おてつだい
夕暮れ時、台所には鍋に残った味噌汁から立ち上る湯気と、換気扇の鈍い回転音が漂っていた。
「じぶんでできるよ」
5歳の末っ子は、両親を喜ばせようと背伸びをしてお玉を握った。小さなお手伝い。それが自分の皮膚を焼き尽くす惨劇になるとは知りもしない。
2階の部屋では、10歳の長女が机に向かっていた。「ご飯までは宿題をしなさい」と口酸っぱく言われていたからだ。母親は次女を連れて買い物へ出ており、父親は一仕事終えた安堵から、ベランダでゆっくりとタバコを吸っていた。
「ああっ!!」
悲鳴ともつかない切り裂くような声と、重い金属が床に激突する音が家中に響き渡る。
父親が跳び上がって台所へ駆け込むと、そこには沸騰した味噌汁を顔面から下半身にかけて被り、床に転がる5歳の姿があった。赤くただれた皮膚。あまりの激痛に暴れる我が子を前に、父親の理性は一瞬で瓦解した。
「なんで見てなかったんだ! お前がついていながら!」
救急車を待つ狂乱の室内で、父親の怒りは二階から降りてきた長女へと向かった。まだ何が起きたかも理解できていない10歳の少女に対し、父親は拳を振り上げ、殴り、蹴り飛ばした。
救急搬送された末っ子は、広範囲の重度熱傷を負っていた。一方、長女も父親から受けた暴行により重篤な状態に陥り、搬送先の病院で死亡が確認された。
警察は父親から事情を聴き、長女への暴行について捜査を開始した。その後、父親は傷害致死の疑いで逮捕された。
家庭は完全に壊れた。
父親は起訴され、公判を経て有罪判決を受けた。判決後、父親は社会へ戻された。母親は離婚し、生き残った次女を連れて家を出た。
だが、彼を待っていたのは「介護と捜査の目」という泥沼だった。
広範囲の熱傷を負った末っ子には、瘢痕拘縮が残り、手足の動きも大きく制限されていた。退院後も通院とリハビリが続いたが、日常生活には常時介助が必要だった。
保護観察と警察の捜査、世間の白い目にさらされながら、父親は罪を償うかのように男手ひとつで全介助の生活を始めた。
しかし、成長するにつれ末っ子の瘢痕拘縮は進み、夜になれば苦痛で「ひっ……ふ……」と呼吸を歪ませて涙を流す。絶望と不眠、終わりの見えない介護疲弊が父親の精神を刻み潰していった。
事故から1年が過ぎた夜、父親は固く決意した。
「もう楽になろう。一緒に行こう」
父親は動かない末っ子の枕元に灯油をまき、火を放った。
瞬く間に炎が部屋へ広がり、黒煙が天井を這う。すべてを焼き尽くし、あの日の過ちも、痛みも、後悔も、全部灰にできるはずだった。
——しかし、死すらも彼を許さなかった。
近隣住民の通報で消防隊が駆けつけ、二人は炎の中から救出された。二人とも重い熱傷を負い、病院へ搬送された。
病室のベッドの上で、父親は目を覚ます。
全身を巻く重厚な包帯。視界を遮る管と、耳障りな心電図の電子音。体中に走る、激痛。
「目が覚めましたか。ここは病院です。今は集中治療室で治療しています」
医師の声が遠く聞こえる。
父親は助かってしまったのだ。全身に重い熱傷を負い、生きながらえてしまった。
重い包帯に包まれ、1ミリも動かない自分の身体。
ふと、父親は違和感を覚える。
全身が燃えた、なのに顔面とそのあごから首筋にかけて——まるで誰かに「熱い味噌汁を少しずつ塗られている」ような、生ぬるい粘着質な痛みが、絶え間なくじわじわと失ったはずの皮膚に沁み込んできている。
引きつれた喉の奥で、父親があえぐ。
——ひっ……ふ……ひっ……ふ……。
それは、あの暗闇の部屋で、死ねない我が子が毎夜父親の耳元で繰り返し吐き出していた「あの息遣い」そのものだった。
父親の身体は、あの日からずっと死にきれずにいた末っ子の「苦痛の器」として、完全に取って代わられていた。
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死 亡 診 断 書
氏 名 ■■ ■■
性 別 女
生年月日 平成14年9月3日
死亡したとき 平成20年11月21日 午後11時58分
死亡したところの種別 病院
死亡したところ ■■県■■市■■■■医療センター 熱傷センター
死亡の原因
Ⅰ(ア)直接死因 敗血症 発病から死亡まで 約10日
(イ)(ア)の原因 広範囲熱傷(Ⅲ度・体表面積の約60%) 約13日
Ⅱ 直接には死因に関係しないがⅠ欄の傷病経過に影響を及ぼした傷病名等
熱傷後瘢痕拘縮(平成19年受傷)
死因の種類 外因死 その他及び不詳の外因死 10 他殺
外因死の追加事項
傷害が発生したとき 平成20年11月8日 午前2時頃
傷害が発生したところの種別 住居
手段及び状況 自宅寝室にて、同居の父が灯油を散布し着火
診断年月日 平成20年11月22日
本診断書発行年月日 平成20年11月22日
医師 ■■ ■■
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【看護記録】熱傷センター ICU
患者ID:0811-0273
氏 名:■■ ■■
年 齢:39歳
性 別:男
2008/11/22 02:40
顔面〜頸部の疼痛を訴える(処置部位外)。
呼吸浅く「ひっ、ふ」と反復。
鎮痛薬追加、効果乏しい。
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