第1話 白い部屋
拳が風を切る。足の裏が無機質な床を掴む。突き出す拳から汗が飛び散る。無駄の無い筋肉がしなやかに骨を動かし、流れるような連撃を打ち続ける。
壁も床も真っ白な部屋の中でたった一人、体を動かし続ける。
部屋は暑くも寒くもない。気温も適切であるなら、湿度も適切だ。悪臭もしなければ騒音もない。声をかける他人もいないし、邪魔をする羽虫だっていない。体をぶつけてしまうような置物もなく、壁の場所さえ曖昧だった。ここには一定の空間があるだけだ。一つの作業以外にすることはなく、してはならない部屋だ。
そんな部屋の中心で静かに呼吸を繰り返しながら動く。
突き、刈り、掛け、蹴り、打ち、薙ぎ、払い。激しい動きは既に肌を赤く高揚させ、体温を否応なく上昇させていた。それに従うように産まれた汗だけがこの部屋の床に点々と追加されていく。
決められた動きを決められた通りに行うだけの作業。そんな単調な動きだけを既にどれほど繰り返したのだろうか。何もない真っ白な部屋の中で一人。語る相手も、戦う相手もいない。求められているのはただ動きを体に刻み付けることだけ。
そんなことをしている理由はわからない。忘れてしまった。
ただし、覚えなければならないことがある。それがこの動作だった。
「動きを記憶しろ」
頭の中で誰かが繰り返しそう助言していた。
その声は誰のものだろう?男?女?大人?子供?
そんな区別もつかない。だけど大事なのだということはわかる。大切なことなのだとはわかる。
殴って蹴る。蹴り上げて振り下ろす。左右を打ち分けて薙ぎ払う。飛びかかってえぐり取る。それが一連の意味を持った型であることは知っている。使っている武術の名前も知っている。なのにわからないこともあった。
「・・・・・・・僕は誰だ」
不意に口を付いて出た言葉は随分と甲高い。見下ろした体はまだ小さく、突き出した拳は頼りない。白い薄手のワンピースのような服を着ている子供。多分、それが自分だった。
名前も無い、歳も知らない、家族はいない、友達はいたと思う。それでもいろいろなことが思い出せなかった。
僕は誰だ、今はいつだ、ここはどこだ、なんなんだ、なぜなんだ。
わからないことばかり。疑問がわき出る。それでも体は休めない。止めちゃいけない。止めるわけにはいかない。止めたらまた悲しい思いをする。
それは嫌だった。
こんな部屋じゃ自分を傷つけることすらできないけど。ここから出た時に痛い思いをするんだ。僕だけじゃない。きっと友達も同じ目にあう。
注射は嫌だとあの子は泣いていた。頭が痛いとあの子は泣いていた。最後はきっと殺されるんだと、あの子は泣いていた。
これが僕の世界なんだと、僕は泣いていた。
「それじゃダメなんだよ」
部屋の中に声が響く。それは機械越しの、無機質で、粗雑な声だった。
声に反応したように体が止まる。
何もないはずの部屋に訪れた異物。それがこの場所に初めて訪れた異物だった。声は一度きり。唐突だったそれは空耳なのかと疑ってしまう。なのに、自分は上を見たままで止まっていた。
それはいけないことのはずだった。なのに、どうしても動きを再開することはできない。
何かが見えるわけでもない。真っ白な部屋ではどこに天井があるのかはわからなかった。だけど、声は確かにそこから降ってきたんだ。
きっとそれは天使の声だ。絵本で読んだことがある。
次の衝撃は足から来た。床が揺れていた。振動だった。それもまたこの場所に初めて訪れた異物。それが何かの前触れなのだろうと幼い頭で悟る。
これは多分悪魔の声だ。それもまた絵本で読んだ。
なら次はなんだろう。絵本の先を思い出す。
それはずっと待ち望んでいたものだ。きっと違いない。
期待した、夢を見た、憧れた、焦がれた、恨んだ、憎んだ、泣いた、泣いた、泣いていた。それが欲しくて泣いていたんだ。
振り返った瞬間にそれが訪れる。轟音、熱風、眩い光。何の苦しみも無い世界に痛みが訪れた。耳の奥が痺れたように痛んだ、吹き付ける風で肌が焼けそうだ、強い光は目を開けていることすらできなかった。だけど、確かに自分はそれを見たんだ。
白い壁が崩れて、奥に炎が踊っていた。悲鳴のような声が聞こえ、変な臭いが鼻に流れ込む。
「世界ってのは五感で感じるもんだ」
炎が彩る橙色の光を背にしてその人はそう言った。
「お前は、感じてるか?」
差し伸ばされる手。掌とその人の顔を見比べて、僕はその手を取った。取った手はやけに熱っぽくて、妙に力強くて、思った以上に薄くて、不思議な程に大きかった。
「どうだい?感じたか?」
僕はその人を見上げた。細い体に不釣り合いな程に大きなライフルを抱えて、その人は不敵に笑っていた。
僕は尋ねた。
「あなたは天使?悪魔?それとも、神様?」
その質問をその人は笑い飛ばした。
「天使でも悪魔でも神でも仏でも修羅でもない。私はね」
その人はライフルを投げ捨てて僕の目の前で掌を上に向けた。
「魔法使いさ」
掌から炎が燃え上がる。それが僕の頬を温めてくれていた。