紙がない男と漏れそうな男
ジワリと汗の滲むような暑い夜。
とうに日は沈み、人々の頭上には見事な丸い月が輝いている。
そんな月になど目もくれず、俺は夜道をひた走る。髪を振り乱し、額に浮かんだ玉のような汗を拭う事も忘れ、一心不乱に突き進む。
入っていくのはある小さな公園。昼間は子供たちの遊び場としてにぎわっているが、この時間は周囲を含めて全くと言っていいほど人気がない。
俺は公園にある小さな小さな建物に飛び込む。そう、公衆便所だ。
ここの公衆便所は非常に小さく、男女兼用で手洗い場と個室が二つあるのみ。中は薄暗く、嫌な臭いが充満している。しかし贅沢を言っていられる場合じゃない。
慌ててその二つある個室のうち、手前の一つに飛び込もうと手を掛ける。しかし扉にデカデカと書かれた「故障中」の張り紙を見て、俺はその隣の個室に手を掛けた。
しかし扉は動かない。よく見れば使用中となっている。
俺は苦痛に顔を歪めながら口を開こうとするが、俺が言葉を発するより早く個室の中から声が聞こえた。
「す、すいません。どなたかいらっしゃいますか!?」
酷く切羽詰まったような声。恐らく中年の、男の声だ。
俺もそれと同じくらい……いや、それ以上に切羽詰まった声で応える。
「は、はい! います。お願いです、早く出てください。もう限界が近いんです!」
「ダメなんです、紙がないんです。そこらへんに紙はありませんか?」
「か、紙ですか?」
腹をさすりながら薄暗い室内を見回す。しかし目に留まったのは蜘蛛の巣と中心に鎮座する絡新婦のみ。紙なんて欠片も見つからない。
「ありませんよ」
「うぐっ……クソッ」
「い、いまそのワード言うのやめてくれません?」
「すいません。しかし紙がなければ私はここから出られない」
個室内の男の言葉に、俺は深い谷底に突き落とされる様な絶望を感じた。
「馬鹿言わないでください!! 今更他のトイレまで我慢するなんて絶対に無理です! 自宅まで走っても10分以上かかるんだ!」
「フッ……走って着くなら別にいいじゃないですか。私なんて家に帰るにはここから駅まで歩いて電車に乗らなければいけないんですよ」
「パンツに少しつく程度、なんでもないじゃありませんか!」
「いいえ、なんでもなくありません。とにかく紙がない限り私はここから一歩も外に出ませんから」
「……あんた、朝になってもずっとそこにいる気かよ!」
「それも辞さない覚悟です」
「グッ……クソッ、なんて野郎だ」
「そのワードやめてください」
「あ、すいません」
俺は大きく深呼吸し、気持ちと腹を落ち着かせる。腹痛は少し収まりさっきよりは少し楽になった。しかしこの「楽」はジェットコースターで言うと頂上に上っている最中であるのと同じ。偽りの安寧の先にあるのは急転直下の地獄行きだ。あまりうかうかはしていられない。
しかし落ち着いたことで、隣にもう一つ個室があることを思い出した。
「そ、そうだ。便器は一つじゃない。故障中だろうが、この際どうでも良い……」
俺は希望を滲ませながらポツリとつぶやく。
個室内の男は嘲るような高笑いをした。酷く耳につく嫌な笑い声だ。
どうして男がそんな笑い声を出したのか。それは隣の個室を開けると同時に分かった。
「そ……そんな……」
狭いはずの個室がやけに広く感じる。便器がすっかり無くなっているのだ。
床にはられた素っ気ないタイルと小さな便器の跡が俺の絶望を煽る。
「ははは、どうだダメだったろう」
「ぐう……」
「ふははは、分かったら紙を――」
「分かった」
「……ん?」
俺は鞄からポケットティッシュを取り出し、隙間から個室内へと押し込む。
「な……こ、これは……?」
「安心しろ……水で流せるヤツだ」
「そ、そうじゃない! なぜ黙っていたんだ」
「ティッシュはそれだけだ。お前が使ったら俺が使えなくなってしまうだろ……? しかしもうダメだ、限界なんだ。頼むよ、もうダメなんだ」
ああ、予感がする。
急転直下の予感が。きっと最後の急転直下だ。
腹から地鳴りのような音がする。絶望の足音が一歩一歩確かに近づいてくる。
「漏らすくらいならケツを拭かずに帰ったほうがマシだ。何としても漏らすのは避けたい。漏らすくらいなら草むらに放ってしまったほうがマシなくらいだが、もう草むらまで行く体力も残ってはいない。お願いだ、できるだけ早くそれでケツを拭いてそこから出てきてくれ」
返事はない。
数秒の沈黙の後――男は隙間からそっとティッシュを返してきた。
「ッ!? どういうことだ、紙は渡したじゃないか!」
「……いや、本当は紙なんて必要じゃなかったんだ」
「どういうことだ」
問い詰めると、個室の中から鼻をすする音が微かに聞こえてきた。
まさか泣いているのか。男は声を震わせながら今に至る経緯を話し始めた。
「俺が腹痛に苦しめられたのは……もうずっと前のことなんだ」
「なッ……」
ずっと前、だと? すると、彼はもう数時間もあんなとこに閉じこもっているというのか?
だとすれば紙など必要ないはずだ。俺は彼に疑問をぶつける。
「そこまで時間が経てば、とうに乾いているはずだろう」
「そうだ。カピカピだ。尻も、パンツも……ズボンも」
「ッ!? まさかあんた――」
その一言で、俺は察してしまった。
彼は絶望を味わったのだ。俺よりずっとずっと早く。
「そう、俺は漏らした者だ。この公園のほんの少し手前で事切れてしまった。スーツ姿の大の男が……ハハハ、笑ってくれよ」
「いや、笑うと漏れそうだ」
「そうか、すまんな。まぁ、さっきも話したが家に帰るには電車を使う必要がある。会社は目と鼻の先だがこんな格好で出社するわけにもいかない。それでずーっとこの個室に閉じこもっていたという訳さ」
「で……ではどうして紙をくれだなんて言ったんだ」
「……ずっとここに閉じこもっているのは変だと思われるだろう。閉じこもる理由が必要だったんだ。紙がないというのはトイレに閉じこもる正当な理由になり得る。そこにトイレットペーパーがないのは分かっていたからな。俺が全部使ったんだ。ズボンを拭くのに。焼け石に水だったが。それに――正直言うと君にも漏らしてほしかった。仲間が欲しかった」
その一言に俺は背筋を凍らせた。
ヤツは見ず知らずの俺を絶望の淵へと引きずり込もうとしていたのか。何の関係もない、この俺を!
俺を苦しめたところで何の得にもならないはずなのに。人間とはなんと愚かで身勝手な生き物なのだろう。
俺は酷く絶望した。今にも気が緩んで放出してしまいそうだ。
しかし、男はふっと息をついてさらに話を続けた。
「でもね、気が変わったよ。君の必死さに感銘を受けた。そうだ、俺ももっと必死になればよかったんだ。ここに来るまでにいくつか商店があった。この時間じゃ閉まっているだろうが、俺が通った時には開いていたよ。我慢せずそこで頭を下げてトイレを貸してもらえばこんな事にはならなかった。いや、そもそもこんなところにいつまでも閉じこもっているのが間違いなんだ。もっと早くにここを出ていれば良かった」
しみじみと、昔を懐かしむ様に男は話す。
まるで自分の青春時代の話をしているかのよう。そうだ、彼にとってはもうすべて終わったことなのだ。だからあんなに懐かしむ様にしているのだ。
しかし俺にはまさに今自分の身に起こっていることである。そんなのんびり話されてはたまらない、
「うぎぎぎぎぎ……は、話してるところ申し訳ないんですが、出てくれるなら早く……」
「ああ……今出よう」
そう声がした瞬間、ギィギィと軋みながらゆっくりと扉が開いた。今にも飛び込みたいのを我慢し、中から男が出てくるのを待つ。
……しかし開ききった扉の先にはポツンと便器があるだけ。
先ほどまで俺と話していた男は、どこにもいなかった。
後から聞いた話だが、あの個室で昔死体が見つかったことがあったらしい。凍死だったそうだ。下半身が自分の糞で汚れていたことから、漏らした後トイレに閉じこもり、そのまま寒さで……と推測されている。運の悪いことに、その日は大雪が降っていたそうだ。
……そうだ、よく考えてみればあの男の言葉にはおかしな点があった。この辺りに会社などないし、商店街も何年か前に潰れてしまった。
あの男は幽霊だったのだろうか。それとも腹痛で頭がぼうっとしていたために聞こえた幻聴?
まぁ……今となってはどちらでもいい事だ。
俺の前にあるのは個室が開かなかったという事実と、個室が開いたという事実と、惨めに汚れたパンツだけ。
個室に誰もいなかった驚きで気が緩み、肛門も緩んでしまったのだ。俺はトイレを利用することなくトボトボ家路についた。
漏らしたその瞬間、驚いて目を見開く男が見えたような気がしたが……気のせいだったのかな。