<短編>忘れている記憶はございませんか?
「記憶屋?」
こんな場所に、こんなお店あったっけ。
短い二本足で支えられたネオンの看板。
< 記憶屋 > と書かれた白い蛍光文字は、接続が悪いのか、びりびりという音を立てながら点滅している。
商店街のお店の名前や並びを事細かに説明しろと言われたら難しい。しかし、生まれてから17年間ずっと住む、慣れ親しんだ街の風景に感じる違和感はだいたい当たる。
だから、映画に出てくる昭和か平成のスナックのようなこんな看板は、ここには無かった。
ゆっくりと近寄ると、右下に張り紙があるのが分かった。
< 記憶、見れます。階段を上って2階。営業中 >
「記憶、見れます……」
ぼそぼそと呟き、長いポニーテールをくるくるといじりながら首をかしげる。ふと周りを見渡したが誰もいない。
代わりに目に入ったのは、隣の本屋の張り紙だ。おじいちゃんが書く「本日は営業しておりません」の文字は、張り紙というより殴り書き。それに比べると、記憶屋は幾分綺麗な書体だと思う。
というか、この本屋、本日どころかもう1年以上営業している姿を見たことは無い。まあ、このご時世、SNSアカウントを運営していない店主の安否を知ることは、容易ではないけれど。
私は、ポケットからスマートフォンを取り出し、SNSの検索窓に < #記憶屋 >と打ち込んだ。しかし、いくつか書籍や映画の情報がヒットしたものの、それらしき投稿は見当たらない。
こういう場合、可能性は3つある。
1に、若者が来ない、大人向けの店か。
2に、バズってない、つまらない店か。
3に、最近オープンしたばかりの店か。
そうすると、最近新しく出来たお店であることに間違いはない。
記憶を見れますって、映像レンタル屋さんか本屋さんの誘い文句なんだろう。奇々怪々って感じでわくわくするし、センスを感じる。まだ誰も知らないお店なら尚更面白そうじゃん。
私は建物に足を踏み入れ、ゆっくりと階段を上った。スニーカーと木製の階段が擦れるきゅっきゅっという音が、静の洞窟に響く。電球の切れそうな豆ランプがたまに作る暗闇に、現実とは違った世界に足を踏み入れているような気配を覚える。
階段を登り切った先に、窓の無い木製の扉があった。
< どうぞ、ご自由にお入りください >
私は、またもや綺麗な字で書かれた張り紙に吸い寄せられるように扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
扉を開けると、店員と思しき男の声が聞こえた。
一重で切れ長の目に、つんと上向きの鼻、ちりちりとパーマがかかった短めの黒髪。細身の体には、白シャツに赤い蝶ネクタイ、黒いスーツを羽織っている。バーテンダーのような服装。
あと、かなりのなで肩。
だから、びしっときめているはずのスーツが少し不格好に思える。
「どうぞ。お好きな席へ、どうぞ」
どうも。お好きな席へ、どうも。
頭の中で韻を踏んで返答したものの、店内を見渡すとまるで想像と違って驚いた。
昭和のレコードや平成のDVDが沢山並んでいる訳でもなく、本が陳列しているわけでもない。というか、棚なんて一つも無い。
存在するのは、喫茶店のようなカウンターテーブルに、背もたれの無い5脚の丸椅子、見渡す限りの真白い壁。
切れ長の目の男は、カウンターテーブルの中で両手を前に繋ぎ、口角を上げながら立っている。あの男の周りだけ、不穏な空気が重く澱んでいる。
「あ、どうも」
思わず出た声の低さに自分でも驚きながら扉を閉め、言われるがままに私はカウンターテーブルの左端っこにある丸椅子に腰掛けた。
「記憶屋へようこそ」
切れ長の目の男は私の目をじっとりと見ながら、テーブルの上に水が入ったグラスとコルク調の茶色いコースターを置いた。
「本日はいかがいたしましょう」
「いかがいたしましょう……」
とは。注文するメニューのことを指しているのか。水も出されたし、メニューということは、ここはカフェなのだろうか。
「すみません。あの、はじめての利用で。メニューを知らないんですけど」
切れ長の目の男は、「そうでしたね。失礼いたしました」と小さく頭を下げたあと、また一段と口角を上げて私を見つめた。
「メニュー表のご用意はございません」
「え? メニューが無い?」
例えば紅茶が一杯500円を超える場合、高校生の私には高すぎる。それに、2杯目無料だとしても淹れたてブラックコーヒーの美味しさは分からないから飲みたくないし、冷たいオレンジジュースをごくごく飲むっていう季節でもない。
「メニュー表はありませんが、なんでもありますよ」
「なんでもある?」
そう言われても。森の中で<この先危険!>と書かれた縄の向こうに自ら立ち入るようなものだ。と警戒したけれど、あれ。記憶屋が既にもう、縄の向こうなのでは。我ながら警戒ポイントが矛盾していると反省しつつ、どちらにせよ今月はもうお小遣いを使い果たしている。支払えるお金は無い。
「このお店では、あなたが見たいと願う記憶を全てご注文いただけるということです。自分の記憶でも、他人の記憶でも、どんな記憶でもご用意いたします」
「え?」
記憶屋ってそういう記憶屋? 思わず両眉が上がった。
「ご心配には及びません。お代はいただきませんよ」
「い、いや。たしかにさっき料金は心配したけど、今は料金の心配をしたんじゃなくて……。記憶を? 見れるってことですか?」
もごもごとする私に、男は「はい。試しに上映して差し上げましょう」と言いながら右手で指をぱちんと鳴らした。
すると、カウンターテーブルの上に大きなスクリーンが出現し、映像が映し出された。
「へっ?」
思わず出た自分の裏返った声に、両手で口を塞いだ。
なぜならスクリーンには、あり得ないことに私の家の映像が映し出されているからだ。
ーーーーーーーーーー
「だから、どうして分かってくれないの?」
私は声を張り上げ、リビングにあるピアノの椅子から立ち上がる。楽譜を手に取ると、床に叩きつけた。
「お父さんは、奏音の夢を応援したいんだ。ピアノが好きなんだろう? ピアニストになりたいんだろう?」
「お母さんもよ。奏音ちゃんには可能性があるから」
お父さんが私の肩を掴んで宥め、お母さんが楽譜を拾い上げている。
「違う! お父さんとお母さんの勝手な夢を押し付けないでよ」
そんな2人をよそに、怒りのおさまらない私はお父さんの手を振りほどいた。
「勝手な夢? 奏音の夢は違うのか?」
お父さんが目を見開く。
「私には可能性なんてないの。才能もないの。私が一番よくそれを知っているの。私がピアニストになりたいと言ったことなんてある?」
「なりたく、なかったの?」
お母さんが楽譜をぎゅっと抱きしめた。
「なりたいと思ったことなんて、一度もない!」
私はいつの間にか大粒の涙を流したまま、話を続けた。
「私には弱くて、細い音しか、出せないの。努力を簡単に裏切ってくるピアノが大嫌いなの!」
「奏音ちゃん、落ち着いて。上手に演奏しようだなんて、そんなこと思う必要は無いの。だからもう一度ピアノを好きと思えるようになるまで、少し休憩しましょう」
「そうだぞ、奏音。好きと思えればそれで良いんだ」
お母さんが両手で私の右手を取り、ぎゅっと握った。
「違うの。そもそもピアノを好きと思ったことなんて一度も無いの!」
お母さんの手を思い切り振り解く。
「それは嘘だ!」
お父さんが声を張り上げた。
「どうして分かってくれないの? もういい! お父さんもお母さんも大っ嫌い! こんな家、生まれて来なければ良かった」
私はお父さんよりも大きな声を張り上げ、家を飛び出した。
ーーーーーーーーーー
映像はそこで止まり、カウンターテーブルの上からスクリーンが消えた。
「待ってください。どうしてこんな映像を持っているんですか? これは私のさっきの……」
開いた口が塞がらないとはまさにこのこと。
「1時間ほど前の記憶ですね。あなたが家を飛び出して、記憶屋に来る前の」
どうして、この男が私の家の映像を持っているのだろう。どうして、ついさっきの出来事を知っているのだろう。
どうして、どうして、どうして……。視界がくらくらとして目が回り、両手でこめかみをきゅっと押した。
この男は何者か。私のファンかストーカーか何かだろうか。とにかくまずはこのお店から出よう。そう思い、音を立てないようにゆっくりと椅子から立ち上がろうとお尻を浮かした時、男が声を発した。
「私は、あなたが奏でる優しい音色が大好きですよ」
ぎょっとして男を見上げた。浮かしていたお尻をつき、椅子ごと後ずさりをする。
「は?」
音色って、まるで私のピアノを聴いたことがあるような言いぐさじゃない。やっぱり、私のストーカーなのでしょうか。気持ちが悪い。ここは、この男は、あまりに不気味すぎる。
くらくらとする頭を何とか垂直に保ち、出口へゆっくりと後退りした。
男は「あら、お帰りですか」と言って頭を下げ、下を向いたままこう言った。
「私はあなたの胸の痛みを知っています。あなたの味方です。いつでも戻ってきてください。ここでお待ちしていますね」
私はいよいよ後ろを向き、男の声を背中で弾いて扉を開け、ダッシュで階段を下りた。
一心不乱に商店街を走り抜けた。はあはあと白い息を吐くたびに、肺がキリリと痛む。
気が付くとストリートピアノの前にいた。
私が幼いころは栄えていて、春は咲き誇るソメイヨシノの桜に人が集まり、夏は七夕まつりが開催され、子どもたちの願い事に溢れた。秋は作り物でもカラフルな紅葉の飾り物が並び、冬はクリスマスソングが流れる煌びやかな空間に彩られた。
商店街のちょうど真ん中に鎮座するストリートピアノでは、老若男女が思い思いの楽曲を演奏していた。
役目の無い今、もの悲しさだけが漂っている。
私もかつて、このストリートピアノで何度演奏したことか。
お父さんは、自分が諦めたピアニストの夢を押し付けてきたし、お母さんも連れ立って私を鼓舞した。
そもそも私の名前だって、ピアノにちなんで奏音と名付けられている。一番嫌いな曲は、パッヘルベルのカノン。勝手に父が付けたのだろう、名前の由来になった曲。
しかし、私にピアノの才能は無かった。先生やお父さんに手を叩かれながら血のにじむ努力をしても、本番になると何故か練習の成果が出ない。
でも、どうしてあの男はそれを知っているのだろう。
――「私はあなたが奏でる優しい音色が大好きですよ」
私のピアノは、優しい音色なんかじゃない。弱いんだ。細いんだ。
小学校の卒業式。
私は式典のピアノ演奏担当に推薦された。学年全体の代表とあって、父も相当な気合が入っていたのだろう。来る日も来る日も、夜中まで練習をした。そして迎えた卒業式当日。スーツ姿の親に囲まれ、先生が涙を流し、クラスメイトが一心に私を見つめる。
私の鼓動は、極限まで加速した。加速して、加速して、加速して、真っ白な頭のまま演奏をした。一切の記憶が無い。
式典を終えてトイレに籠っていた時、誰かが笑い合う声がした。
「ピアノの音、何も聞こえなかったよね」
「うん。めっちゃ小さくて、弱かった」
「先生が、細い音って言ってたよ」
「みんな指揮者見て、必死に歌のリズム合わせてたもんね」
「その指揮者もさ、眉間にしわ寄せながらピアノ見てたよ。多分、聞こえなかったんだよ」
あの日はじめて、心臓に鋭い刃物が刺さるような痛みを覚えた。それからというもの、私はピアノを弾くと必ずあの痛みを追体験するようになった。
でも、ピアノを弾くたびに胸が痛むことを誰にも話したことはない。それなのにどうしてあの男は、あんな言葉を使ったのだろう。
――「私はあなたの胸の痛みを知っている」
え……何。やっぱりファン? ストーカー? と身震いする体をさすったけれど、冷静になろう。そういえば私は、ファンがつくようなプロのピアニストではないから思い上がりだし、あの食卓の映像も家の外から撮れるような画角じゃない。
だとすると。
あの記憶屋では、本当に人の記憶を自由に見られるということ。そしてあの男は、私の記憶を見て、私の過去を全て知っているということになる。
そう考えたら、全ての合点がいく。
勢いで飛び出して来てしまったけれど、もう一度話だけでも聞いてみようか。
両親と喧嘩をして家を飛び出した手前、すぐに帰宅するのも格好がつかない。なけなしのプライドもあり、私はすぐに来た道を引き返した。
「お帰りなさいませ。お戻りが早かったですね」
嵐のように去り、すぐに舞い戻った私を見て、男はけたけたと笑った。私は小さく「すみません」と口をとがらせ、首を前に突き出した。
「早速ですが、どんな記憶をご覧になりますか」
どんな記憶って言われても……。
「難しいです。逆におすすめはありますか」
「おすすめですか。そうですね」
男は手を顎に当て、しばらく考え込んだあと、閃いたようにパチンッと指を鳴らした。
「さて、こんな記憶はどうでしょう」
指の合図に合わせ、記憶の上映がはじまった。
ーーーーーーーーーー
映し出されたのは、商店街を歩くお父さんとお母さんだった。随分若く見える。
お腹の大きなお母さんと、お母さんの背に手を添えて歩くお父さん、その間には見知らぬ男の子の姿がある。
賑やかな商店街を歩く3人の顔は、オレンジ色の夕陽に照らされている。溶けるような幸せな空気が、私の体を柔らかく包み込んだ。
商店街の中心部にあるストリートピアノでは、花柄のワンピースを着た女性がパッヘルベルのカノンを演奏していた。
「あら!今、赤ちゃんがお腹を蹴ったわ」
お母さんが、大きく膨らんだお腹をふんわりとさする。
「赤ちゃん、ピアノが好きなんだね」
真ん中にいる男の子が、お母さんの顔を覗き込んで笑った。
「おお、そうか。カノンが好きなのか。天才児かもしれんぞ!」
お父さんが大きな口を開け、空を見上げて笑った。
「そうね。私たちにとってもカノンは大切な曲だものね」
「大切な曲なの?」
お母さんが男の子の頭を撫でながら微笑んだ。
「そうよ。2人が出会ったのは高校の卒業式。クラスが多かったからお互いの存在を知らなかったんだけど、お父さんが式典でカノンを弾いてくれたから出会えたの」
「弾いたと言っても、緊張で倒れて途中退場したんだがな」
お父さんがまた、空を見上げてげらげらと笑った。
「そう。それで保健委員だった私が介抱して。"途中までだったけど、あなたが奏でるピアノの音色が大好きでした"って言ったの」
お母さんがうっとりとした顔でお父さんを見つめた。
「あの時、音楽はそれで良いんだって思えたんだ。何も背負うことは無い。ただ純粋に、音や空間を楽しめれば良い。そうすればきっと、どこかの誰かに思いが伝わるんだって」
お父さんが2人の体を思い切り抱きしめた。
「ねえねえ! それじゃあ、赤ちゃんの名前は、カノンにしよう! カノンちゃん、みんなカノンちゃんに会えるのを待ってるよ。大好きだよ」
男の子が、お母さんのお腹にキスをした。
「ふふふ、大好きよ」
「パパとママとお兄ちゃんの宝物だ」
「生まれてくるのが楽しみね」
まるで家族3人を祝福するように、ソメイヨシノの花びらがはらりと宙を舞っていた。
ーーーーーーーーーー
映像が終わり、目の前に男の顔が現れた。
「私、この景色、覚えている気がします」
「はい。これは、あなた自身の記憶ですから」
「私……自身の記憶」
「そうです。きっと、あなたが覚えている一番最初の記憶です」
その言葉を聞いた私は、椅子から素早く立ち上がった。
そうだ。私はこの日、お腹の中から聞いた家族3人の声を鮮明に覚えている。
どうしてかなんて理屈は知らない。デジャブかもしれない。でも、そんなのどうだって良い。
いつの間にか頬を伝っていた涙を拭いながら、店の扉を開けて階段を駆け下り、一目散に家へと走り出す。
喧嘩をしたまま家を飛び出し、突然息を切らして帰る娘に、お父さんとお母さんは何と言うだろうか。もしもまだ怒っていたとしたら、一言目は何と言おう。何を話そう。
あれやこれやと考えあぐねていたら、あっという間に門の前に到着した。
「奏音ちゃん! 奏音ちゃん、ごめんね。コートも着ずに、寒かったでしょう」
そんな私が馬鹿らしくなるほど、お母さんは優しく温かい笑顔で迎えてくれた。
「怒っていないの……?」
「怒るだなんて。ママ、奏音ちゃんの気持ちも知らずにごめんなさい。無事で安心したわ」
「ううん。私こそごめんなさい。客観的にみると、強く言い過ぎてるなって反省したよ」
私は食卓の映像を思い出して恥ずかしくなり、はにかんだ。
「客観的って?」
「あっううん。大丈夫。こっちの話」
頭に浮かんだ映像を手でささっと払い、「お父さんはどこ?」と話題を変えた。
「お父さんは、奏音ちゃんを探しに出て行ったわよ」
「帰ってきたら謝らないとだね」
「そうね」
こんな風に、邪気のない心でお母さんと微笑みあったのはいつ以来だろう。
「変なことを聞くんだけど……、もしかして、私にはお兄ちゃんがいた?」
母が目を見開いた。
「そうね。敢えて話題にしなかったのだけど、もうあなたも大人だから話した方が良いわね」
2人で家の中に入ると、母は「よっこらしょ」と言いながら引き出しから大きなアルバムを取り出した。
「お兄ちゃんは、奏音ちゃんが1歳の時に亡くなったの。6歳だったわ。とにかく奏音ちゃんのことが大好きで、お腹にいる時から"赤ちゃん、待ってるよ"って。体が辛いはずなのに、最期まで、奏音ちゃんが心配だ奏音ちゃんをよろしくって気にかけてた。きっと今も、天国から見守っているわ」
母が「この子よ」と言って指差した写真には、見覚えのある男の子が赤ん坊の私を抱っこしていた。
白シャツに赤い蝶ネクタイ。黒いスーツを羽織った切れ長の目の男。
そう、かなりのなで肩の。
「写真スタジオで撮影したの。お兄ちゃん、カッコ良いスーツを着られて嬉しいってとても喜んでいたのよ」
「うん。お兄ちゃん、似合ってるよ。似合ってる」
だって私、目の前で見たから。
でもね、なで肩だから、びしっときめているはずのスーツ、少しだけ不格好なんだよ。
家族に背負わされたと思っていたピアニストの夢。
それは、家族みんなの、いや、私が人生で一番最初に味わった幸福の瞬間だったんだ。
「お母さん、ごめん。ちょっと会いに行かなきゃ!」
私はアルバムに目を落としたまま、その場に立ち上がった。
「あら、どこに?」
「今度はすぐに戻るから大丈夫! 待っていて!」
家を飛び出して商店街を走り抜けるのは、今日2度目のことだ。
しかし、抱えている思いも表情も全く違う。たったの数時間で、忘れていた思い出の欠片を見つけ、きっと私は何歩も成長した。
はあはあと吐き出す白い息が、リズミカルだ。
「ついた」
しかし、そうしてたどり着いたあの場所に<記憶屋>は存在しなかった。狭い空間にただの空き地が広がっているのみ。
隣には、本屋のおじいちゃんが書いた「本日は営業しておりません」の殴り書きがあるから、この場所であることは間違いない。
「そっか。そうだよね」
もう一度会ってお礼を言いたくて家を飛び出したけれど、もう会わなくても大丈夫だと、私にはもう記憶を見る必要はないのだと、心のどこかで悟っていた。だから、不思議と落ち込みはしなかった。
それから私は、商店街の中心部に向かった。ストリートピアノに腰を下ろし、少し硬くなった蓋を持ち上げ、鍵盤にそっと親指を置く。
ドーーー。
下唇をぎゅっと噛んだ。
私の音は、弱くなんかない。細くなんかない。クラスの皆に聞こえなくたって、どこかの誰かの心には必ず届いている。
奏でているのは、優しい音色なんだ。
私は、人生で最初に感じた幸福な記憶を辿るように目をつむり、深く息を吸った。
うん。覚えている。しっかりと今、あの日4人で歩いた夕暮れの道を思い出した。
目を開き、ゆっくりと奏でるのは、小学校の卒業式以来遠ざけ続けたパッヘルベルのカノン。
名前の由来になった、大好きな曲。
私が演奏をはじめると、カノンのリズムに合わせるように、冬に咲くはずの無いソメイヨシノの花びらが一枚はらりと宙を舞った。
「お兄ちゃん、これからも見守っていてね。ありがとう」