第4-6話 『約束』
狭い、暗い、出られない。そんな世界しかなかった。
朦朧とする意識の中で朧の脳裏には昔のことがフラッシュバックしていた。
一番幼い記憶にあるのは小さな子供部屋だった。そこにはたくさんの子供がいた。服は自分と同じ、背丈も一緒。ただその顔を思い出すことはできなかった。誰も彼も顔の無い姿で話しかけてくる。
「一緒に遊ぼうよ」
「隅っこにいないでさ」
「ねぇ、神様って知ってる?」
その一つ一つの台詞さえも記憶が曖昧だった。仲が良かった子もいた。悪かった子もいた。友達もいた、好きな子もいた。歌燐ものーりんもいたはずだった。それでも朧は誰一人思い出すことはできない。
そして、朧は連れ出されるのだ。
残るのは白い光、好き勝手動く体、そして強い痛み。
狭い部屋の中で同じ動きを繰り返す。何かを殴った記憶があり、殴られた記憶がある。魔法を使い、記憶を失い、そしてまた子供部屋に帰る。
『あの場所』に俺はいた。
決して逃げることのできない世界。苦痛の中の記憶と励まし合った優しい記憶。きっと楽しいこともあった、嬉しいこともあった。だが、朧の中に残っているのはただひたすらに誰かを殴る技術を頭に叩き込んでいたことだった。
今ならわかる。俺はきっといろんなことを何度も経験し、何度も忘れていったのだ。
「私?私はあなたの友達」
「大丈夫、また覚えればいいんだよ」
そして、また忘れるのだ。覚えては忘れ、覚えては忘れ。何も残らない程に俺は実験の対象になっていた。
「僕がやる!」
ずっとそう言っていた。冷たくて狭い実験室。白くて広い実験室。何度も行った。何度も帰ってきた。そしてまた自分から手をあげる。
たった一つ残った記憶がずっと訴えかけていたのだ。
『僕は皆を守らなきゃならない』
皆が誰かはわからない。なんで守らなきゃならないかなんて知らない。それでも、朧は何度も手を上げて自分から注射の針を受け入れた。痛くても、苦しくても、涙が出ても、それでも朧はやらなければならなかった。他の子が泣くぐらいなら僕が行く。他の子が怖がるなら僕が行く。
それはどんな時でもずっと心に残り続けた唯一の記憶。守ること、それが朧が覚えている唯一のことだった。
「・・・ろ・・・・」
どんなに実験に加わって記憶を失ってもそれだけは自分の中に残り続けた。だから俺の隣にはずっと誰かいてくれたんだ。ずっと誰かが優しくしてくれた。好きなおかずをもらった。絵本を貸してもらった。
小さなことだ。だが、それが俺が俺である証拠だった。
名前もない子供達の中で名前の無い生にすがりつく。自分と言う存在を保つには何か確たるものが必要だった。
「・・・おぼ・・・・」
そうやって残された記憶は今も朧の中に残り続ける。
「おぼろ・・・朧!」
呪いのような、お呪いのような、そんな言葉だった。
『僕は皆を守らなきゃならない。どんなことをしても』
「朧!朧!!」
名前を呼ばれていた。それが自分の名前だと認識したのはいつからだっただろうか。
朧は薄らと目を開けた。
「やっと起きた」
夕焼けが差し込んでいた。赤い光が満ちる体育館。静かだった。
「・・・あ・・・えと?」
後頭部に柔らかい枕、目の前には歌燐の顔。
「お前の膝枕気持ちいな」
「キモい」
「そう言うなよ」
「・・・平気そうね」
「ああ・・・」
思い出した。体育倉庫に閉じ込められたんだ。ひたすらに殴り続けた手や足が鈍く痛んでいた。
朧は目だけで周囲を見渡す。体育館の隅に寝ている自分と膝枕をしている歌燐。彼女の両肩にはそれぞれ一人ずつ寄り掛かって誰かが眠っている。右がのーりんで左が緑さんだ。それ以外の人は体育館にいなかった。
「他のあんたの友達は帰らせたよ。本当は緑さんも帰したかったんだけど、どうしてもって譲らなくてさ」
「・・・そっか」
「この子に謝る必要はないよ・・・あんたと二人きりになりたくて仕出かした出来事なんだから・・・」
「ああ・・・やっぱりか」
体育館に呼ばれた時からなんとなく何かたくらんでいそうな気はしていた。まさか、こうなるとは思わなかったが。
「でも、フォローぐらいしときなさいよ。かなり怖がらせたんだから」
「そうだな・・・」
朧は首の力を抜いて歌燐の膝枕を堪能する。どこか懐かしい。昔はこんなこともしてもらっていたのだろうか。記憶は一切ない。あの実験施設で過ごした記憶はもうほとんど残っていない。
「いつまでそうしてるの?」
「いいじゃねぇか・・・たまにはさ」
「・・・痛いんだけど」
「我慢しろよ。俺だってあちこち痛いんだ」
静かな体育館に二人の声が響く。歌燐の手が朧の髪に触れた。
触られるがまま、朧は目を閉じた。眠かったわけではなかったが、少し疲れていた。
目を閉じると視覚以外の五感が強化されるという話を聞いたことがある。そのせいか、朧は歌燐の香りを強く感じていた。少し汗の混じった彼女の香り。
「・・・なぁ、歌燐・・・俺、これ初めての気がしねぇ・・・」
「私も・・・なぁんか昔からあんたの枕になってた気がする。というか、泣いてる朧をこうやって慰めてた気がする」
「・・・そいつは・・・覚えてないな」
それでもずっと昔からこんなことをしている気もしていた。初めてのことのようにも感じるし、何度も繰り返した気もする。けど、歌燐が言うのなら初めてじゃないんだろうな。
辛いことを引き受ける度に、惨めな姿で帰ってくる度に、俺はこうやって大事な人に迎えられていたんだろう。
無様を晒して、泣きわめいて、それでも俺は前に出るしかなかったから。
朧の目の縁から、静かに涙が零れ落ちた。
ああ、ずっとずっと・・・こうやって穏やかに生きていけたらいいのにな・・・
朧の肩をリズムよく叩く掌。居心地の良い沈黙の中に二人はいた。
その沈黙を破ったのは歌燐の方だった。
「・・・朧・・・昨日は・・・言い過ぎた」
目を開けて彼女の顔を見上げる。歌燐は明後日の方を向いていた。
「そうか?俺はあれだけ言われてもまったく応えてないぞ」
笑いながらそう言うと、彼女は目を細めてこちらを見下ろしてきた。
「強がり言わないの。あんたのことは私の方があんたよりよく『覚えてる』んだから。顔色見ればだいたいわかる」
「・・・だな」
「・・・それと、言い過ぎたとは思ってるけど。あんたのこと、正しいとは思わないから」
「・・・・・・だな」
また、歌燐の視線が外れる。彼女の目は体育館に差し込む夕日に向いているように見えた。
「私は誰かを犠牲にしてもう生きたくない」
「誰も傷つかないで乗り越えられる壁なんかないだろ。俺達はさ・・・」
「だから、朧が傷つく。馬鹿な話」
馬鹿な話だ。
警察に話して片が付くならそれでよかった。弁護士に頼んで社会的制裁を加えられるならどれだけ楽か。だが、相手が朧達の持つ『魔法』を使えるなら、守る手段はたった一つ。圧倒的な暴力だけだ。相手も魔法を使えるならなおさらだ。警備会社の人間では役に立たない。下手したら傭兵相手でも互角以上に戦えるかもしれない。人間の記憶容量を最大限に使った『魔法』はもはや戦略兵器に等しい。
対抗できるのは同じ『魔法』だけだ。
「でもさ・・・」
「ん?」
「俺、かっこいいだろ?」
朧はできるだけ不敵に笑ってみせた。
「なにそれ」
冷めた声で歌燐はそう言った。
「男の子だからな・・・かっこつけたいんだよ。女の子を守るために前線に立つ。かっこいいじゃん」
「なにそれ」
今度は少し笑いながら彼女はそう言った。
「わかんねぇかな。男のロマンってのが」
「私だってロマンぐらいわかる。私達をあの場所から連れ出してくれたメモリさんみたいなことがしたいんでしょ?」
「わかってるじゃん」
歌燐は朧の額を軽く叩いた。
「いって」
「それはメモリさんの役目でしょ」
「でも、メモリさんがいないところで何かあったらどうする?一昨日みたいに」
「あの時は無警戒だった。でも今は違う。もう、朧が前にいかなくていいんだよ?」
「それでも・・・だ。俺はお前やのーりんや『Memory』 の子供達だけじゃなくて、メモリさんも守りたいんだ」
「傲慢」
「そうか?」
「自惚れ、自信過剰、自分勝手」
「・・・そうか・・・」
「・・・でも。あんた、いつもそればっかりだよね」
朧は口の中に溜まった唾を飲み込んだ。
「今更変わるかよ。俺は・・・そうやって自分を作ったんだ。記憶をいくら飛ばしたって俺が俺じゃなくなるわけないだろ」
全部忘れてしまっても皆を守るのが自分の役目だってことだけを俺は覚え続けていた。
『皆を守らなきゃならない』
それだけが、俺がずっと『あの場所』で生き続けていたという証拠だ。突然試験管から産まれたわけじゃない。あそこでいろんな経験をして、いろんなことを積み重ねたはずだった。そんな過去と今を繋ぐのがあの『約束』だ。過去の自分と忘れてしまった自分との約束。俺が生き続けた印であり、あそこには他の仲間がいたことの証明なのだ。
「何回過去を忘れても、過去そのものを否定してたまるか。俺は・・・俺達はちゃんと生きていたんだ」
「誰が止めても話を聞かないところは本当に変わらないね・・・もういいよ」
「なんだよ、もういいって」
「私はあんたのこと諦めることにする。朧が魔法を使うと思うたびに苛々するのも馬鹿らしいし」
「・・・・・・そっか」
「うん、もうあんたのこと、諦める。だから朧も私に認めてもらおうなんて考えない方がいいよ」
「それは・・・辛いな」
「ならやめる?」
「・・・やめねぇ」
歌燐は笑った。朧も笑った。
お互いに強がりばかりだ。
「その代わりと言っちゃなんだけど、私と約束して」
朧と歌燐の目がある。その中にある真剣な眼差しを受け止めて、朧は頷いた。
「全部忘れてもいいからさ・・・昔の約束を覚えとくなら、今の私とも約束して」
それはきっと歌燐がくれる免罪部のようなものなのだろう。
俺はきっと『魔法』を使う。
歌燐はそれを許してはくれない。
でも、その『約束』が忘れていない証拠となる。大切なことを捨てていないという証になる。
「・・・わかった」
「じゃあ、約束。私達を置いて行かないで」
ふと、思い出が鮮明に蘇った。
『置いてかないで!』
悲痛な叫び。
『もうやだ、もうやだよ。君はもう行かないで。置いてかないで』
誰かが泣いていた。
失っていない記憶、忘れていただけの記憶。
「・・・その約束、前もしたような気がするな」
「そうだっけ?」
「確かにしたよ。多分『あの場所』で・・・珍しいな。俺の方が覚えてるってのも」
「・・・だね」
朧は彼女の約束を口の中で繰り返す。『置いて行かない』
「言われるまでもないさ。俺だって『Memory』が好きだ。俺達はまだまだ若いんだぞ。こんな歳で、大人にもならずに死んでたまるか、皆のことを忘れてたまるか。俺の夢はな、大人になって、『Memory』のみんなと酒を酌み交わして同窓会をすることなんだからさ」
「そうだったんだ」
「今決めた」
「なにそれ」
朧は笑う。歌燐は笑う。辛い過去を吹き飛ばすように笑う。目の前にある不安を蹴散らすように笑う。
それだけが、今の二人の力になる。
そんな時、歌燐の肩で小さく凛堂が溜息を吐きだした。
「・・・・・・・・・・ふぅ・・・」
誰にも聞こえないような小さな溜息。凛堂は呆れたように片目を開け、そしてまた目を閉じた。のーりんが起きていることには誰も気づかない。気づいて欲しいとも思わない。歌燐の肩を枕にするのもなかなかに心地良いい。
「でも、大丈夫でしょ。メモリさんは超優秀だし、黒助はあれでもそれなりだし」
「だな」
「・・・メモリさんに謝っときなよ」
「ああ、そうだったな。でもなんて言って謝るか・・・」
「使う気まんまんだもんねあんた。そこを改善しないと」
「気持ちの問題なんだけどな。メモリさんは最初から『使う』って選択ありきでいて欲しくないんだろ。とりあえず『逃げろ』ってことなんだろうけどさ。やっぱそういうわけにもいかないよな」
歌燐はもう彼を否定しない。否定したい気持ちはある。でももうそれを言っても意味がないことがわかってしまった。二人の意見はきっと平行線をたどる。だったら喧嘩したままよりは仲直りした方がいい。そういう結論だった。
「嘘はつきたくねぇし。理解してもらうしかないのかな」
「メモリさん。あれで結構過保護だもんね。『全部守ってやる。ガキは心配すんなぁ!』って言いそう。あんたそっくり。ああ、逆か。朧がメモリさんに似たんだ」
「そいつは嬉しいな」
「マザコン」
「そこにシスコンとブラコンも突っ込んでいいぞ。お前だってそうだろ」
「まぁ・・・そうですけど」
その時、校内に放送が流れる。完全下校を促す放送だった。
「・・・・・帰るか」
「まずこの二人を起こさないとね」
「ところで、なんでこの二人はここで寝てたんだ?」
「枕にされたの。朧が起きるのを待っていたら眠りこけちゃって」
「そっか。いやーしかしお前の枕はなかなか寝心地がいいな。膝枕で寝たがる子らが多いのも納得する」
「褒めても何もでませんよ。あっ、そうだ。カポエラの約束忘れないでね」
「ああ、はいはい。次の土日にでもな」
メモリさんに頼んでおさらいしておこうか、と思いながら起き上がる。日は沈みかけ、もう周囲は薄暗くなっていた。




