アルタイル
闇の中に、ぽかりと紅い満月が浮かんでいる。目の前の光景を言葉で言い表そうとするならば、それが最も適した言葉であろう。ルーナは目の前のあまりに常識から逸脱した状況の中、そのような場違いな感想を抱いていた。
人間という生き物は、己の想像の範疇から外れた事象が起こると現実逃避をしてしまうらしい。呆然として頭が回らなくなっていたルーナだったが、サックスは内心驚きつつも異常な光景に呑まれる事無く素早い行動を行った。
懐から手に収まるくらいの、長方形の金属片を取り出す。一本は右手に、もう一本はルーナの前の地面に突き刺した。金属片に埋め込められた淡い青色の魔玉が、周囲の魔素に反応して魔法を発動する。
ペキペキ、と音を立てて空気が冷やされ、ルーナ達の前に氷の壁が作られた。
「あ……」
「それがありゃぁ、ちったあマシだろ。お前はそこでじっとしてるんだ……分かったな?」
普段のふざけた雰囲気を微塵も感じさせないサックスに、ルーナは思わず素直に頷きを返した。サックスは安心させるようにルーナに微笑みかけると、ゆっくりと前に進み出た。
頭上の紅い眼は、警戒をしているのかはたまた別の理由か。こちらをじっと見つめ続けるだけで一切アクションを起こさなかった。サックスはちらりと壁際に目をやり、アインの様子を見る。壁に身体を強かに打ち付けたようで、未だに目を覚ます気配はない。
しかし、見た目からはほとんど怪我をしていないようなので、危険の矛先がアインに向かない限りは大丈夫だろうとサックスは当たりをつけた。
右手を振る。
シャキンッ!! と音を立てて金属片の先から透明な刃が伸長した。長さは大よその、一般に生産されているサーベルと同じくらいだ。冷気によって冷やされた空気中の水分は、サックスの意思によって斬る事に特化した刃を形作る。
サックスが所持している金属片は、ごく最近開発された最新式の魔具だ。携帯性と隠密性をコンセプトに作られた試作品で、まだ市場には出回っていない物だが、とあるコネでサックスはその最新の魔具を持っていた。
(しかし……所詮は試作品。強度にはまだ疑問がある。ここはさっさと片付けた方がいいな)
今でこそ謎の眼はまったく動く気配を見せないが、何がきっかけになるか分からない。もしも、急に動く物を狙うような習性があったならば、ルーナ達を先に逃がすのは危険な可能性がある。問題は何故アインだけを狙ったかだ。
正直言って、この場にいる面子で一番警戒されそうなのはサックスのはずだ。なのに、アインを優先的に攻撃したのには何か理由がある。まずはそれを見極めてから退避の手段を考えればいい。
素早く方針を固めたサックスは、アインやルーナに重ならないように位置取りながら一気に駆け抜ける。瞬間的に冷気を操り、空中に氷の足場を作って跳躍した。左右に交互に跳びつつ、翻弄するように宙を舞う。
紅い瞳は、そんなサックスの動きにぴったりと視線を合わせている。
(そう簡単にはいかねぇか)
ならば、と。
サックスは手にあるサーベルを瞳めがけて振るう。体は空中にあるというのに、サックスのサーベルの軌道にぶれは無い。それこそ、素人ならばまともに振るう事すら難しいであろうのに、サックスはいとも簡単にしてみせる。
それは偏に、サックスの技術の高さ故だろう事に難くない。それ程に彼の剣閃は鋭く、そして鮮烈だった。しかし────。
サックスの剣戟は黒い手に阻まれた。先程、地面から生えていたあの手だ。それが、空間から生えるようにして伸びている。
それが四本。
「くっ!!」
サックスは刃が通らなかった事に舌打ちを漏らすと、即座に氷の足場を作ってその場から退避する。その瞬間、ようやく。
ついに、黒い手の暴力という形で紅い眼の行動が開始される。そこらの木の幹よりよっぽど太い手が、嵐のように蠢く。サックスの作った氷が容易く砕け、落下中のサックスを追う。落下しているサックスは即座に反応し、足場を作って跳び、体を捻じって避け、サーベルを使って捌く。
ズザザザザザ!! と、轍を作りながら地面に着地し、その慣性に逆らう事なく逆に利用しながら追撃を避ける。サックスは一瞬も立ち止まる事はせず、とにかく右に左に、上に下に、前に後ろに動く。
(だいたい分かって来たな……)
サックスは黒い手の攻撃を避けながら分析する。幸いと言うべきか、厄介なのは数だけでその動き自体は単純だ。ただサックスを追いかけるだけで、次を考えるような動きではない。それならば、回避行動をしながらでも、十分に観察できる。
黒い手の行動原理は、反射が最も理解しやすいだろう。あれがアインを攻撃したのは、先に彼が魔法による先制攻撃があってからだ。先程も同様に、サックスがサーベルを瞳に向かって振るって初めてアクションを起こした。
つまり、あの紅い眼は《攻撃してきた対象に対して反撃する》、という簡単な行動しか起こさない。どうやらそれは対象の意識が途切れるまで、というのもアインの例からしても妥当な考えだろうと思う。
それならば、アイン達に危害を加える事はないだろう。さらに念を押して、サーベルを瞳に向ける。
ドシュッ!! と、音を立てて発射された氷の刃は、真っ直ぐ紅い瞳に向けて飛来する。が、しかし。
刃は黒い手に阻まれ、カシャン、と音を立てて粉々に砕けた。サックスの作る氷の刃は、そこらの鉄よりも硬さ、切れ味共に上なのだが、黒い手の壁には傷一つ付く事はない。それは、氷の足場を壊された事から容易く予想していた事だったが、流石に射出した勢いも加わった一撃すら歯が立たない事にサックスは軽く驚いた。
だが、これで大体の情報は集めきっただろうとサックスは様子見を終える事に決めた。目の前のバケモノを倒す算段ならばある。後は仕込みをすれば良いだけだ。ならば次にする事は────。
「ルーナ、お前達は先に外に出てろ!! こいつは攻撃した奴しか標的にしない。今なら安全に出られるはずだ!!」
サックスの言葉に、ルーナは何か言いたげな素振りを見せた。が、しばし逡巡してここに居てもただの足手まといになると理解した彼女は、サックスに向けて頷くとレンを背負って洞穴の外へと駆けていった。
サックスはルーナ達が外へ出たのを確認すると、地面に突き刺しておいた魔具を回収する。再び氷の刃を生成し、構える。
「さて、と。精々覚悟しろバケモノ。──────土産話になる程度には気張れよ?」
両手に刃を構え、サックスは目の前の紅い瞳を倒す為にさらに加速する。
◆
「─────────……っう」
ゆっくりと。震える瞼を開けながらアインは意識を覚醒させた。上半身を起こそうとして、体を走る痛みに思わず体をくの字に曲げる。
どういう状況なのか周囲に目を凝らすと、天井に浮かぶ紅い眼と先程の黒い手。そしてそれらと戦うサックスの姿が視界に入った。
(加勢しなくちゃ……)
思考に靄がかかる頭を振って、手に持っていたはずの魔具を探す。それは、アインの倒れていた所から少し離れた位置に転がっていた。
魔具は、粉々になっていた。金具はひしゃげ、中に収められていた魔玉には薄く罅が入っている。これでは、まともな魔法の行使は難しいだろう。精々、灯りを照らす程度の弱い炎しか出せない。
地面に転がる魔玉を拾い、胸の前で強く握る。
「これじゃ……戦えない……っ!」
悔しい。
悔しくて涙が出そうだ。何が旅人だ。依頼人を護る事が出来ず、むしろ依頼人に守られる始末。旅の中でもフォローされる事の方が多かったくらいだ。
壁に手を突きながら、力の入らない足に鞭を打って立ち上がる。取り敢えず、今の自分に出来るのはサックスの邪魔にならないようにする事だ。これ以上足を引っ張る訳にはいかない。
壁沿いにゆっくりと移動しながら、戦いの状況を窺う。戦況は、アインの見た限り互角のようだった。見た事のない魔具(アインは魔具をそれ程見た事はないのだが)をサックスは器用に扱い、氷の刃で切り付け、時に射出し一進一退の攻防を繰り広げている。
その事に、アインは更に自分の無力を感じたのだが────ふと。
キャシーの姿が見えない事に気が付いた。そういえば、最初に異変を感じたのもキャシーからだった。ルーナ達の姿が無いから、もう外に出たのだろうかと洞穴の中を見渡す。そして、思わぬものを見てアインの動きが止まった。
「キャシー……?」
視線の先。あの黒い杭のすぐ傍に、キャシーの姿を見つけたがどうも様子がおかしい。
何か。
何か言いようもない違和感があるような──────。
その違和感の正体に、しかしアインはその時気付く事は無かった。何故なら。
今までサックスだけを狙っていた黒い手の一つがあらぬ方向に伸び。
キャシーの身体を吹き飛ばした。
くるくると宙を舞う小さな体。キャシーの身体は、まるでボロ雑巾のようにべちゃりと地面に落ちた。
「あ……。あぁ……、」
アインは声とも思えぬ微かな吐息を漏らし。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!」
叫んだ。
「アイン!?」
思わぬ叫びにサックスは振り向いてしまう。それを紅い眼が見逃すはずも無く。
「がふっ!?」
腹部に強烈な衝撃が走り、肺から空気が漏れる。地面を転がる際に軽い受け身は取ったが、体の芯に叩き付けられたダメージの所為か立ち上がる事が出来ない。内臓に損傷は辛うじてないだろうが、今すぐ立ち上がって戦う事は出来ないだろう。
苦痛に顔を歪めながらも、前を見る。どうやら紅い眼の攻撃対象はアインに移ったようで、サックスの方に追撃が来る事は無かった。どうやら、気絶させた相手が意識を戻した場合、近い方を攻撃するらしい。
天井に浮かぶ紅い眼は、アインに向けて注がれている。しかし、アインはその事に気付いていない。いや、そこまで意識が行っていない。
彼はふらふらとした夢遊病者の様な足取りでキャシーの側に寄り、俯いている。俯き、手を伸ばす。
そして。
その瞬間、アインが燃えた。
(どうなってる……? あいつに何が起こっているんだ……!?)
呆然とアインを見つめるサックス。そして、次の瞬間その光景を見てサックスは驚きで目を見開いた。
アインの手を伸ばした先、何も無い空間に穴が開く。そこから、轟ッ!! と、音を立てて炎が漏れ出た。宙を舐めるように炎が轟々と伸びる。しかし、至近にいるアインからは一切熱を感じさせなかった。熱を持たない炎────それではまるで、概念魔法のような。
サックスの脳裏にその言葉が過ぎる。アインは無言のまま、伸ばした手を炎の中に突き入れる。何かを掴むような動作。そのまま、彼は手にしたものを引きずり出す。
そして、その場に居た全員は見た。黄金に煌めく剣の形をした炎を。
〝それ〟は何とも形容し難い剣だった。いや、はたしてそれが剣と呼べるような代物なのか。それには一切刃が無く、炎の様に揺らめいでいる。しかし、その言葉も正しくはない。〝炎の様に〟、ではなく本当に炎なのだ。
魔法で炎剣を作る事自体は出来るだろう。しかし、今目の前に存在する剣のような圧倒的な存在感、威圧感を生み出す事が出来るとは到底思えない。だとするならば───。
サックスがそこまで考えた時、アインが動いた。ゆっくりと、次第に早く。向かう先は真っ直ぐ先にいる紅い眼だ。その時、ようやく、紅い眼も再び動き始めた。些か信じられない事だが、紅い眼自体もその黄金の剣の圧力に身動きできないでいたらしい。
駆けるアインに、黒い手が迫る。
サックスは咄嗟に頭上を見上げる────。
(今だ!!)
手にした魔具を上から下に振る。その瞬間、天から巨大な氷塊が────氷柱が黒い手に落下し、串刺しにする。わざと天井に向けて射出していた氷の刃が時間と共に成長し、サックスの合図によって落ちてきたのだ。
その結果、黒い手は全て地面に縫い付けられ生きたまま標本にされた虫の様に指を蠢かせるも、アインにその手が届く事は無かった。
「行けぇ!! アイン!」
サックスの叫び声に応えるようにアインは飛ぶ。その小柄な体から想像も出来ないほどの跳躍力を見せつけ────彼はその剣の名を叫んだ。
「我に力を────空を翔る軍神!!」
紅い眼は恐怖を感じた様にきゅっと瞳を細め────────中心から真っ二つに裁断された。
『────────────────────────────────!!!!』
洞穴一杯に女性の様な悲鳴を響かせて……紅い眼はゆっくりと闇に溶けるように消えていった。
アインが着地し、手から剣が消えると、それが合図だったようにばたりと地に伏せる。その場には再び意識を失ったアイン、サックス、キャシー。それと、鈍い光を反射する黒い杭だけが残っていたのだった。
やっとここまで書けました。一応、ここで一章は終わりです。次章のプロットは大まかに出来ているのですが、今回の反省を生かしたいので欠点などを感想にてお聞かせ願えると幸いです。
一応、今後の詳しい事は活動報告にて述べたいと思います。
読んで頂いた読者の皆様、ありがとうございました!