第4-1話 『約束』
朧達が家に帰ると既に中はクリームの香りで満たされていた。「ただいま」と声をかけるとメモリさんの「おかえりー」という声が帰ってくる。朧は胸のつっかえが取れたように息を吐きだした。
やっぱりここに帰ってくると落ち着くな。
家の中と家の外。護ってくれるのはほんの数センチの壁だけだ。出入り口に至ってはガラス戸なので一瞬で破られるだろう。それでもこうも安心できるのはなぜなのだろう。
自分の居場所、自分の帰る場所。
朧は自然と笑顔になった。
「おら、家に帰ったら?」
「手洗い、うがい!」
「なら、行くべき場所は?」
そう言うと子供達は一斉に洗面台へと駆けていった。どたどたという音が『Memory』の中に響く。
「おーい、朧。ちょっと来てくれ」
「はーい」
ちょうど買ってきた荷物を置かなきゃいけないのだ。朧はそのまま食堂へと向かった。
「メモリさん、御使いを品を・・・」
「よっ、久しぶりだな朧」
食堂に座るその人の顔を見て朧の顔がものすごい勢いでゆがめられた。
「ここでなにしてんだ?ええ?」
「おいおい、ご挨拶だな」
汚らしいスーツにくたびれた趣味の悪いネクタイ。黒助だ。
「邪魔しに来たんだろ?邪魔だ。消えろ。死ね。二度とくんな」
「そこまで言う!?」
「メモリさん!」
朧は黒助を無視してキッチンの奥にいるメモリに声を張り上げた。
「黒助が食堂にます!今から追い出しますんで要件は後で!」
「おいおいおいおい」
「煩い、喋るな、死ね。だらやぁああああ!」
問答無用、情け無用の渾身の飛び膝蹴り。本気で当てるつもりで飛んだ。
「いい加減にしないか」
「なっ!」
いつの間にかメモリさんが俺と黒助の間にいた。膝を掴まれて、軸をずらされる。一瞬、体が流れたと思ったら世界が回転していた。合気道か柔道だろうか。気が付いたら胸倉と腕をつかまれたまま、朧は優しく床に背をつけていた。
「まったく、気持ちはわかるがいきなり蹴りかかるな」
「お前も気持ちはわかるのかよ!」
「てめぇ!メモリさんを『お前』呼ばわりすんじゃねぇよ!この蛆虫が!」
「朧」
優しくたしなめられ、朧は口を噤んだ。言いたいことは五万とあるし、ぶち込みたい拳は百万じゃ足りない。だが、メモリさんを怒らせることはしたくなかった。
「・・・それで・・・なんで俺を呼んだんですか」
朧は黒助がいないものと扱うことにした。
「ああ、いや。変なことは無かったかと思ってな。尾行されていたとか監視されていたとかそう言うことは無かったか?」
朧が落ち着いたのでメモリは胸倉から手を離した。
「・・・無かったです」
「あったな」
朧は黙る。それは肯定と一緒だった。メモリの小さな溜息が降ってくる。
「・・・朧、お前は・・・一人で抱えようとするな」
「・・・何もなかったですよ。ただ、ちょっと冷や汗かいたっていうか。虫の知らせがあったっていうか・・・」
「それが、『何かあった』というんだ。私はそういうお前が感じたこととか、思ったこととかを知りたいんだ。話してくれるか?」
そんな風に言われては朧が黙ってられるはずもない。朧は幼稚園であったことを話した。一瞬だけ感じた痛み、わずかに見えた走り去る車、そして全身の冷や汗。
「・・・そうか、となると・・・」
メモリさんは少し考え込むように顎に手を当てて、黒助の方を見た。
そんな奴に意見求めなくても。
朧は眉間に皺を寄せた。
「昨日今日でいきなりこの周囲の高校生を全て見張れる体勢を整えられるとは思わないがな。それができると言ったら相当な組織だぞ」
「私もそう思う。とにかく、できるだけ特定を急いだ方がいいな」
頭上で交わされる会話を聞きながら朧は上体を起こした。
見つかったかもしれない。つまりそれはまたあいつが襲ってくるということだ。それも、今度は向こうも準備してくるだろう。格闘戦だけでなく、捕獲用の武器や飛び道具も持ち出してくるかもしれない。次に無策で出会ったらきっと捕まる。
でも、俺には・・・『魔法』がある。
朧は自分の掌を見つめ、そして自分の頭に意識を集中する。チップが駆動する時に起こるわずかな機械音が骨伝導を通じて聴覚に届く。
もし、もう一度奴が襲ってきたら・・・
朧は迷わず拳を握りしめた。次は確実に仕留める。
「朧・・・何を考えている?」
低い声。
朧は顔を上げた。
目を鋭く細めたメモリさんが朧を見下ろしていた。
「え・・・あ・・・その・・・」
朧の声が委縮する。
メモリさんは怒っている。
それがはっきりと伝わる。
それは彼女の眉間に寄った皺だったり、固く引き締められた口元だったり、あるいはその体から発せられる熱気だったり。
今のメモリさんを前にすれば誰しもがわかるであろう怒気が伝わってくる。
朧は腹の底に氷でも流し込まれたかのような気分を味わっていた。
「何を考えていた」
昨日のような叱責する声じゃない。静かな湖面のような話し方だ。
だが、その内側にある荒波のような感情は言わずとも伝わってくる。
「・・・お前は・・・何も学んでいないのか?」
答えられない。
怒られるのがわかっているから。
だから、黙ってしまう。
それを肯定と受け取ったメモリは短く息を吐きだした。
「はぁ・・・お前という奴は・・・」
「・・・メモリさん」
「言い訳があるなら聞いてやる。お前が『魔法』を使おうと決意する理由を話してみろ。この私を納得させてくれるか?それが出来ないようであれば、お前は学習のできない猿同然だ」
「お、おい。メモリそこまで言わなくても」
「黒助」
有無を言わさぬ声に黒助さえも口を閉ざした。
「これは我が家の教育の問題だ。口を出さないでくれ」
「あ・・・う・・・・ああ」
うめき声のような同意をして黒助は口を閉ざした。
「さぁ、言ってみろ」
高圧的で威圧的にメモリさんは言い放った。
静かだった。子供達の声も聞こえない。まるで『Memory』から隔離されたような気分だった。
それでもここは俺の家なのだ。
そしてここには彼女達がいる。
朧は勇気を振り絞るように拳を固く結ぶ。
「・・・俺は・・・護らなきゃならないんです」
朧はもう片方の手も握りしめた。
そして、両方の拳を床につける。
「俺は・・・絶対に守らなきゃならないんです。あの二人を・・・例え、何があっても・・・守らなきゃならないんです」
メモリさんの顔を見れなかった。自分が身勝手なことを言っている自覚があった。
俺のことを大事にしてくれている人がいるのは知っている。
メモリさんがいる。歌燐やのーりんも俺に何かあったら心配してくれるだろう。桐花の奴だって泣くかもしれない。
それを全部かなぐり捨ててでも、朧はその『約束』を守らなきゃならなかった。
彼女達が決して不幸にならないように。
泣くことのないように。
一時でも長くぬるま湯に浸かっていられるように。
「その為に・・・俺は・・・戦わなきゃならないんです。何があっても、例え・・・」
メモリさんに見捨てられても。
そう続けようとした言葉は出てこなかった。
「・・・・・・・・・そうだったな・・・」
メモリさんは静かにそう言った。それはあまりにも・・・
「・・・・・・・・・よくわかったよ」
悲しそうな声だった。
「・・・・・・朧は・・・それでいいのかもな」
メモリさんは声を荒げるでもなく、失望するでもなく、ただただ悲しそうにそう言った。
メモリさんの『戦わせたくない』という気持ちが痛い程に伝わってくる。胸の中がギリギリと締め付けられるような気分だった。
わかっている。わかっていた。
この世界のどこに、『子供』を戦わせたい『親』がいるだろうか。
それでも頭の奥にこびりついたように残る『約束』がそれを振り払う。
「俺は・・・」
「・・・朧・・・歌燐と凛堂を連れてきてくれ。食事にしよう」
この話はこれで終わりだ。
そう言うようにメモリさんは朧に背を向けた。
その背中に朧はそれ以上声をかけることができなかった。
「・・・・・・はい」
ゆっくりと立ち上がる。
朧は出口へと足を向ける。
心臓のところが痛む。心なんて曖昧なものがどこにあるかなんてわからないけど、この痛みだけは本物だった。
そして、食堂を出た直後だった。
「あんた・・・何言ってんの」
声をかけられた。歌燐だった。彼女は廊下の壁に寄り掛かかり、うつむいていた。それでも目線だけはこっちを向いている。
視界に入れたくない物を無理矢理見ている。
そんな様子だった。
「なんだ、いたのか?」
口から出た声は驚くほどに低かった。自分が思っている以上に疲れているようだった。
「あんたとメモリさんが喧嘩してるって、小さい子達に呼ばれたのよ。急いで駆け付けたと思ったら・・・なに?さっきの」
「・・・なんのことだよ」
「とぼけないで」
彼女の声の端々にも隠しきれない程の憤懣が聞いてとれた。
「私達を守る?何があっても?馬鹿じゃない?」
「・・・そうだ。でも、約束した。俺はお前らを必ず守るって」
そう言うと歌燐は吐き捨てるように言った。
「あんた、まだ『あの場所』にいる気なの?」
「そうじゃ・・・ねぇよ」
『あの場所』
それは呪いの言葉だ。
実際に歌燐の放った台詞は朧の胸を深くえぐっていた。だが、朧は涙を浮かべることも、義憤にかられることもない。彼は表情一つ崩すことなく歩き出した。
「逃げんなよ。朧」
大の男も裸足で逃げ出すようなドスの効いた声だ。朧の足も止まった。
「あんた、どこまでバカなの?一人よがりで強がるのもいい加減にしなよ」
そう、強がりだ。ただの強がりだ。俺一人で強敵を相手にするということがどういうことなのかがわからない朧では無い。どんなリスクがあるのかを朧はよく知っている。
魔法を使えば記憶が飛ぶ。飛ぶ記憶はランダムというわけではない。
「私達を守る為に魔法を使ってみなよ。忘れるのは私達の思い出でしょ」
魔法はその時に考えていること、頭を占めていること、一番表層に浮かび上がっている記憶を消費する。誰かを守りたいと思えば思うほど、魔法を使った時に守りたかった記憶が消えていく。
「あんたは私達との思い出より、昔の約束が大事だっていうの」
「そんなわけがないだろ。だけど、思い出はつくっていける。二人がいなくなったら、それも無理になる」
「その考え方、私は嫌い」
歌燐の声は噛みしめた歯の隙間からこぼれたようなものになっていた。
「私達の過去の思い出が、無駄だって言われているみたいで、最初に捨てていいものみたいに言われているみたいで・・・ものすごく・・・嫌い」
落ちる沈黙。廊下に灯った蛍光灯が不穏な空気を察したかのようにバチリと音を立てて、一度だけ点滅した。
「朧が交わした約束は一つじゃないはずじゃん。もっと大事な約束を・・・いっぱいしたじゃん・・・なのに、それよりも大事だっていうの?」
「知らねぇなら教えてやるよ」
朧もまた無理やり絞りだすように言葉を紡ぐ。
「俺は・・・俺にとってはその『約束』だけが・・・俺である証拠なんだよ」
朧はまた歩き出した。もう、後ろから声はかからなかった。




