第1話 氷の王子様のほほ笑み
目の前に広がるのは、息を呑むほどに美しい庭園だった。空には大小二つの月が浮かび、柔らかな青白い光を投げかけている。空気は澄み渡り、日本では嗅いだことのない、甘く清らかな花の香りが漂っていた。色とりどりの、見たこともない形の花々が咲き乱れ、小さな光る虫のようなものが、蛍のようにゆらゆらと舞っている。これが、エーテルガルド。私がこれから暮らすことになる世界。
そして、私の目の前には、この壮麗なエーレンベルク家の主にして、私の契約上の夫となる人物が立っていた。
カイル・フォン・エーレンベルク様。
腰まで届くプラチナブロンドの髪は、月光を反射して銀糸のように輝き、彫刻のように整った顔立ちは、まるで物語に出てくる王子様のよう。深い青色の瞳は、夜空に浮かぶ星のように静謐で、どこかミステリアスな雰囲気を醸し出している。仕立ての良い、貴族らしい装束も完璧に着こなしていて……うん、正直に言って、めちゃくちゃ、ものすごーく、美形だ。
「……」
「……」
見惚れていたのは、ほんの一瞬。すぐに私は、耐え難い気まずさの渦に叩き落された。だって、彼、庭園に案内してくれてから、一言も喋らないんだもん! ただ、彫像のようにそこに立ち、静かに月を見上げているだけ。表情も全く変わらない。まるで感情というものが存在しないかのように。
(う、うぅ……気まずい! 何か話さなきゃ……!)
沈黙が痛い。あまりにも痛い。看板娘(自称)として、どんな気難しいお客さんとも笑顔で会話を繋いできた私のコミュニケーション能力が、今、最大の試練に晒されている。
「あ、あの、カイル様」
意を決して、声を絞り出す。
「なんだ」
……短い! 短すぎる! しかも、声まで、どこかひんやりとしていて、温度を感じない。まるで、磨かれた氷みたいだ。
「え、えっと……その、今日のお天気、いいですね! 月が二つもあって、びっくりしましたけど、すごく綺麗ですね!」
しどろもどろになりながら、当たり障りのない話題を振ってみる。
「……そうだな」
……以上! 会話、終了のお知らせ!
うぅ、心が折れそう。なんだか、氷の彫刻と話しているみたいだ。美しいけど、冷たくて、近づけない。これが私の夫……いくら契約とはいえ、これから一緒に暮らす相手なのに。このままじゃ、我が家の冬限定「雪うさぎ饅頭」よりも、ずっと冷え切った結婚生活になってしまう!
翌日、私は早速、身の回りのお世話をしてくれることになったメイドのエマさんに、こっそりと相談してみることにした。彼女は、ふんわりとした茶色の髪を綺麗にまとめた、優しくて頼りになりそうな人だ。
「あの、エマさん。カイル様って、いつもあんな感じなんですか? 全然笑わないし、お話ししても、すごく……冷たい、というか」
私は小声で尋ねた。
「やっぱり、高位の貴族様だと、私たち使用人(私は一応妻だけど!)の前では感情を出さないように、とか、そういう厳しい躾をされているんでしょうか? 契約結婚とはいえ、これから夫婦になるんですし、私の前では、もう少し……こう、にこっ、としてもらってもいいのになって思うんですけど」
エマさんは、私の言葉に少し困ったように眉を下げながらも、優しく微笑んで答えてくれた。
「ええ、お嬢様。カイル様は特に『氷魔法』に長けておられる、この国でも指折りの高位魔術師でいらっしゃいますので」
「へ? 氷魔法が得意だから……?」
ん? 話が繋がらない。どういうことだろう?
「氷魔法が得意だからって、性格まで冷たくする必要はないんじゃないですかね?」
「? ですから、カイル様は特に氷魔法に長けておられる方ですので……」
エマさんは、私が理解していないことが不思議、といった顔で繰り返す。
……あれ? もしかして、この世界では、そういうものなの?
「えっと……もしかして、この世界では、雷魔法が得意な人はいつもピリピリしてて、炎魔法が得意な人は熱血漢だったりするんですか? なんちゃって、あはは」
冗談のつもりで、少しふざけて聞いてみた。
「ええ、左様でございますわ」
「……えっ、本当なんですか!?」
冗談じゃなかった! 私の口から変な声が出た。
エマさんは、私の驚きぶりに少し微笑みながら、丁寧に説明してくれた。
「魔法とは、術者の精神状態…感情と深く結びついておりますの。特にカイル様のような高位の魔法使いの間では、『感情を表に出さないこと』が、古くからの美徳、いえ、必須の鍛錬とされているのですよ。強い感情の波は、魔力の流れを不安定にし、制御を誤れば、周囲にも甚大な被害を及ぼしかねないほどの、魔力暴走を引き起こす危険性がございますから」
彼女は、少し声を潜めて続けた。
「カイル様は、幼い頃から、そのあまりにも強大すぎる魔力を制御するために、感情を抑制し、常に冷静沈着であられるよう、厳しい訓練を徹底されてこられたのです。エーレンベルク家の次期当主としても、それは当然の責務でございました」
「そう……だったんですね」
知らなかった。彼が無表情で冷たく見えるのには、そんな理由があったんだ。貴族だからとか、私を嫌っているからとかじゃなくて、彼の持つ力と、立場ゆえの、重い宿命みたいなもの。それを知ると、なんだか少しだけ、彼への見方が変わった気がした。そして、そんな風に自分を律して生きてきた彼を、少しだけ、すごいな、とも思った。
「……でも」エマさんは、最後にそっと付け加えた。その目には、主への深い敬愛の色が浮かんでいる。
「カイル様は、決して冷酷な方ではございませんわ。表にはお出しになりませんが、本当はとてもお優しい方なのですよ」
「えー、そんな風には、まだ見えないけどなぁ」
私は正直な感想を漏らした。でも、エマさんの言葉は、私の心に小さな種を蒔いた。
その日から、私の「カイル様・笑顔にさせちゃうぞ大作戦!」が、密かに始まった。
契約結婚だからって、無表情で冷え切った関係のまま過ごすなんてつまらない! やっぱり心から笑っていてほしい。それに、エマさんの言う「本当は優しい」っていうカイル様の素顔も、この目で見てみたいじゃない?
まずは、得意の和菓子でアプローチ! こちらの世界の食材はまだよく分からないから、日本から特別に持たせてもらった貴重な宇治抹茶と、北海道産の大納言小豆を使って、特製の「抹茶うさぎ饅頭」を作ってみた。うん、我ながら完璧な出来栄え! 日本の心、ここにあり!
「カイル様、これ、私の実家の自慢のお菓子なんです。心を込めて作りました。よかったら、どうぞ?」
おずおずと、お抹茶と一緒に差し出すと、彼は一瞬、その美しい青い瞳を、ほんのわずかに見開いた。そして、無言で一つ手に取り、小さな口で、一口。
「……」
もぐもぐ。
「……」
ごくん。
「……うまい」
……それだけ!? 感想、み、短っ! 和菓子の繊細な味わいへのコメントとか、ないの!? でも、でもね、食べる時の口元が、ほんの少しだけ、本当に、ほんの少しだけだけど、緩んだような気が……しないでもない? いや、気のせいかなぁ。うーん、判定は保留!
次は、面白い話作戦!
メイドさんたちからこっそり仕入れた、エーテルガルドの貴族社会の、ちょっと笑えるゴシップネタを、私なりに面白おかしくアレンジして披露してみる。
「それでですね、カイル様! 聞きました? 隣の国の侯爵様ったら、この間の王宮の舞踏会で、大事なカツラがワルツの途中で盛大にずれちゃって、それはもう大変な騒ぎだったらしいですよー! あはは!」
渾身のジェスチャーと効果音付きで話してみるも……。
「……そうか」
……撃沈。彼はただ、静かにカップを傾け、優雅にお茶を啜っているだけだった。私の渾身のゴシップネタは、彼の分厚い氷の壁の前では、雪玉のように儚く、そして無残に砕け散った。くぅ、手強い!
こうなったら、最終手段! 私の(自称)十八番、秘技・変顔だ! これで笑わなかった男はいない!
家族にしか見せたことないけど。
いくわよ、えいっ!
鏡の前で入念に練習した、とっておきの変顔を、思いっきり披露! ……したつもりだったんだけど。
「……何をしている?」
怪訝そうな、心底不思議そうな、まるで未知の生物でも見るかのような目で見返されてしまった。その冷めた視線が、逆に私の羞恥心を極限まで刺激する。か、顔から火が出そうだ……! もうダメだ、撤退! 全速力で撤退!
「うぅ……カイル様の笑顔、ハードル高すぎ……エベレスト級だよぉ……」
その夜、自室のふかふかすぎるベッドに突っ伏して、私は完全に項垂れた。やっぱり、あの氷の王子様を笑わせるなんて、私には無理なのかもしれない。
そんなある日の穏やかな午後。気分転換に庭園を散歩していると、大きな木陰のベンチに、カイル様が一人で静かに座って何かを読んでいる姿を見つけた。そっと近づいてみると、それはどうやら植物図鑑のような、古い装丁の本だった。
驚いたことに、彼の周りには、いつの間にか、色とりどりの小さな鳥や、翅がステンドグラスのように透き通った、光る蝶のような不思議な生き物が、たくさん集まってきていた。彼らはカイル様を全く恐れる様子もなく、その肩や膝の上で、安心しきったように羽を休めている。まるで、物語に出てくる、心優しい森の番人のような、不思議で、温かい光景だった。
「あの、カイル様。何を読んでいらっしゃるんですか?」
その穏やかな雰囲気に、私も少しだけ勇気を出して声をかけてみた。すると、彼はゆっくりと顔を上げた。その表情は相変わらず涼やかだったけれど、ほんの少しだけ、驚きが含まれているように見えた。
「……古い薬草学の書だ」
彼は、珍しく、少しだけ言葉を続けた。私の存在を認識してくれたのだろうか?
「先日、君が淹れてくれた日本茶…『緑茶』とか言ったか。あれには、心を落ち着かせる効能があると、セバスチャンが調べて報告してきた。少し、興味が出てな。このエーテルガルドの薬草にも、似たような効果を持つものがないか、調べているところだ」
「えっ……! あ、あの時のお茶のこと、覚えててくれたんですか? しかも、調べてくれたなんて……」
予想外の言葉に、私の胸が、きゅん、と甘酸っぱい音を立てた。びっくりして、心臓が変な音を立てている。
「……別に、ただの興味だ。魔力制御の参考になるかと思っただけだ」
彼は少しだけ視線を逸らし、ぶっきらぼうに付け加えた。その時、彼の膝の上で気持ちよさそうにまどろんでいた、ふわふわした白い毛玉のような小動物――後でエマさんに聞いたら『月光兎』というらしい――が、むずむずとしたのか、くしゅん、とこの上なく可愛らしいくしゃみをした。
その瞬間だった。
「……ふ」
カイル様の口元から、ほんの、ほんのわずかに、息が漏れた。それは、笑い声と呼ぶにはあまりにも小さく、儚いものだったけれど。でも、確かに、彼の表情が、ほんの一瞬だけ、柔らかく、和らいだのだ。彼の、完璧に整った、氷の彫刻のようだった顔に、まるで春の陽だまりのような、温かい光が差したように見えた。
「……!」
私は息を呑んだ。見間違いじゃない。気のせいなんかじゃない。彼は、今、確かに笑った! あの氷の王子様が!
「か、か、カイル様! 今……! わ、笑いまし……!」
「!?」
私の、驚きと興奮に満ちた声に、彼はハッとしたように表情を硬くし、まるで何事もなかったかのように、すぐにいつもの完璧な無表情に戻ってしまった。けれど、もう遅い! 私の目は誤魔化せないんだから!
「か、可愛い……!」
考えるよりも先に、心の声がそのまま口から飛び出してしまっていた。だって、本当に、心の底からそう思ったんだもん! いつもは氷のようにクールで近寄りがたい彼が見せた、ほんの一瞬の、照れたような、困ったような、はにかむような笑顔は、破壊力抜群というか、反則級に可愛かったのだ。私の心のシャッターは、その瞬間をバッチリ捉えた!
「なっ……!? き、貴様、何を言って……!?」
私の、あまりにもストレートすぎる言葉に、今度はカイル様の方が、明らかに動揺したようだった。彼の、雪のように白い頬が、ほんのりと、本当にほんのりとだけど、桜色に染まった……ような気がする! 幻じゃない、絶対!
そして、私はもう一つ、驚くべき光景を目にした。
彼が、ほんのわずかに笑みをこぼし、そして私の言葉に動揺した瞬間、彼のすぐそばにあった、彼が魔法で作り出したのであろう氷のサイドテーブルが、ぐにゃり、と一瞬だけ歪んで、溶けかかったように見えたのだ! これは、まさか……!
「あ、あの、カイル様……もしかして、今の、そのテーブル……カイル様の氷魔法ですよね? なんか、ちょっと……」
すると、カイル様は、読んでいた本をバタンと閉じ、足早にその場を立ち去ってしまった。その後ろ姿は、なんだか少しだけ、慌てているようにも、そして耳まで赤くなっているようにも見えたのは、きっと私の気のせいではないはずだ!
一人残された、花と光に満ちた庭園で、私はしばらく呆然としながらも、心の中ではガッツポーズをしていた。
そして、心の中でこっそりと思う。
(本当だったんだ……感情が、魔法に影響するって。)
(……じゃあ、もしカイル様が本気で怒った時に、そばにいたら……? ブリザードが吹くのかな? うーん、想像しないようにしよう!)
カイル様の意外な一面と、この世界の不思議な法則。私の異世界での新婚生活(契約だけど!)は、なんだか思ったよりも、ずっと面白くなるかもしれない。そんな予感が、胸の中でキラキラと輝き始めた、春の日の午後だった。