第2-3話 『Memory』
「うー寒い」
一人夜道を歩く朧は腕を組み、身を縮こまらせていた。外出した途端にいやに風が強くなった。念のためと思いジャージを羽織ってきたが、それでも顔を打つ風は防げない。明日は寒くなるのかとも思いながら、朧は本屋へと向かう足取りを早めていた。
駅前と言うには少し離れた場所にある本屋。大手ではないが11時まで開いているし、本のラインナップは充実している。とはいえ、店主の趣味のせいでやけにマニアックな雑誌も多い。
『戦艦名鑑』『F1・No.1』『廃墟巡り』『ゴシック建築の歩き方』『ベトナムあれこれ』
どういう基準で集めたらこれらが一つの棚に集まるんだ?
朧はその雑誌の中から格闘技の雑誌である『バトルマニア』を手に取った。最新刊であることを確認して、レジへと持っていく。淡々とレジを打つ中年の男性にお金を払った朧。気の抜けた「ありがとうございました」という定型文を受けて外に出る。すると再び冷たい風が朧に吹きよせた。
真っ直ぐ帰りたいのは山々だが、ポケットがやけに重い。重量的には紙切れ一枚だが、書かれてる内容が重い。というより面倒だ。だが、渡された以上はやらなきゃいけない。朧は諦めて少し遠回りになる道のりを選んだ。
風は時間が進むにつれて強さを増していく。朧は吹きすさぶ風に耐えつつ線路の高架下へと入った。風が止む。空気の流れの悪いこの場所。寒くない代わりに水の腐ったような臭いが滞っていた。煙草の吸い殻や空き缶が無造作に転がり、色あせたアスキーアートが無秩序の残滓を表現していた。風がやんだこの場所は五月の過ごしやすい温もりを感じられる。それでも、あまり長居したい場所ではない。暗いのも汚いのも別に気にしないが、狭いのは苦手だった。
大量の路線の下をくぐるせいで、やけに長い高架下。歩道を早足で歩きながら、朧は反対側から来る人のために片側に寄った。相手はサラリーマンだろうか。くたびれたスーツに縒れたネクタイ。お仕事ご苦労様と声をかけたくなる程のありさまだったが、会釈をするような相手でもない。完璧な赤の他人だ。
朧は何事もなくその人とすれ違った。
ふと、仄かな香りがした。
次の瞬間、脳裏をなにかが駆け抜けた。
白い部屋、白い人、白い記憶。
冷たい目、冷たい針、冷たい痛み。
何もかもがそこに無かった。
悪夢が蘇る。
「っつう!」
朧は野生動物のようにその場を飛びのいた。
「ハァ、ハァ、ハァ!」
振り返り、腰を落とし、拳を構える。呼吸が荒い。心臓が早鐘を打つ。足が震える。全身に頭の中の警鐘にが響き渡る。
「ハァ、ハァ、ハァ!」
明らかな過呼吸状態。脈打つ血管が痛いほどに高鳴る。筋肉は怒張し、背筋に汗が流れていた。朧は手負いの獣のように怯えている。
目の前には突然の朧の奇行に目を丸くしてるサラリーマン。朧本人だってわけがわかっていない。ただ、この人は朧を心底震え上がらせる何かを刺激した。
左手を開き、右拳を握る。腰を落とした猫足立ち。朧は目の前のサラリーマンに対し、全身全霊をもって徹底抗戦の構えをとった。
「ハァ、ハァ、ハァ!」
不思議な生き物でも見るように朧を見つめるサラリーマン。行ってくれ。どっかに行ってくれ。俺は危険だ。異常者だ。何も見なかったと思ってそのまま行け!朧は心底願った。
自分が何に怯えてるのかもわからない。だが、こんな一般人に暴力を振るう理由はない。このまま消えてくれるのが一番ありがたい。少なくとも朧からは無防備な背中をこの男に向けるつもりはなかった。
「格闘技ができるのか?」
ふと、その男は言った。妙に甲高い声だ。
「はぁ?」
この状況で何を言っている。
そう思ったが、怯えているのは朧一人。相手が空手の経験者とかだったら、興味を持ってもおかしくないのかもしれない。
「いやね。こんなところにいい人材がいるってわかって嬉しいんだよ。いやー本当にフィールドワークってのはいいね」
朧は返事をしない。会話が噛み合う気がしなかった。ただ、自分の全身から吹き出る冷や汗がやけに気持ち悪かった。
「知ってるかい。格闘技の型だとか、野球のスイングとか、決められた動きを繰り返すことによる運動記憶ってのは通常の記憶の何倍もの情報量があるんだ。それぞれの筋肉の駆動、それに対するバランス維持、全身の約600の筋肉のわずかな動きすら一つの情報として記憶するんだ。そこらのメモ書きや日記程度で補える記憶とはわけが違う!」
悦に浸るように喋る男。ここに来て朧は一つの確信を得た。何かがオカシイ。
頭の上を電車が通過する。重い金属の音とわずかな振動が高架下に流れる。耳を痺れさせるような騒音の中でも目の前の男の口は動いている。まだ何か喋っている。
なんだこいつ。
「おっと、喋りすぎた。いやーどうも普段から講義をしてると説明好きになってしまうな。すまんかった」
拝み手で気の良さそうな笑顔を向けてくる。だが、こんな緊張状態ではそんなものはただの不協和音でしかなかった。
「それじゃあ、悪かったな少年」
背を向けてくれ。握り拳を強く締めながら祈る。
「全部忘れてくれ」
気がついた時にはサラリーマンが目の前にいた。
動きが見えなかったわけじゃない。ただ、反応できなかった。この世界にわずか一歩で10メートル近い距離を一気に詰められる人間がいるとは思わなかった。こんなの人間の動きじゃない。息つく暇もなく加速の乗った拳が顔面に迫る。構えていたおかげで防御が間に合った。強烈な打撃が前腕を襲う。だが、『驚き』そのものが朧の次の行動を遅らせる。次いでやってきたワンツーパンチ。腰が引けてしまい、対応できない。下手に受けたせいで前腕にダメージが残る。
相手のフックを仰け反るようにかわし、その勢いで後ろに飛んで間合いを測る朧。だが、またもやサラリーマンが目の前に飛んできた。こいつ無茶苦茶だ。
そう思った時には槍先のような鋭い蹴りが朧の腹を直撃していた。まともに腹に一撃を見舞われる。腹筋を締めていた程度では耐え切れない。腹の中がかき回されるような感覚。空気とともに唾液が口から飛び出る。朧は衝撃で後方へと激しく転がった。ジャージを着ていたにも関わらず皮膚がコンクリで摩り下ろされる。朧は水たまりに頭から突っ込む羽目になった。ドブのような臭いに辟易する。咳き込み、呼吸を整える朧。だが、目線だけはサラリーマンから切らしはしない。こいつから目を逸らすことをさっきから続く恐怖心が許さない。この男の危険性を体が全身で訴えてきていた。
三度目、サラリーマンが目の前まで飛んできた。
「まずは捕獲だ」
振り下ろされる右拳。朧はそれを転がってかわす。さらに足をブレイクダンスのように振り回して立ち上がる。格ゲーの立ち上がり技のような攻撃だ。さすがにそこに飛び込まれることは無かった。
「ハァ、ハァ、ハァ!」
呼吸が整わない、過呼吸が続いている。朧は腹をかばいながら更に後退。高架下から月明かりの中に出る。再び吹き寄せる冷たい風。広い空間に出て、朧の胸の内が少し楽になった。朧はもう一度サラリーマンに相対した。やはり怖い。腹の底が凍りつくような根源的な恐怖。それが朧の反応を鈍くしていた。
今もなお手足が震え、動悸がする。
ただ、その恐怖が逃げることを全力で否定する。こいつに背を向けたら間違いなく後ろから撃たれる。ここをしのぐには、こいつを昏倒させるしかない。できれば記憶が混乱する程の一撃が欲しい。
「あまり逃げるな。黒字にならないだろ」
黒字。なんのことだ。
疑問が浮かぶが、口にする暇は無い。
四度目。またサラリーマンが飛んできた。
「おらぁぁぁぁ」
中年男には似合わない厳つい叫び。加速の乗った右拳が迫る。
棒立ちからほぼ無挙動で10メートル近くの距離を詰める超加速。確かに驚異的だ。ただ、少し慣れてきた。拳をいなし、腕をとる。相手の勢いのまま腕を引き寄せ肘を水月に叩き込んだ。朧の踏み込みと相手の勢いが肘の一点に乗ったカウンター。一撃必殺だ。一撃必殺であって欲しかった。
手応えがおかしい。まるで、ミットを殴ったような感覚。嫌な予感がして肘ごと身体を引き剥がした。裏拳で牽制しつつ、距離をとる。
「まったく。無駄なエネルギーを使わせるな」
まるで効いてない。腹にプロテクターでも仕込んでたのか。五度目の瞬間加速。またもや『驚き』で反応が遅れた。いきなりやられると対応できない。拳を前腕で受ける。腕が痛みで痺れた。だが、次のラリアットのような大振りのフックはかわせた。ワンツーやアッパーを織り交ぜたコンビネーションもしのぎ切る。
ここまでの戦いで朧は相手の実力を把握した。こいつの瞬間的な加速は驚異だが、肉弾戦そのものは素人に毛が生えた程度だ。腹にプロテクターがあるなら狙いは頭。
サラリーマンの大振りの左フックを取り、関節を決める。ガラ空きになった脇腹に足刀と呼ばれる前蹴り。やはりミットを打ったような感覚。だが、これは牽制だ。朧はそこから更に三段蹴りにもちこんだ。大腿、頭部の順に蹴りを打ち込んだ。全力で振り切った蹴りのはずだった。顔面の骨にヒビを入れられる程の一発だった。
「だから、無駄なエネルギーを使わせるなと言っているだろう」
「なっ!」
手応えがおかしい。なぜ、頭部への攻撃にすらミットを打つ感触が残る。
答えは一つ。それを朧は知っている。
朧に戦慄が走った。恐怖が爆発する。
「ここまで来たらもう引けないからな」
瞬時に離れて間合いをとる。
鳥肌が立つ、過呼吸になる、動悸がする。
だが、そんな次元を吹き飛ばす程の殺意が体を駆け抜けた。
こいつは殺さなきゃならない。
少なくとも口は封じる必要がある。
今度は朧から突っ込んだ。二段蹴り、ストレート、フック、掌底アッパー、足刀、上段回し蹴り。息もつかせぬコンビネーション技を叩き込む。全ての攻撃は命中している。なのにサラリーマンは微動だにしなかった。
「んん、なんか変だぞ」
更には一人考え込むしまつ。朧は更にありったけの連撃を打ち込んだ。だが、その攻撃の手応えはまるでない。脚部、腹部、頭部へのあらゆる攻撃、男の急所たる金的への攻撃ですら何かに阻まれる。それは、硬いようで柔らかい見えない壁。衝撃を全て吸収されているという表現が一番適切だ。
打撃はきかない。だが、タックルを仕掛けたり、関節を取りにいく姿勢を朧は見せない。いつでも後退できるような間合いを保ち続ける。
「おかしいな」
サラリーマンが急激に後退した。さっきまでの急加速を使ったのだろう。一瞬で10メートル近くの距離が開く。サラリーマンの表情が高架下の影に入り、見えなくなる。
「ハァ、ハァ、ハァ!」
朧の呼吸はやはり荒い。無呼吸での連続攻撃に加え、焦りが募っていた。いつもより疲労が溜まるのが早い。前に出るべきか朧は悩む。
「おかしいな。お前」
サラリーマンが朧を指差す。教室で生徒を当てる教師のような仕草だった。
「この私の防御方法を体験してどうして驚かない。なんで普通にしている」
まずい。朧の中で警鐘が鳴り響く。
「お前、『これ』を知ってるな」
サラリーマンがその場で手を払った。ほぼ同時に朧の腹に何かが直撃した。肺から空気が絞り出される。更にサラリーマンは笑みを浮かべながら指揮でもするかのように手を振る。その度に朧の体を強烈な衝撃が襲う。
まずい。ここは奴の間合いか。
後悔したがもう遅い。
腕をあげて顔だけは防ぐ。しかし、がら空きのボディには次々と衝撃が襲いかかる。
「どこだ。どこで知ったんだ。いいぞ、興味深い。面白い。これだからフィールドワークはやめられない」
前後左右、四方八方から連続した攻撃。その全ては朧のボディを狙ってきていた。
こいつ、なぶり殺すつもりなのか。
「教えてくれ。お前の記憶を消す前に教えてくれ」
サラリーマンの腕の振りがヒートアップしていく。それに応じるように朧への攻撃も激しさを増していく。気が飛びそうになる毎に次の衝撃で叩き起こされる。拷問のような時間。永遠に殴られ続ける地獄の中ついに朧の膝が崩れた。
「いやっはぁー」
歓喜の叫びが聞こえたと思ったら、朧の側頭部に激しい衝撃。意識が自分の手から離れかける。わずかに下がったガードの上から更に一発。額にストレートをくらったような痛み。ふらつく体を支え切れず朧は仰向けに地面に倒れた。
既に意識が朦朧としていた。
「と、まぁ。このまま尋問をして包み隠さず全てを喋って欲しいんだが。やはり無理そうだな。私も時間があるほうではないのだ。残念極まりない」
耳鳴りの向こう側からサラリーマンの声がした。いつの間にかかなり近くにきているらしい。
髪を掴まれ、持ち上げられる。薄っすらと開いた目から趣味の悪い帽子が見えた。カラフルなコードがあちこちから飛び出し、所々に設置された基盤にはカバーもついていない。ろくな機械じゃないことだけはよくわかる。
「とにかく、君のせいでかなりのエネルギーを消費したんんだ。その分の記憶はいただくよ。それじゃあ」
『記憶』『いただく』そして『エネルギー』
足の震えは止まっている。握った拳に力が入る。まだ、動ける。
「友達にバイバイするんだね」
「ふざけんな」
途端、朧とサラリーマンの間の空間が爆発した。サラリーマンが仰向けに吹き飛ぶ。だが、無様に地面に横たわることはなかった。彼は何かに受け止められたようにバランスを保っていた。
「まだだ」
立ち上がっていた朧。朧とサラリーマンの間は約3メートル。拳は届かない。それでも朧はその場で地面に強く踏み込んだ。
全身全霊をかけたような気迫。
魂を込めた正拳突きを放つ。
届かなかったはずの拳の先から何かが飛びだした。今度はサラリーマンが衝撃を受ける番だった。
水月へと刺さった衝撃は直にサラリーマンの体に届く。
だが、やはりあの不可視のミットの阻まれたのだろう。サラリーマンは平然としていた。
「そうか、なるほど。語るに落ちるとはこのことだな少年。『これ』が使えるということは、必然と答えが出たぞ」
「講義をすんのもそこまでだ」
「いや、授業は終わりだよ。これ以上は赤字になりそうなんでね。次はもう少し準備してから伺うとしよう。また会おうじゃないか、少年よ」
「待てぇっ!」
去ろうと背を向けるサラリーマン。走り出した朧の前に強烈な風が吹き付けた。嵐の中かと思う程の暴風。目も開けてられない。踏ん張るだけで精一杯。飛び回る小石が朧の頬や腕を傷つけていく。
風が止んだ時、サラリーマンの姿は消えていた。それなのに、朧の中はまだ荒れ果てていた。サラリーマンが消えたことの安堵より、逃がしたことの後悔が上回る。朧は自分の身を抱え、蹲った。
「ちくしょう」
小さく悪態をつく朧。体に残るダメージが体を強張らせ、震わせる。膝からコンクリの冷たさが這い上がり、全身の打撲が鈍く痛んだ。
「ちくしょう」
こぼれ落ちた汗はシミを作ってすぐに消えてしまった。