確認する必要があった。
書類の束を流し読むメモリ。その目元には険しい表情が浮かんでいた。
しばらくして、扉がノックされる。
「メモリさん。朧です。他の二人もいます」
「入れ」
朧、歌燐、凛堂が順に入ってくる。朧は幾分か気まずそうに、女子二人の表情はやけに暗い。そして歌燐の手には湯気の出ているマグカップが握られていた。白の無地のカップのはメモリのカップである。
「あの・・・これ」
「ありがと。置いておいてくれ」
歌燐が机の隅にカップを置いた。その手がわずかに震えているのをメモリは見逃さなかった。
メモリはコーヒーに一度口をつけ、朧に視線を向けた。
「とりあえず、朧」
「はい・・・」
「お前の頭の中に入っている機械については理解しているな」
「はい・・・」
メモリは机の下から一束の論文を取り出した。それを机の上に放り投げる。
タイトルは『マクスウェルの悪魔』だ。
1867年ごろ、 スコットランドの物理学者ジェームズ・クラーク・マクスウェルが提唱した思考実験。一時は夢の永久機関に繋がる一手とみなされていたものだ。
「マスクウェルの悪魔。分子一つ一つの動きを監視するシステムがあればエネルギーを無限に取り出せるとする仮説だ。だが、結局は儚い夢だ。矛盾とまではいかないが、一つの反証を突きつけられてこの悪魔は退散した」
そして、もう一束の論文が投げ出される。
「要するに、この悪魔に物事を記憶する能力が無ければこの仮説は成り立たないとするものだ。記憶能力が無ければエネルギーは生み出せない。裏を返せば、記憶能力が『有れば』エネルギーは『生み出せる』。記憶はエネルギーに変えられる。そして、どこぞの大学の研究所は記憶をエネルギーに変換することに成功してしまった」
メモリは椅子に深々と腰掛ける。
「その結果、人間の記憶を消費してエネルギーを生み出す研究が始まった。数々のトライ&エラーを経て産み出されたシステム。その名も『MEシステム』」
朧達三人の顔が険しくなった。嫌悪感だけじゃない。明確な恐怖心がそこに浮かんでいた。
「お前らにはもう耳タコな話だろうが。一応確認しておく。そいつを使った奴が一人いるからな」
朧には返す言葉もない。
「記憶エネルギーを使った能力はまさに魔法そのもの。分子を振動させて炎を起こしたり。逆に絶対零度まで冷却したり。斥力を操り、空気の大砲を放ち、雷を生む。だが、エネルギーを使えばそれだけお前らの記憶は消えていく。魔法を使えば使うほどお前らはいろんなことを忘れていく。そのことまで忘れたわけじゃあるまいな?」
「はい。大丈夫です」
「念のためにこっちも確認するか?ん?」
メモリさんが差し出したのはアルバムだった。だが、朧は首を横に振った。
「そこまで大それた使い方はしてません」
「どうだかな」
メモリはため息を一つ吐いた。
「エネルギー量と失う記憶量は比例する。で、本題だ。お前は何を使った?」
「空気の爆発と大砲を一発ずつです。俺が忘れてなければですけど」
「忘れたのは『お使い』だけか?」
「いえ、雑誌を買いに行ったっぽいです。レシートがありました」
「買ったのか?」
「らしいんですが、俺は持ってなくて・・・どこかに置いてきたみたいです。あと、さっき歌燐に確認したら出かける前後の記憶も消えてました」
「・・・まぁ、そんなものか」
メモリは深く椅子に腰掛けた。古びた椅子が音をたてて軋んだ。
「それじゃあ次に大事なことだ。お前は『魔法』を何に使った?」
朧は口を噤みかけた。
「覚えています」
記憶は消えていない。だが、それを言うのは少し怖かった。言ってしまうことが怖かった。口にだし、形にしてしまうことが怖かった。
「・・・言いたくないのか?」
「いえ・・・その・・・」
言わなくちゃならない。特に後ろにいる二人は知っておかなければならない。それは、身に迫る危険だ。知らないことこそ危険だった。
朧は大きく深呼吸をして心を奮い立たせた。
「相手も・・・魔法を使ってたんです」
後ろの二人が小さく息を吸い込むのがわかった。それは込み上げた悲鳴を押し殺したような音だった。
「・・・間違いないのか?」
「俺と同じ空気を媒介にするやつです。空気を爆発させて加速したり。空気大砲をぶち込んだり、見えない盾を造ったりしてました」
「ちょっ、ちょっと待ってよ!」
後ろから歌燐が口を挟んできた。
「私たちがいたとこはもう壊滅したんでしょ!メモリさんが物理的にも社会的にも全部ぶっ壊して。もう復活はできないってメモリさんが言ってたじゃない!それなのに・・・」
「私が壊したのは組織の頭にすぎない」
メモリさんは疲れたようにそう言った。
「どういうことですか?」
「頭を潰せば全てが死ぬ。それは生き物だけだ。研究の組織ってのは頭を潰しても体力のある手足は自分で這い出し、新たな宿主を見つけて再び動き出す。警戒はしてたんだが・・・」
メモリさんは少し目線を隠して何かを考えるような素振りを見せた。とはいえ、すぐに視線を戻した。
「それで、他に何かされたか?」
「えと・・・」
朧は記憶を辿る。戦って、一方的にやられた。問題はその後だ。『魔法』を使った前後の記憶がかなり曖昧になっていた。それでも完全に忘れたわけではない。朧は必死に情景を手繰り寄せて行く。
「なにか・・・怪しげな機械を俺に被せようとしてきました」
煩雑なコードが飛び出た帽子。モノクロの記憶がぼんやりと頭の中に残っていた。
「意識が朦朧としてたんであまり覚えてないんですけど」
「やられた後か?」
「ボコられた後にそれを被せられようとして・・・ヤバイって思って・・・」
「魔法を使ったのか」
「・・・はい」
仕方ない状況。だからと言って『しょうがない』とならないのは朧自身がよくわかっていた。
「・・・反省しているならいい」
「・・・はい」
メモリさんはそう言ってくれた。だが、反省は次に活かさねばならない。実際のところそれが一番難しい。
「ドブ川には投げ込まれたのか?」
「いえ、自分からです。少し意識を飛ばされたので、発信機の類を警戒してドブ川に飛び込みました」
「気休め程度だな。しないよりはマシと言ったところか・・・」
そう言ってメモリさんは窓から外を覗く。
「まぁ、ばれているなら、既に特殊部隊の一つや二つが来ていてもおかしくない。見つかっていないならすぐに嗅ぎつけられることもないだろう」
そして、メモリさんは話は終わりだと言うように椅子に深く座り込む。
「とにかく、朧は休め。疲労を残すと明日はタフな一日になるぞ」
「わかりました」
「後ろの二人もだ。不安はわかるが、過度の恐怖は逆に反応の遅れを招く。あまり気を張り詰めすぎるなよ」
「はい」
「はい」
三人の返事。それらを聞き、メモリは小さく笑った。
「声が硬いぞ。三人とも」
それは怖い夢を見て、眠れなくなった子供をあやすような声音だった。
「怯えなくていいさ。なにせ、ここには私がいるんだ」
母親の顔というのはこういう顔なのだろうか。
朧は実の母親の顔を知らない。いないのかもしれないし、忘れてしまっているのかもしれない。でも、メモリさんを見て自分がホッとしているのを実感すると「やっぱり」と思うのだ。
自分の母はメモリさんなのだと。
「なんなら一緒に眠ってやろうか?ん?」
冗談目かしてそう言って、メモリさんは笑った。
「遠慮しておきますよ」
そう言った自分の声もまた笑っていた。
「後ろの二人は?いらないか?」
「怖かったらのーりんを抱き枕代わりにします」
「・・・それはやめてください」
メモリは小さく笑い声をあげ、表情を引き締める。
「ああ、それと。明日の朝礼は朧が担当してくれ。私は朝早くに出かけることにする。お前の件で調べなきゃならないことができたからな」
「わかりました」
「それじゃ、おやすみ」
朧達は口々に「おやすみなさい」と言葉を返し、メモリさんの書斎を後にした。
扉が閉まる。静かになった書斎でメモリは小さく息を吐きだした。そこに先程までの笑顔はない。
「・・・さて・・・」
メモリは電話を手に取って番号を押す。電話の呼び出し音が幾度か鳴る。
「・・・わたしだ。至急調べてほしいものがある・・・ああ・・・報酬は弾む・・・ああ・・・大至急だ」
声は鋭く、目元は険しい。彼女はもう一度机の上の顔写真を眺める。男の子が一人と女の子が二人。その下にも何束にもなる書類が積み重ねてあった。
「・・・・・・・・・やらせはせんよ」