序章 契約結婚で異世界へ
え、えっと……状況を整理しましょう。
私は一条雅 (いちじょう みやび)。花の19歳。実家は、この地方ではちょっとだけ名の知れた老舗和菓子屋「一条庵」。季節の移ろいを繊細な筆遣いで映し出す練り切りや、北海道産の厳選小豆を使い、職人である父が毎朝丁寧に炊き上げる、ふっくら艶やかな自慢の餡子が評判で、私は物心ついた頃から、その優しい味と甘い香りに包まれて育ってきた。
そして私は、その店の看板娘(自称)。季節に合わせた古風な柄の着物をしゃんと着こなし、店の上がり框にちょこんと座って、お茶を飲みに来る常連のおじいちゃんやおばあちゃんたちと、「あら雅ちゃん、今日も綺麗だねぇ」「いやだ、おじいちゃんたらお世辞ばっかり!」なんて、他愛のないお喋りをするのが日課だった。日向のような温かさ、和菓子のような優しい甘さ、それが私の日常であり、世界の全てだった……そう、ほんの数時間前までは。
この度、私、一条雅は、誠に遺憾ながら、異世界へ嫁ぐことになりました……って、えぇぇぇぇぇ!?!? ちょっと待って、どういうこと!?
話は、数日前に突然、我が家に激震が走ったことから始まる。長引く不況の波と、近所にできたお洒落な洋菓子店の人気に押され、伝統を守り続けてきた「一条庵」の経営は、静かに、しかし確実に傾いていたのだ。帳簿を預かる母の溜息は日増に深くなり、頑固一徹な父の背中も、心なしか小さく見えた。そしてついに、判明した多額の借金。もはや八方塞がり、万事休すかと思われた、まさにその時だった。
ホコリまみれの蔵の奥深く、まるで忘れ去られた時代の遺物のように眠っていた桐の箱。その中から発見されたのは、初代当主が遺したという、古めかしい巻物だった。達筆すぎて解読困難な文字で書かれていたのは……なんと、異世界の有力者と初代が交わしたという、とんでもない『契約書』だったのだ!
『一条家の直系女子は、要請ありし時、かの常世の地、エーテルガルドに渡り、エーレンベルク家の者と婚姻を結ぶべし。契約、違えるべからず。さすれば、エーテルガルドより一条家へ、永代に渡る『恵み』を与えん』
……え、っと。要約すると「娘さんをください、そしたらお礼に報酬をあげます」ってこと? 何それ、人身売買!?
しかも『常世の地』?『エーテルガルド』?ファンタジー小説の読みすぎじゃない、ご先祖様!?
私は、半信半疑、というより九割九分九厘、信じていなかった。「うちのご先祖様ってひょっとして中二病...」なんて呑気に考えていたくらいだ。
でもその夜、蔵の空間が、まるで陽炎のようにぐにゃりと歪み、目の前に、眩い光と共に異世界への『ゲート』とやらが、ぱっくりと口を開けたのだ。そして、そこから現れたのは、燕尾服を完璧に着こなし、銀髪を綺麗に撫でつけた、絵に描いたような執事の男性だった。
「私はエーレンベルク家に仕える執事、セバスチャンと申します。契約に基づき、雅様をお迎えに上がりました」
流暢な日本語と、完璧なお辞儀。あまりの非現実的な光景に、私たち家族は全員、口をあんぐりと開けて固まっていた。セバスチャンと名乗る執事さんは、そんな私たちを気にも留めず、契約に基づく『恵み』の詳細を、淡々と説明し始めた。その『恵み』というのは、金銭に換算すると…というか、この世界の通貨に換算しても、うちの借金返済どころか、蔵付きの豪邸をキャッシュで建てて、ハワイに別荘買って、ついでに月旅行にだって行けちゃうくらいの、天文学的な価値があるらしい。
それを聞いた瞬間、私の異世界行きは、家族会議(という名の満場一致の決定)によって、光の速さで決定事項となったのだった。
「雅、お前の好きにしろと言ってきた父さんだが…今回ばかりは、頼む!」
「雅ちゃん、ごめんね、でもお店のためなの…!」
「雅姉ちゃん、異世界ってマジ? お土産よろしく!」
……いやいやいや、確かに、家族のため、お店のため…それは痛いほど分かってる。看板娘として、お店が大好きで、家族が大好きだから。
でも、でもね! いきなり異世界って! しかも、会ったこともない人と契約結婚!? まだ恋の一つもまともにしたことない、うら若き乙女なのよ、私!?
「私の人権はーー!?」
そんな私の心の叫びは、異世界からの莫大な『恵み』(という名の札束)の前には、あまりにも儚く、泡のように消え去っていくのだった……。ああ、私の平穏な和菓子屋看板娘ライフ……さようなら……。
こうして、私の異世界嫁入り物語の幕は、有無を言わさず、切って落とされたのである。