《とても安全なパスワード》
「そこの兄ちゃん、もっと刺激的なやつやろうや?」
司会者が通路に立って、わざとらしい笑顔でマイクを向けてきた。
スポットライトがこっちに回ってきて、目がちょっと眩しい。
「ちょっとだけスマホのメッセージ履歴、見せてくれへん?」
観客がどっと笑って、後ろの方から口笛が聞こえた。
ポケットからスマホを取り出して、
黙って、ただ彼に差し出した。
「うわ、マジで見せてくれんの?やるなあ!」
彼はそう言って観客に向き直る。
「この兄ちゃん、絶対浮気してへんわ!拍手!」
会場がざわめき、拍手が起こる。
俺は笑わなかった。
「ロックかかってるわ。パスコード何番?」
彼がマイクを俺の口元に差し出した――
服を畳んでいる彼女を、俺は部屋の隅で見ていた。
スーツケースを広げて、黙々と荷物を詰めている。
「冗談かと思ってた。」
「何回も言ったでしょ。」
「でも、前は行かなかったじゃん。」
「だから、今回は行くの。」
俺が贈ったあのジャケットを、彼女はゆっくりと畳んでいる。
「それ、置いてっていいよ。」
彼女は少し手を止めて俺を見た。
「あなたがくれたんでしょ。」
「だから、ここにいたくないの?」
「いたくないんじゃない。もう、いられないだけ。」
「いつも、俺が何もわかってないって言うよな。」
「うん。」
「じゃあ今、言ってよ。聞いてるから。」
彼女はもう一度俺を見た。
「今何か言えば、間に合うかな?」
「あなたは、何も言わない。」
俺は黙った。
彼女はスーツケースのファスナーを閉めて、上に座って押し込んだ。
「私たち、長く付き合ったけど…あなた、私たちの“中”に、一度もいなかった気がする。」
俺は彼女を見て言った。
「誕生日、覚えてるよ。」
彼女は少し驚いて、言った。
「…あなたのは、7月27日、だっけ?」
俺は少し間を置いて、うなずいた。
「ちゃんと覚えてるんだ。」
彼女は微笑んだ。
「変わらないね。相変わらず、表情ない。」
俺はもう、何も言わなかった。
スーツケースの音だけが、彼女の言葉よりもはっきり響いた。
「おかえり~。夜ごはん食べたの?」
「……食べた。」
「何その顔。友達とまたケンカでもした?」
「してない。」
「じゃあ何なの?」
俺は答えなかった。
彼女は数秒こっちを見てから、またキッチンで果物を切り始めた。
「お前、最近外で遊びまわってるらしいな?」
親父はソファでテレビを見ながら、やけにでかい音で言ってくる。
「別に遊んでない。」
「じゃあ何してんだ?ダラダラしやがって、こっちに迷惑かけんなよ。」
「……」
「おい、聞いてんのか?」
「聞いてる。」
「聞いてるなら、ちゃんと立って喋れ!」
俺は姿勢を正した。
「で、今後どうすんだ?ずっとそのままか?言ってみろ!」
「……」
「そのままじゃ誰にも相手にされなくなるぞ。友達にも見放されんぞ?」
俺はうなずいた。
「うなずく?口はあるんか?」
「……ある。」
「あるなら喋れ!今すぐ!」
口を開けたけど、
数秒考えて、出てきたのは一文字だけだった。
「うん。」
果物が出された。テーブルの上に、カットされたパイナップル。
「食べなよ。来月試験でしょ?ビタミンC取らなきゃ。」
俺はその言葉に何も返さず、皿の上のパイナップルを見ていた。
来月じゃない。今月だ。
試験じゃない。誕生日だ。
中学の時も、母さんは同じようにパイナップルを切っていた。
午後だった。無言で、包丁の音だけが響いてた。
「今日、誕生日って、何で言わないの?」
俺は下を向いたまま答えなかった。
「そっか。お母さん、もう年だね、間違えたわ。」
笑って、空気をごまかすようにそう言った。
そして皿を差し出して、俺の背中を軽く叩いた。
「いっぱい食べなね。試験、がんばれよ。」
本当に覚えてなかったのか、思い出してからとぼけたのか――わからない。
ただ、
その日の夜は、
全部のパイナップルを一人で食べた。
酸っぱいのまで、全部。
酸っぱいものって、泣きたくなくなるんだって、初めて知った。
テレビがまだ流れている。
親父がボソッとこう言った。
「そういや、お前、先月誕生日だったろ?全然成長してねえな。」
俺は、またうなずいた。
先月じゃない。
誰も、正しい日を知らない。
「うん。」
彼女は自分の部屋に戻っていった。
親父はテレビを見続けている。
リビングに残っているのは、俺一人。
司会者の声が耳を通り過ぎていく。
何も、残さずに。
俺はグループチャットにメッセージを送った。
「最近全然集まってないね。誰か空いてる?」
誰も、返さなかった。
メッセージは、まるで泡のように浮かんで、パチンと弾けて消えた。
「既読 7」というラベルがついていた。
まるで沈黙の記号みたいに。
3時間後、俺はもう一つ送った。
「新しい火鍋の店見つけたよ、結構よさそう。」
やっぱり、誰も返さなかった。
半日ほど経ったあと、ようやく一人がGIFを貼った。
一羽のハトが飛び立つやつ。
「これマジでウケるwww」
「うわ、お前がドタキャンした時まんまやんw」
「XDDD」
俺は、その画像をしばらく見つめていた。
俺は、ハトじゃなかった。
あの画像の、後ろの白い壁だった。
それでも俺は聞いた。
「これ、どこの画像?」
誰かが返してきた。
「見たことないの?」
それっきりだった。
次の日、俺はまた送った。
「今度、いつ集まれる?」
今度はすぐに返ってきた。
「はは。」
そして、すぐにスタンプ。
一人でしゃべってる人と、空っぽの背景。
それが、俺のことを指してるかどうかはわからない。
でも、もうどうでもよかった。
過去のトーク履歴を遡った。
2年前、誕生日の日。
「おめでとう」って言われた。
――0時5分に。
でもその前の夜、俺が自分でこう送ってた。
「明日、誕生日なんだ。」
そのメッセージを送って、ずっとスマホを見てた。
「知ってるよ、準備中」
みたいな反応を、待ってた。
でも返ってきたのは:
「マジか、忘れてたw」
それだけだった。
ケーキもない。集まりもない。
その年の誕生日は、セブンイレブンのおにぎりと、午後の紅茶。
家に帰って、何もなかったフリをしたら、母さんが言った。
「なんでこんな時間に帰ってきたの?今日は何か特別なことでも?」
俺は首を横に振った。
「ううん、何も。」
実は、ちゃんと予定も立ててたんだ。
時間、場所、注意事項、天気予報までメモって。
そのメモは、ノートの一番下に。
「今年の願い:みんなでごはんが食べたい」
っていう願いごとと、一緒のページに。
今年はもう「明日、誕生日」ってすら言ってない。
ただ、「はは。」って打っただけ。
そして、それもスタンプで埋もれていった。
まるで余計なノイズみたいに、自動でミュートされた。
スマホを置いた。
画面が暗くなる瞬間、
黒いガラスに自分の顔が映った。
俺、いつからこんなふうになったんだっけ?
誰かに覚えていてほしかった。
大したことじゃない。
誕生日だけなんだ。
たった一日だけ。
誰かが言った、「そんなの重要じゃない」って。
本当にそうか?
じゃあなんで、俺はノートに★マークつけて「誕生日」って書いたんだよ。
通知が来るその瞬間を、なんで毎日待ってたんだよ。
見えないふりしてたけど、見てた。
誰も覚えてなくて平気とか、強がってるだけだろ。
俺は覚えてる。
全部、覚えてる。
あいつが「山で誕生日過ごそう」って言って来なかったこと。
彼女が「ちょっと待ってて」って言って、そのまま3年。
親父が「誕生日に飯連れてってやる」って言って、酔っ払って帰ってきたこと。
母さんが「今日何日?」って言って、掃除に戻ったこと。
先生が俺の名前を3年間間違え続けたこと。
小学校の友達が誕生日カード書いてくれたのに、席替えで話さなくなったこと。
俺、全部覚えてる。
だから、もう俺だけしか覚えてない。
じゃあ、なんでまだ覚えてるんだろう。
記録って、意味あるのか?
ノートに書いた願いって、叶うのか?
俺、どれだけ書いたんだろう。
俺は――
書いた。
書いた。
書いた。
何を書いてるんだ。
なんで、まだ書いてるんだ。
俺、生まれてきたのか?
誕生日がなければ、がっかりすることもない。
存在しなければ、忘れられることもない。
……
…………
(彼がマイクを俺の口元に差し出す)
「スマホのパスコード、何番?」
「……0903」
「え?誕生日なん?」
「うん。」
彼は笑って、うなずいた。
「ええやん、覚えやすいな。」
「でも、なんで誕生日なん?」
「……だって――」
「とても、安全やから。」
――俺の誕生日を覚えてる人なんて、誰もいないから。