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第2話 風の便りと虹色のオルゴール

エーテルガルドでの生活にも、少しずつ、本当に少しずつではあるけれど、慣れてきた。朝、二つの月が沈み、代わりに昇る太陽(こちらは一つで安心した)の光を浴びて目覚め、メイドのエマさんが淹れてくれる、不思議な香りのハーブティーを飲むことから私の一日は始まる。豪華すぎる食事はまだ少し落ち着かないけれど、このエーレンベルク家の厨房で作られる料理は、日本の食材とは全く違う、未知の味覚との出会いに満ちていて、毎回驚きと発見がある。和菓子職人の血が騒ぐ、と言ったら大袈裟かもしれないけれど、いつかこの世界の食材で、新しい和菓子を作ってみたいな、なんて夢も膨らみ始めていた。


そして、肝心のカイル様との関係も、あの日、庭園で彼の「幻の笑顔(と、私が勝手に命名した)」を目撃して以来、ほんの少しだけ、本当に、指先でつまめるくらいの、ほんの少しだけだけど、変化があった……ような気がする。相変わらず完璧な無表情で口数は驚くほど少ないけれど、時々、私が心を込めて淹れた日本茶を「……悪くない」と呟いてくれたり(これは彼なりの最上級の褒め言葉に違いない!)、私が庭の一角を借りて、日本から持ってきた種で育て始めた紫蘇や三つ葉のハーブに、遠巻きながらも興味深そうな視線を向けてくれたり。あの分厚い氷の壁が、ミリ単位くらいは、確実に薄くなった……かもしれない? うん、そうに違いない! ポジティブシンキング、大事!


そんなある日、私はエマさんとお茶を飲みながら、この世界のコミュニケーション手段について、素朴な疑問を口にしていた。日本にいる家族や友達に、手紙の一つでも書きたいなと思ったけれど、郵便局のようなものは見当たらないし、そもそも住所も分からない。インターネットなんて、もちろん存在しない。


「あの、エマさん。こちらでは、遠くにいる人に連絡を取りたい時って、どうしているんですか? 例えば、日本にいる私の家族に、元気でやってるよーって伝えたい時とか」


「まあ、雅様」エマさんは、ふんわりと優しく微笑んだ。「そういう時は、普通、『風の精霊シルフ』にお願いすることが多いですわね。とても気まぐれではございますけれど、彼らは風に乗って、どこへでもメッセージや、小さな荷物を運んで行ってくれますから。雅様の世界では、何か違う方法が?」


「か、風の精霊!? あの、庭で時々見かける、キラキラ光ってる小さい子たちのことですか?」私は目を丸くした。ファンタジー!「えっと、私のいた世界…日本では、スマートフォンっていう手のひらサイズの機械があって、LIMEとかインスタとか、そういうのを使えば、地球の裏側にいる友達とも、本当に一瞬でメッセージを送り合えたんですよ。写真だって動画だって、思い立ったらすぐに送れて、とっても便利だったんです。伝えたい気持ちを、すぐに、直接、届けられたんです」

私が少しだけ自慢げに説明すると、エマさんは興味深そうに耳を傾けてくれた。


「まあ、それはそれは、随分と便利なものですこと」エマさんは感心したように頷いた。そして、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。「でも、気まぐれな風の精霊にお願いするということは、いつ届くかも、そもそもちゃんと届くかどうかも、風の精霊の気分次第、ということでもありますのよ」


「えー! それって、すごく不便じゃないですか! 届かなかったらどうするんですか?」

私は思わず声を上げてしまった。そんな不確実な通信手段、現代日本では考えられない。


「ふふ、まあ、確かに不便かもしれませんわね」エマさんは、カップを優雅に傾けながら続けた。「でも、すぐに届いてしまうと、相手はこの手紙を読んで、いったいどんな気持ちになるだろうか、喜んでくれるだろうか、と、あれこれ想像して胸をときめかせる…そんな時間もなくなってしまって、少し寂しいとは思いませんか?」


エマさんの言葉は、すぐにはピンとこなかった。日本での、既読がつくかつかないか、返信が早いか遅いかで一喜一憂するコミュニケーションに慣れきっていた私には、あまりにも悠長な、詩的な考え方に思えた。でも、なんだか、とてもロマンチックで、美しい考え方だな、とも思った。すぐに答えが分からないからこそ、相手を想う時間が増える。そういう側面も、確かにあるのかもしれない。


「そういうもの……なのかなぁ……?」

私がまだ少し腑に落ちない顔をしていると、まるで自分の噂話をしていることに気づいたかのように、近くで花々の蜜を吸っていた、小さな光る羽を持つ風の精霊シルフの一人が、ひらひらと私の近くにやってきて、私の周りを楽しそうに飛び回り始めた。声は、鈴を転がすような、可愛らしいソプラノだ。


「ねーねー、何か運ぶものあるー? ボク、今なら風に乗ってどこへでもひとっ飛びだよー!」


「わっ! あなたが風の精霊さん?」私は驚きつつも、少し嬉しくなった。「こんにちは。えっと、ごめんなさいね、今は特に、誰かに運んでもらいたいものは、ないかなぁ」


「えー、つまんないのー! ボクの話、してたでしょー? せっかく来てあげたのにー。何か運ぶものちょうだいよー。お使いさせてよー」

精霊さんは、ぷくーっと頬を膨らませて、私の周りをさらにせわしなく飛び回る。その姿は、なんだか駄々をこねる子供のようで、思わず笑ってしまった。


「ふふ、分かったわ。じゃあ、せっかくだし、伝言をお願いしてもいいかしら?」


「うん! なになに? どこの誰に?」精霊さんの目がキラキラと輝く。


「えっと、じゃあ、このお屋敷の料理長さんに。私、実はトマトがあんまり得意じゃないなって、伝えてもらえる?」

ささやかな、しかし私にとっては切実な願いだ。


「オッケー! トマト苦手なんだね! 任せて!」

精霊さんは元気よく返事をすると、風のようにシュンッ!と音を立てて、厨房の方角へと飛んでいった。


その夜。エーレンベルク家の豪華なダイニングルームのテーブルに並べられたのは、見事なまでに、これでもかというほどの、トマト尽くしのメニューだった。

真っ赤なトマトの冷製スープ、鶏肉のソテーたっぷり濃厚トマトソース和え、彩り野菜とモッツァレラのカプレーゼ(もちろんトマトたっぷり)、そしてデザートには、なんと爽やかな酸味のトマトゼリーまで……!


「……え?」私は目の前の光景に、絶句した。


サーブしてくれたセバスチャンさんが、いつもの完璧な無表情のまま、しかしどこか、ほんのわずかに楽しんでいるようにも見える口調で説明してくれた。

「雅様。先ほど風の精霊シルフから、『雅様がトマトを得意になれるような料理を用意してほしい』との伝言を、料理長が承りました。つきましては、今夜は当家自慢の有機栽培トマトをふんだんに使用した、特別フルコースをご用意させていただきました。きっとお口に合うものがあるはずです。どうぞ、ごゆっくりお召し上がりくださいませ」


……あの精霊!

得意じゃないっていったけど、それは減らしてほしいって意味であって、克服したいってわけじゃないのよ。

なるほど、これがエマさんの言っていた『気まぐれ』か。恐るべし、風の精霊……!


しかし、この予想外のショック療法が功を奏したのか、あるいは料理長の腕前が素晴らしすぎたのか、その日以来、私は不思議と、普通に料理に使われている程度の量のトマトなら、全く抵抗なく美味しく食べられるようになっていた。……人生、何が幸いするか分からないものである。


さらに数日が過ぎた、ある穏やかな日の午後。私が中庭のベンチで読書をしていると、再び、あの時の、ちょっとお調子者の風の精霊さんが、ふわりと軽やかに舞い降りてきた。


「あら、雅様。どなたかからの『風の便り』でございますか?」

近くで庭の手入れをしていたエマさんが、微笑みながら声をかけてきた。


精霊さんは、私の周りを誇らしげにくるくると飛び回る。

「やっほー、みやびー! また来たよー!」


「こんにちは。この間は、美味しいトマト料理のきっかけをありがとう」私は、精一杯の皮肉を込めて言ってみた。でも、やっぱり精霊さんにはそのままの意味で受け取られたようで、「えへへー、どういたしましてー!」と嬉しそうにしている。


「それで、今日はどうしたの?」


「うん! 今日はね、カイル様からのお手紙と、あと、これもお届けものだよー!」

精霊さんはそう言うと、私の手のひらの上に、丁寧に封がされた一通の手紙と、小さな美しい小箱を、そっと乗せた。


「カイル様から?」私は驚いて手紙の封を切った。中には、彼の性格を表すかのような、硬質で、しかし驚くほど美しい、流麗な文字で短いメッセージが記されていた。

『雅へ。明日は、我々が婚姻の儀を結んでから、ちょうど一月となる。ささやかではあるが、祝いの席を設けたいと考えている。もし都合が良ければ、夕刻に西の庭園にある東屋まで来てほしい。 カイル』


「わっ! カイル様からのお誘いだ!」

そうか、結婚してから、もうそんなに経つんだ。月日が流れるのは早いなぁ。しかも、彼の方から、ちゃんとお祝いの席を設けてくれるなんて! 意外だけど、すごく嬉しい!


私が手紙を読んで喜んでいると、隣で精霊さんが、何やらそわそわしながら、わざと私に聞こえるような大きな声で独り言をつぶやいている。

「うーん、どうしようかなぁ。カイル様に、ぜーったいに秘密だよって、何度も何度も念を押されてるんだけどなぁ。言っちゃおうかなぁ。でもなぁ、言ったらカイル様に怒られちゃうかなぁ。うーん……」


「え、なになに?」私は思わず精霊さんに顔を向けた。「そんな風に言われると、すごく気になるんだけど」


「あのね!」精霊さんは、待ってましたとばかりに、キラキラした目で私に顔を近づけて、まくし立て始めた。「ぜーったいに、絶対に秘密だよ! カイル様には内緒だからね!」


「あのね、カイル様ったらさ、この一ヶ月記念のプレゼント、何にしようか、ずーっと、ずーっと悩んでたんだから! 一週間くらい前から、執事のセバスチャンさんとか、いつもカイル様の護衛をしてる騎士団の人たちにまで、『……女性というものは、一体、何をもらったら嬉しいものなのだろうか…』とか、あのいつもの真顔で聞きまわってたんだよ! 全然似合わないよねー! あ、あと、その箱に入ってるお花! それもね、カイル様が、雅様の故郷の『桜』っていう、春に咲くピンク色の綺麗な花をイメージして、魔法装飾品の職人さんに特別に作ってもらったやつなんだって! すごいでしょ? エーテルガルドにはない花だから、資料集めも大変だったんだって!」


私は、手のひらの上の、美しい細工が施された小箱と、今、風の精霊が嵐のようにまくし立てていった、驚愕の事実を反芻し、しばし呆然としていた。小箱を開けると、中には、桜の花びらを精巧に模した飾りがついた、美しい虹色のオルゴールが、静かに収まっていた。

隣では、エマさんが「まあ…カイル様ったら…」と口元に手を当てて、必死に笑いを堪えているのが見える。


(ぜ、絶対に秘密って言われたことを、秒で全部バラしちゃってるじゃないの、あの子……)

私は思わず吹き出してしまった。なんてお喋りで、口が軽くて、そしてやっぱり気まぐれなメッセンジャーなんだろう!


でも……。

カイル様が、私のために、そんなに悩んで、時間をかけて、準備してくれていたなんて。

あの、いつも無表情で、感情を表に出さない彼の、分厚い氷の壁の下で、そんな風に、私のことを、一生懸命に考えてくれていたなんて。


胸の奥が、じわりと温かくなるのを感じた。それは、くすぐったくて、少しだけ甘酸っぱいような、特別な温かさだった。


「ふふ……」

私は、虹色に輝くオルゴールを、そっと胸に抱きしめた。まるで私の気持ちに応えるかのように、オルゴールからは、優しくて、どこか懐かしいような、美しいメロディーが、静かに流れ始めた。それは、日本の童歌に少し似ているような、不思議な旋律だった。


「気まぐれな精霊の郵便屋さん、か……。こういうのも悪くない、かもね……」


エーテルガルドの、ゆったりとした時間の流れ。そして、その中に込められた、言葉にならない、深い想いの温かさ。それを、ほんの少しだけ、理解できたような気がした。

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