第2-1話 『Memory』
拳が風を切る。足の裏が畳を掴む。突き出す拳から汗が飛び散る。無駄の無い筋肉がしなやかに骨を動かし、鋭い連撃を刻み込む。だが、その拳は決して目の前の相手を打倒するには至っていなかった。
鋭い突きと蹴りによる打撃を主とする武術。空手の技を駆使して相手のボディや顔面に向けて攻撃を繰り返す。しかし、相手もさるもの。こちらの攻撃はそのほとんどが回避されるか、左右に受け流されていく。
「ったく・・・このぉぉ!」
雄叫びと共に相手を押し切るつもりで相手の間合いへと踏み込んだ。その瞬間、相手の拳が視界から消えた。裏拳が来ると気づく前に、固い手の甲が右側頭部を襲う。ガードできたものの、振動が頭の中まで響いてくる。続けざまに回転に任せたボディフックが迫る。前腕で防いだが骨が軋む音がした。それでも相手の攻撃は止まらない。後ろ回し蹴りが一発。その直後に軸足を入れ替えて上段に回し蹴りが飛んでくる。一撃ごとに防ぐ腕が悲鳴をあげる。あまりの速度と威力にいなすこともかわすこともできなかった。だが、チャンスだ。回し蹴りの直後は隙ができる。そこを目がけて上段への突きを狙った。相手は蹴りの勢いのまま体を回転させ背を見せている。この攻撃は通る。そう確信していた拳は強力な一撃で横に払われた。またもや裏拳だった。無茶苦茶だ。死角から打ち込んだはずの拳に裏拳をぶち当てて回避するなんて、常人にできる芸当じゃない。
裏拳で拳が払われ、体が流れる。やばい、と感じた時には振り上げられた前蹴りが目前まで迫ってきていた。顎を蹴り抜かれ、口からマウスピースが吹き飛んで行った。普通に痛い。マジで脳が揺れた。
世界が回転し、意識が朦朧とするままに体が畳の上に倒れていく。
そこでちょうど試合終了を告げるタイマーのブザーが鳴る。
「ふん、38点ってとこか」
畳に大の字に倒れながら、そう評価を下してきた人物を見上げる。金髪の長い髪を振り乱し、白い道着を身に着けた細見の女性がその蒼い瞳で見下ろしてきていた。モデルのように細い体格なのに、格闘技の腕は達人の域である。いつものように悪魔の所業をする天使のような人である。
「内訳を聞いても?」
いまだ世界が回転しているため、立ち上がることができないままそう尋ねる。
「一般の経験者への有効打が四割。そこから手の引きが悪い攻撃が二回で減点2だ」
的確すぎる評価は蟻の這い込む隙間もなかった。
「空手を始めて二カ月にしては、まあ悪くない評価と言っておこう」
「どうも」
「とはいえ、他の格闘技をいくつか学んでいるお前にしては覚えが悪いぞ。要精進だ!」
「はい」
視界の揺れがようやく収まってきて、立ち上がる。
「礼!」
彼女の掛け声に従い、頭を下げる。
今しがた酷評を受けた少年の名は海馬 朧。短い髪と引き締まった中肉中背の彼は高校二年だ。それ以外のプロフィールは実のところ存在しない少年である。もちろん、国籍や入学書類、その他諸々の権利書には彼の情報は乗っている。だが、そのどれもが偽造という代物。理由は明白。忘れてしまったのだ。
「さてと、そろそろ私は晩飯の支度にとりかかる。女子供を引っ張ってこい。飯にする」
「聞き方を変えればそれって悪魔の晩餐だよな」
「御託はいい。私が子供、お前は女を連れてこい。できるだけ早くな」
「だから、なんで人さらいみたいな言い方になるんだよ」
からかっているわけでは無いのだろうが、どうもこの人の日本語は乱暴だ。誰に教わったんだろうな。そもそも、この人がどこに国の出身なのかもこちらはよく知らない。知っているのは彼女の名前が「メモリ」で、俺の保護者だということぐらいだ。
「メモリさん。今日の晩飯は何ですか?」
「活きのいいのが入った。楽しみにしていろ」
「はいはいっと」
それなら楽しみにしておこう。
朧は体を思い切り伸ばした。
道着を着替えて、朧は格技場を後にする。世界を照らす太陽は既に傾きかけ、茜色に世界を染めていた。まだ春先のこの時期は少し肌寒い。運動直後の体にはちょうどよかった。とはいえ、体が冷え切る前に移動することにこしたことはない。少し早足になりながら敷地内を歩く。ここは親のいない子供を引き取る養護施設である。廃校になった大学を丸ごと買い取っているので敷地面積だけでいけば日本最大である。とはいえ、管理しているのはメモリさん一人なのでどうしても管理が行き届いていない。こうして移動している間にも板で封鎖している建物の前を横切ることになる。それでも、手狭よりはいいのかもしれない。
そんなことを思っているうちに目的の建物にたどり着いた。体育館だ。中には剣道場や卓球場もある二階建ての体育館。だが、朧の目的は地下にあった。外靴を脱いで、体育館にあがり一呼吸置く。薄暗く、狭い階段を朧は下っていった。
地下に進むに従い、音楽が聞こえてきた。くぐもった音はどんな音楽の種類かはわからなかった。だが、この下にいる人がそれを流していることは知っていた。
階段の踊り場でガラス扉を開ける。どうやら、流れていたのはジャズだったらしい。
その部屋はダンスレッスンの部屋だ。四方の壁の内一面は鏡になっている。他にも体を支える為の手すりが設置され、脇にはバレエ用のトーシューズやタップダンス用の靴まで揃えられている。ダンスと名のつくものは何でもできるように配慮された部屋。その部屋の真ん中で英語の歌詞を歌いあげながら、汗を流す女子がいた。Tシャツと短パンというラフな格好だがその目は真剣そのもの。長い髪はアップにしてポニーテールでまとめており、白い首筋が露わになっていた。少し釣り目気味の瞳は本人のコンプレックスらしいが、朧としては意思の強さが感じられて結構気に入っている。
彼女の名前は舞姫 歌燐。
あまりに集中しているのか入ってきた朧には気が付かないようだ。朧はドアをノックして注意をこちらに向けさせる。歌燐は一瞬だけこちらに目を向け、リズムに合わせて中指を立てた。そして次のタイミングで親指を下に向ける。
一曲終わるまで待っていろということらしい。
朧は部屋の中に入って壁に背を預けた。ドアは開けておいた。
彼女の動きは綺麗だ。バレェのような流動的な綺麗さではなく、ストリートダンスのような緩急にキレのある動きだ。曲調に合わせているのか、このダンスがそういう動きを基礎とするのかはダンスを知らない朧には今一つわからない。曲のリズムがアップテンポなので多分前者なのだろうとは思うが。
曲が終盤にさしかかる。盛り上がりに至るにつれて歌燐の動きは激しさを増していく。一回転し、足を高く上げ、体を振る。一部は格闘技に通じるものもあるが、朧からしてみたら無駄な動きが多い。ダンスとは動きを大きくして魅せる必要があり、格闘技は直線的なものが多いからそう思うのだろう。最短で拳を叩き込むのに大振りする必要はない。
曲が終わる。歌燐が指をピストルの構えにして真っ直ぐ前に突き出していた。キメポーズをしている姿は十分様になっていた。歌燐はその指を朧に向ける。
「バーン」
「撃たれたふりでもすればいいのか?」
「そういうのは無言で乗ってくれてもいいんじゃないの?」
少しきつい視線を向けられ、朧は肩をすくめてそれに答えた。
「相変わらずノリが悪い。で、何の用?」
「用が無いなら来ちゃ行けないのかよ?」
「用が無かったらほとんどここに寄り付かないじゃない」
「だって、ここ汗臭いんだよ」
「あんたの道着の方が十倍臭いし、格技場は百倍臭い」
「だからお前も格技場に寄り付かないんだな。納得した」
「私は朧がそこにいるから行かないの」
「ひでぇ、仮にも家族だろうに」
「『仮』でしょ。血の繋がりもないくせにそんな話持ち出すな」
皮肉めいた言葉の押収だが、二人の声音は穏やかだ。それは友人というよりも兄弟のやりとりに近いように見えた。ただし、歌燐が言うように二人に血の繋がりは無い。というよりも彼女にも名前以外のプロフィールは存在しない。
「で、今のはジャズダンス?」
「ええ、そろそろ覚えたから次の種類に行きたいんだけど・・・あっ、朧ってカポエラって使える?」
カポエラ。蹴り技を主体とする南米発祥の格闘技。ただその内容は戦闘ではなく、ダンス的な要素が多分に含まれている。リズムを取り、相手と呼吸を合わせ、当身を下策とする格闘技は世界広しといえどもなかなか見当たらない。
「まぁ、一通り覚えたけど」
「今度おしえてよ。次はブレイクダンスをやろうと思ってさ」
「ブレイクダンス?まぁ、動きは近いのか?まぁ、それぐらいなら時間がある時に教えてやれるけど・・・そん時は格闘場に来いよ」
「ええ・・・」
ブーイングをあげる歌燐。
「まあいいや。それで?用件はなんだったの?」
「そろそろ飯だ。メモリさんが連れて来いってさ」
「えっ、もうそんな時間?」
時計を見上げると確かに時刻はそろそろ6時に差し掛かる頃合いだ。地下のこの場所では時間の進みがわかりにくい。それ程夢中になっていたってのもあるのだろう。
「片付けてから行くから、先行っといて」
「待っててもいいぞ」
「朧がいたら着替えられないでしょ。さっさと出て行って」
突き放すような言い方だが、朧は特に気にしなかった。この程度のやりとりはいつものことである。
「あ、そうだ。今日の晩御飯は?」
「さぁ、活きのいいのが入ったって言ってたけど」
「そう」
そっけない答えだが、彼女の顔はほころんでいた。
「嬉しそうで何より」
「うっさい!ほら、もういいから出てって。シッシッ」
「へーへー、犬猫は退散しますよっと」
追い払われた朧は苦笑を浮かべながらも地下からの階段を上って行った。
体育館を出て、一度深呼吸。夜に移行する冷たい空気を肺に溜め込んで、吐き出した。
「さて・・・」
朧が次に向かったのは図書館だ。朧は既に機能しなくなった自動ドアをこじ開ける。入り口の電灯はモーションセンサーで自動的に光が灯るはずなのだが、それが壊れて既に久しい。薄暗い受付を通り過ぎると、すぐに巨大な空間へと踏み込むこととなる。広い読書スペースは三階までの吹き抜けになっており、各階には所狭しと本棚が詰め込まれている。廃校になってからもメモリさんが本を買い続けるので、処理しきれなくなった本が至るところに積み上げられて塔を形成していた。ここだけは管理に金をかけていて、本を傷ませないように業者までいれて度々掃除しているぐらいだ。そのせいかここは清潔な空気に満ちていた。格技場、体育館と埃っぽい場所を回ってきた朧にはそれが強く感じられる。
朧が呼びに来たのはもう一人の女子。名前は能登崎 凛堂。この子もまた名前以外のプロフィールが存在しない子である。
吹き抜けから図書館を見渡すと、三階にわずかな明かりが見えた。朧は階段で三階に移動する。
各階に備え付けられた小さな読書スペース。その一つに陣取り、本の山に埋もれるようにしてそいつはいた。
「よう、のーりん」
彼女の仇名を呼ぶが返事はない。こちらも歌燐と同じく一瞬だけ朧を見て、視線を本に戻す。だが、さっきとは状況が大きく異なる。
「おい、こら。その分厚い本を読み終わるまで待ってられないんだよ」
平手で頭を叩く。髪を短く刈った頭は形がよく、いい音がなった。
「・・・叩きましたね」
「ああ、俺が叩いた」
ようやく、こちらを向いた凛堂。眠そうな目はいつものことだ。
「・・・朧」
「なんだよ」
「邪魔です」
そう言ってまたもや本に視線を戻そうとする凛堂を朧はもう一発平手でたたいた。
「・・・叩きましたね」
二度目の反応に付き合うつもりはない朧。朧は彼女を取り囲んでいる分厚い本を持ち上げる。
「何読んでんだ?」
「六法全書です」
のーりんは大きな音をたてて本を閉じた。確かに表紙には六法全書の文字がある。
「面白いのか?」
「人の欲望の数が書いています」
凛堂の抑揚の欠ける喋り方もまたいつものことである。
「108個じゃ足りません」
「まぁ、そりゃそうだろ」
「除夜の鐘は1008回突いた方がいいと私は思います」
「あ、そう」
個人的には人間の頭を鐘に108回ぶつけたら煩悩は消えると思ってる。
朧は取り上げた本を脇に積み上げる。よくよく見てみるとそれらは全て法律関係の本だ。朧はその分厚さを見ているだけで眠くなりそうだった。
「これずっと読んでたのか」
「退屈でした。一日かかりました」
腕を伸ばして、大欠伸をする凛堂。伸びをする猫を連想した朧。この大きな猫の行動機序は知っている。
「おやすみなさい」
「させねぇよ!」
襟首を掴んで持ち上げる。小柄な彼女は簡単に持ち上がった。
「朧、何しに来たんですか?」
「その質問が本当に嬉しいよ」
朧は食事の時間だということを伝えた。やはり彼女も今の時間を聞いて驚いていた。歌燐の部屋には太陽がないが、ここには時計がない。そして、読書には夢中になりやすい凛堂のこと。時間を忘れてしまうことも多い。下手をすると食事毎に呼びにこないといけない程だ。
「ご飯、何ですか?」
「活きのいいのが入ったってさ」
「・・・楽しみにしておきましょう」
そう言いつつも、凛堂の瞼は今にも閉じそうだ。
「おら、立て。動けば少しは目が覚めるだろ」
「眠いです。ご飯持ってきてくれませんか?」
「ふざけんな。俺はお前の家政夫じゃねぇんだ。さっさと歩け」
背中を押して歩かせる朧。凛堂は千鳥足のように歩きだす。よくあれで転ばないものだ。歩きながらでも寝そうになる凛堂を歩かせて、朧は食堂へと向かった。