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第4-4話 『約束』

翌日、朧はメモリさんの顔を見ないまま、そのメモリさんに見送られて学校に出かけた。

「朧、昨日のことはすまなかった。私も疲れていたんだ。許してくれ」

 そんなことも言っていたが、朧は何も言うことができなかった。「ごめんなさい」その一言が口から出ない。

歌燐も凛堂も朧と口をきかない。『Memory』はなんだか微妙な空気のまま朝を過ごしていた。一番下の子がその空気を怖がって泣いてしまったほどだった。朧は更にいたたまれない気持ちになって、逃げるように学校に出かけていった。

「はぁ・・・」

 こういう日に限って通学路に見慣れた友人はいない。いや、朧のことを友人とみなしているのなんてせいぜいクラスの中の一つのグループだけだ。そのグループだって桐花に連れられるように輪に入っていただけ。朧が友人とみなしているのは桐花一人だった。

 ふと、登校中の後姿に長い黒髪が見えた。見覚えがあるのはいつも斜め前の席に見えている後姿だったからだ。

 朧は鬱屈した気持ちを発散するように駆け出した。

「おはよ、緑さん」

「へっ!あっ、おっ、おはよ、海馬君」 

 突然に声をかけたのでびっくりさせただろうか。それ以上にわずかに赤くなった頬が雄弁に彼女の現状を物語っていた。

「め、珍しいね。こんな時間に」

「そうか?まぁ、うちは施設だからさ。子供達を送ったり送らなかったりで結構ずれるからな」

「へぇ・・・ねぇ、施設でのことって聞いてもいい?」

「ん?別にかまわないよ」

 それから彼女はいろんなことを聞いてきた。施設にいる子供の数や年齢層。「赤ん坊の世話をしたことがあるか?」なんてことも聞いてきた。

「もうさすがに慣れたよな。小4ぐらいになったら子守もほとんど任されたし」

「へぇ、大変だったんだ」

「ああ、メモリさん・・・えと、うちの寮母、保母さんか?まぁいいや『母さん』がメモリさんって言うんだけど、メモリさんもその時は一番忙しい時でさ。子供は一杯で、スタッフは一人で、俺も色々やったな。掃除洗濯はその時に一通り身に付いたし」

「へぇ・・・」

 そんなことばかりを話していた。昇降口につき、教室に入っても朧はずっとしゃべっていた。いつの間にかいつも話している連中も寄ってくる。それでも朧は喋り続けた。

「でさ、うちの料理ってどこかおかしいのが出てくるんだよな。ゲテモノっていうかグロものっていうか?」

「え?もしかして鳥を丸ごととか?」

「そんな上品なものじゃないって」

「豚の足?」

「ああ、沖縄にあるらしいな。いやいや、それでもぬるい」

「・・・もしかして、虫とか?」

「イナゴの佃煮が一昨日でた」

「うっそーそれって盛ってるってぇ!」

「・・・食わしてやろうか?」

「あは・・・あはははあ・・・冗談じゃないの?」

「昨日はまだましな方でエスカルゴだった」

「うえぇええ!カタツムリ!?以外と美味しいって噂は聞いたけど」

 ふとした瞬間、口が疲れたと感じるぐらい朧は久々に喋っていた。普段は人の話に合わせて笑ったり相槌を入れるだけの朧。今日はそんな彼の独壇場だった。

「あははは、海馬君って案外喋るんだね」

「そうか?俺はいつもこんなもんだろ」

「何言ってんだか」

 朧は時間が経つのも忘れて喋った。始業のチャイムが鳴った時は「もうこんな時間か」と驚き、歌燐が既に席についていたことにも驚いた。そして、桐花が「海馬、お前悪い物でも食ったか?」と心配してきたときは睨みつけた。

 俺だってこれぐらいのコミュニケーションはとれる。今までは学校では面倒だから喋らなかっただけだ。気が向いたらこれぐらい話す。そもそも、『Memory』にいる時の朧はどちらかと言うと多弁な方だ。

 そんなことを思いながら朧は授業を聞いていた。

家庭科の授業は実習でもない限り退屈で仕方ないものだ。朧はノートも取らずにぼんやりと黒板を眺めていた。内容は頭に入ってこない。前を向いているのもポーズだけだ。朧の意識はどこにも向いていなかった。

ただ、ぼんやりと何も考えず、思考を止めていた。眠る前のわずかな心地よさ。そんな中で朧はふと考える。

 当たり前の高校生活とはこういうものなのだろうか?いや、今までだって俺は高校生活を過ごしてきた。当たり障りなく、角を立てることなく、大人しく。それもまた一つの過ごし方だ。

 でも、どうしてそんなことをしていたのか?ここには本当に大切なものなんか作っていない。同学年の友人も、先輩や後輩の関係もない。ただ自堕落に過ごしていただけだった。

簡単だ。必要なかったんだ。朧には『Memory』があった、帰るべき家と共に過ごす人がいた。だから学校の世界はいらなかった。

 それももう、変えてもいいのかもしれない。

 朧の視界の中で何かが動いた。前の方の机から消しゴムが落ちたのだ。それは床を跳ね朧の足元で止まった。

「あ・・・・・・」

 振り返って朧と目があったのは緑さんだった。

 朧は消しゴムを拾い上げて、上体を伸ばす。

「ありがと」

「あいよ」

 彼女の細い手の中に消しゴムを落とした。

「つまり、ここで必要な栄養素は!」

 元気よく授業を続ける先生。朧の意識が授業に引き戻される。狸のような体形で、大きな眼鏡をかけている先生だ。動きは面白いし声も張りがあってよく通るのだが、いかんせんやる気が空回りしていると言わざるをえなかった。

 朧は改めてノートにメモ書きのように黒板の文字を書き写していった。もう、さっきまでの考えは頭に残っていなかった。




 放課後、朧は帰ろうと席をたった。

「あっ、海馬君。今日はどう?」

 すぐに緑さんから声をかけられた。

「どうって、何が?」

「ほら、ドーナッツの安売りがあるって言ったじゃん。今日もまだ続いてるから皆でまた行こうって話になっていて」

 朧は少し悩む。昨日と違い用事はない。少し面倒だとも思ったが、友人の頼みを特に理由なく断るのもどうかと思う。それに、今日は真っ直ぐ『Memory』に帰りたくなかった。最終的にそれが朧の背中を押した。

「まぁ、いいよ」

「よかったぁ!」

 緑さんがホッとしたような笑みを浮かべた。そんなに俺が来る来ないが重要なのだろうか。まぁ、少なからず好意を向けられているのは朧も知っている。彼女にとっては重要なのだろう。

「じゃあ、他の連中は・・・あれ?」

 朧はいつもの友人グループを探した。だが、その姿は見当たらない。直後、教室に一人の女子が入ってきた。

「あっ、緑!ごめん、ドーナッツは少し待ってくれる?」

「どうして?」

「ちょっと体育館の片付け頼まれてさ」

「えっ、そうなんだ?私も手伝おうか?」

「いいの?助かる?」

 朧の目の前でとんとん拍子に話が転がっていく。すぐに両者から「海馬君はどうするの?」という視線が飛んできた。

 ドーナッツを一緒に食べに行く手前、彼等が終わるまで手持無沙汰になるのは確定だ。そもそも案内してもらわないと場所さえわからない。

「あぁ・・・俺も手伝うよ」

「助かるぅ!!こっちこっち」

 朧はそのまま彼女に連れられて廊下を歩いて行った。階段を降りて一階へ、上履きを履いたまま体育館に向かう。

 そこにはバレー用のネットが張られ、バレーボールが散乱していた。

「おっ、手伝い来たぁあ!待ってたぜ」

 そこでは友人グループが片づけをしていた。

なんで彼等がこんなことをしているのだろうか?

そんな疑問は彼等の説明で解決する。

「バレー部の顧問から自主練してから片付けろよって言われちまってさ。自主練なんてしないってのにな」

 ぼんやりと彼等がバレー部だったことを思い出した。それと、今日は彼等の部活もなかったことも思い出す。

「片付けを手伝えばいいのか?」

「そうそう、皆帰っちまってさ。頼むよ」

 別に大した量はない。そう時間もかからないだろう。

 朧は片付けに取り掛かった。ネットを外してポールを片付ける。 朧は手早く片づけを続けた。とはいえ、たいした量は無い。別に俺が手伝わなくても良かったような気もした。

どちらにせよ暇だったので気にはしてない。それよりも、今から『Memory』に帰る時が憂鬱だった。

「はぁ・・・・・・」

 どんなに謝っても、結局のところ自分の意見を変えないことには仲直りにはならない。『魔法』を使わない。それは簡単な約束なようで、難しかった。メモリさんを説得はできないだろう。言いくるめられるほど口は上手くない。かといって嘘をついて守れない約束をするのは嫌だった。

「はい、海馬君、そっち持って」

「あ、ああ」

 おそらくこれが最後のポール。朧は緑さんとそれを担いだ。

 他の人達は朧達がそれを持ったのを確認して、もう帰る準備を始めていた。

「それじゃあ改めてドーナッツ屋に出発するぞー! 」

女子が音頭を取り、男子がそれに続く。まだ終わってねぇってのに。

朧はぼやきたいのをこらえる。

「って、時間やばいかも!セール終わっちゃわない?」

「うわ、まじだ。急がないと」

セールってのはタイムセールのことだったらしい。そんなセールをしているのは知らなかった。今度、昨日の詫びもかねて子供達を連れて行ってみようか。

「先に行ってていいよ。後はこれだけだから」

 緑さんがそう言う。朧も特に気にはしない。こっちとしてはドーナッツが食べられればそれで良い。

「そうか?んじゃお言葉に甘えていいか?戸締りも頼むぞ」

「ごめんね頼んだのに最後まで残ってもらっちゃって。二人のドーナッツは適当に選んどくね」

「いいよ。気にしないで」

 そんなことを言われては朧は口を出すことができない。言いたいことはあったが、まぁ小さなことだ。そんな一分一秒を無駄にせずに生きたいわけではない。

 朧は先にドーナッツ屋に行く彼等を横目に体育倉庫へとポールを運び込む。

ふと、朧の足が止まった。

「ん?どうかした?」

 後ろを持っていた緑さんが心配そうに言った。

「ああ、いや、なんでもない」

 朧は体育倉庫の扉を足で大きく開き、体育倉庫の中へと入って行った。バレーのポールは倉庫の一番奥。朧は何度か後ろを確認しながらポールを運ぶ

「海馬君、そこ気をつけて」

「ん?ああ、そうだな」

体育倉庫の中はやけに狭かった。窓は小さいし、鉄格子が嵌められている。物が溢れかえっていて、丁寧に荷物を重ねないと足の踏み場もなかった。

「降ろすよ」

「ああ・・・」

 ゆっくりポールをおろし、台に乗せる。これであとは倉庫の鍵を閉めればいい。

「さて・・・さっさと」

「あっ、ごっ、ごめん!ストラップ落としちゃった」

 条件反射のように舌打ちがこぼれた。

「・・・あ・・・・・・ごめん」

「ああ、いや、その・・・」

 不用意なことをした自分の舌を呪う。わざと彼女がやったわけではないのだ。

「悪い、気にしないでくれ。最近ちょっと嫌なことが続いててさ」

「・・・そう・・・なの?」

「だから、舌打ちしちまったのは・・・その・・・反射的な奴だから、ゆっくり探せ」

「あ・・・うん・・・ありがと」

 フォローになっていただろうか。彼女はこちらに背を向けてポールの置き台の周囲を探していた。

「手伝おうか?どんなのだ?」

「えと、猫のキャラクターの奴」

「ふーん・・・えーと・・・」

 朧は床に膝をつき、置き台の傍に屈んだ。

「多分、この辺だと思うんだけど」

 緑さんが隣に屈みこんできた。顔の距離が近い。彼女の横顔がすぐ隣にあった。汗臭い体育倉庫の中なのに、ほんのりと花の香りがする。

「・・・・・俺はこっちを探す」

 朧はその横顔から顔を逸らした。

「あ・・・うん・・・お願い・・・」

 別に彼女のことを嫌っているわけじゃない。ただ、そういう対象には見れない。それだけだった。

 しばらく、静かに体育倉庫の中を探す二人。そんな時だった。

 扉が動く音がした。

「はっ?」

 朧は急いで振り返る。体育倉庫の扉が閉まっていた。

「お、おいっ!!」

 金属が回る音。それは無常にも鍵がかかる音だった。

「ちょっ、待て!中に、中にいるんだ!おいっ!」

 朧はドアに駆け寄り、何度もたたく。ドアに内側からの鍵は無い。完全に閉じ込められていた。

「おいっ!おいっ!!聞こえないのか!おぃっ!」

 体育倉庫の外。

その声は確かに聞こえていた。

だが、そこにいる人達はにやにやと楽しそうに笑うばかり。

指の中ので鍵を回して仲間内で親指を立てあった。そして気づかれないように抜き足でその場を離れる。全ては友人である緑の恋の為だった。海馬には悪いが既成事実を作ってくれたまえ。そんな高笑いがこぼれそうな笑顔だった。

「おいっ・・・おいっ・・・・・・」

 外に誰もいない。それを朧が悟るまでそう時間はかからなかった。

 拳を叩く手が緩まってきた。朧はドアに体重をかけるようにして、うつむいた。

「あっ・・・ごめん、海馬君。私のせいだよね」

 緑は心の中で海馬に謝る。『完璧に私のせいです。ごめんなさい』と。だが、静かな体育倉庫で男子と二人きりという状況は思った以上に心臓が高鳴った。夕方ごろには鍵を開けに友人が来てくれることになっている。だから今は彼と少しでも間を詰めたかった。

「・・・・・・・・・」

「・・・海馬君、携帯持ってる?私、鞄の中に入れたままで・・・」

「・・・・・・・・・」

「あっ、大丈夫だよ。皆が私達が来なかったらすぐに気付いてくれるって」

「・・・・・・・・・」

「そっ、それとさ。ストラップ見つかったよ・・・って、今みつかっても遅いよね」

「・・・・・・・・・」

「海馬・・・くん?」

 反応がない。緑は少し不安になって彼に近づいた。

怒っているのだろうか?もしかして、わざとこの状況にしたことがばれた?それとも何か用事あったのかな?でも、ドーナッツ屋付いてきてくれるって言ってたし。

緑はかすかに彼の呼吸が聞こえるところまで近づいていた。

「ハァ・・・・・・ハァ・・・・・ハァ・・・・・」

「海馬くん?大丈夫?」

 心臓の鼓動が聞こえた。

「え?」

 最初は自分のものかと思ったがすぐに違うと気づく。自分で用意した状況ということもあって彼女は緊張などしていなかった。

 それは海馬 朧の心臓の音だった。周囲に響くほどに巨大な心音。異様な程に大きな音に部屋全体が拍動しているような錯覚を起こす。

「・・・・かいば・・・くん?」

 ためらいがちな声。緑は気づいた。彼の体が震えていることに。

「ハァ・・ハァ・・ハァ・・ハァ・・ハァ・・」

早くなる呼吸。海馬は俯いたまま。彼女はそっと彼の顔を下から覗き込み、そして小さな悲鳴を上げた。

「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ」

 顔全体に玉の汗が浮かんでいた。目は大きく見開かれ、白目は血走り、顔色は真っ青だ。こめかみや額には静脈が浮かびあがり、心音に合わせて怒張を繰り返していた。もはや、誰が見ても一目瞭然。完全に異常事態だった。

「ハァッ、ハァッ、ハァッ、アァッ、アアァ、アアア、アアアアアアアアアアアアアア!」

 彼の叫びが一際大きなうねりとなる。

「ヒグッ!」

 発狂したかのような海馬の言動に緑は反射的に後ずさりしていた。

なに?なにが?どうしたの?

なにがなんだかわけがわからない。頭の中はぐちゃぐちゃだ。

「あぁああああ・・・うわあああああああああああああああああああああああああ」

 そして海馬はその拳を振りかぶった。

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