〈転機〉ピスケス
目覚めてすぐ視界に入ったのは白い天井だった。
彼女は熱いものを触った脊髄反射のように、ブランケットを跳ね除ける。
台に置かれた丸メガネを素早く手に取ると、ベッドから飛び降りて部屋を見回す。
カーテンの引かれた窓。パソコンの置かれた机と薬品棚。そして誰もいないパーティションで仕切られたベッド。
「ここは保健室。夢じゃない。もう二回も同じ部屋で目を覚ましてる」
彼女は誰が訪れるか分かっているのか、部屋の出入り口に注目する。
しばらくしてヒールが床を打つ甲高い音が聞こえ、それが次第に大きくなっていく。
彼女は一刻も早く答え合わせをするように自ら扉を開けた。
「あら、もう起きて平気なの」
やって来たアリスを見てあまりに驚きすぎたのか、フリーズするように扉を開いた格好のまま固まる。
「アサヒ?」
名前を呼ばれて一時停止が解けたようだ。
「はい。エフォールさん」
「ワタクシの事が分かるのね。じゃあ自分に何が起きたのかも覚えているのかしら?」
「えっと、記憶喪失になったんですよね。エフォールさんと決闘していて」
「その通りよ。今からでも問題ないわね」
アリスは今にもシミュレータールームに連れて行こうと、組んでいた腕を解いて手を伸ばす。
彼女は意図に気付いたのか、慌てた様子で両手を前に突き出した。
「ま、待ってください!」
「どうしたの。まだ調子悪い? 頭痛がするとか」
「いえ身体は元気です」
彼女は自分の身体を叩いて健康をアピール。胸を勢いよく叩きすぎたのか、ゲホゲホとむせる。
「落ち着きなさい。今の貴女、まるでドラミングに失敗したゴリラみたいよ」
彼女は例えが分からなかったのか何度も何度も首の角度を変えていた。
アリスが咳払いでそれを止めさせる。
「いいのよ。そこまで深く考えなくて。でもまだ完全に記憶は戻ってないみたい……ここは一刻も早く戻す為にも資料室へ向かった方がいいかしら」
「あ、あの!」
彼女はおさげを掴んで大声を出す。
「どうしたの」
「色々と教えてもらう前にですね。私の話を聞いてほしいんです」
「いいけど手短にお願いね」
「はい。ええと、変な事言ってると思うかもしれないんですが」と、前置きしてから続ける。
「待った」
携帯を確認していたアリスが声を上げた。
「はい!」
「起きたばかりなんだから、座って話しましょう」
促されて彼女はベッドに腰掛ける。
アリスはそれを見届けると、まるで玉座に座すようにキャスター付きの椅子に座る。
「どうぞ続けて」
「はい。それでは続けます」
完全にアリスのペースに呑まれている。今の彼女は女王の前にかしずく農民だった。
「私、記憶があるんです」
「記憶が戻ったということ?」
「いえ。眠る前の記憶は全くないんですけれど、でもこの後何が起きるか覚えているというか、分かるというか」
アリスは無言で先を促す。
「最初は似たような出来事の夢を見たと自分を納得させていたんですけど、でも二回、いえ三回も続くと、これは夢じゃなくて現実なんだなって思って。それで」
「それで?」
「私はどうしたらいいんでしょう」
「まとめると、貴女は記憶喪失になってから、同じ日を繰り返す力を手に入れたということね」
「はい。目が覚めると必ず最初に現れるのはエフォールさんなので、相談するなら今しかないと思いまして」
アリスは顎に手を添え考え込む。
「これはかなり重症みたい」
「えっ、どういう事でしょうか」
「記憶喪失だけでなく、記憶障害まで引き起こしているなんて」
「違うんです。本当に同じ日を繰り返して――」
彼女の鼻腔が、とろけるような甘さと舌をも刺激するスパイシーな香りに満たされる。
香りは押し倒したアリスから漂ってきていた。。
「もう喋らないで。人を呼んでくるから貴女は寝ていなさい」
なおも喋ろうとする彼女の唇に指を添えると、アリスはヒールを鳴らして保健室を後にした。
彼女は遠ざかるヒール音を聴きながら、ベッドの中で思案するようにウンウンと唸る。
「このままじゃ、また今日を繰り返してしまう。どうすれば、そうだ! あの人なら」
何かを決意したのか、ベッドから降りてスライドドアを開けようとしたところで微かな声が聴こえてくる。
「全く、なんであたいがこんな事を……でもお姉さまの言う事は絶対。これで、また褒めてもらえる〜!」
スイシェンがいる為に出入り口から出る事を諦めたのか、彼女は出入り口から離れ、次にカーテンが引かれた窓へ向かう。
隙間から下を覗き込み、保健室が校舎の二階にある事を確認。
日差しを浴びながら窓を開けると、彼女は躊躇うことなく六メートルの高さを飛び降りた。
膝を曲げて衝撃を和らげ、薄曇りの下、目的の場所の方へ走っていく。
二階の保健室の窓からは、いつの間にか戻っていたアリスが背中を視線で追いかけていた。
手に持つ砂時計の砂は勢い弱くも着実に下に落ちていく。
「まるでリスみたい。いえ、リスに失礼ね」
*
彼女は格納庫の扉を開ける。中はロボットクレーンが動き回り、オートメーション化された自動車工場のようだ。
完全自動化されているのか、人っ子一人見当たらない。
背中に巨大な拳を持ったスレイヴや輪っかを背負った木の枝のように手足の細いスレイヴの前を通り抜け、黄金のスレイヴの前に立つ。
サイドカー付きのトライクに跨る犬耳ロボットに向けて声を張った。
「あの!」
反応がない。
「……あの!」
大きく息を吸い込んでもう一度呼びかけるものの、結果は同じだった。
「すぅー、あ――」
「ちょっといいかしら?」
「のひゃい!」
後ろから呼びかけられ、つい炭酸飲料の栓を開けるような声が出た。
おさげを掴みながら振り向くと、そこにいたのはベールで顔を覆い隠した女性だ。
「あの、誰でしょう」
「ごめんなさい。まだ記憶が戻ってなかったわね。わたしは海王星から来たイルマ・ニェプトゥン」
「初めまして。アサヒ・アメです」
「緊張しないでミス・アサヒ。と言っても難しいかもしれないけど」
「イルマさんと私は仲が良かったのですか」
「ええ。わたし達は永い付き合いなの。でも今はその話をしている余裕はなさそうね」
「そうなんです! あのアケノさんが中にいると思うんですが、返事がなくて」
彼女はヴィーナス・オブ・ドレッドノートを指差した。
「呼び出してもらえませんか?」
「それは無理な話ね。ミス・アケノはここにはいないもの」
「あっ、そうなんですか」
「ついさっきまではいたんだけどね。すれ違いで出て行ってしまったみたい」
「どこに行ったか、心当たりありますか?」
「本人に聞いてはないけれど、格納庫に行った後は必ずといっていいほど、食堂に行っているみたい」
「食堂ですね。じゃあ私はここで、教えてくれてありがとうございます!」
「ミス・アサヒ、まだ話が――」
彼女は、ニェプトゥンの言葉を最後まで聞く事なく逃げるようにその場を去った。
入れ替わるように、何度も聞いたヒールの音が格納庫の中に響きわたる。
*
息を切らして走っているうちに、限界を迎えて壁にもたれかかる。
「食堂ってどこ」
ニェプトゥンが教えてくれる前に格納庫を後にしたので、場所が分からないようだ。
地図が何かを探すようにキョロキョロしながら歩いていると、角から現れた少女に気づかずにぶつかってしまう。
彼女は咄嗟に踏みとどまって堪えたが、ぶつかった相手は後頭部から勢いよく倒れていく。
手を伸ばすがとても届きそうにない。その間も少女は自分の運命を受け入れたかのように無表情のまま倒れていく。
彼女は目の前の出来事から逃げるように瞼を閉じた。
岩が落ちるような重い音はせず、代わりに羽毛布団に飛び込んだような音が聞こえた。
ゆっくりと瞼を開けると、メガネを外して、しきりに瞼を擦る。
視線の先では、仰向けの少女が円形のクッションの上で手足を揃えて寝ている。
覗き込むと、下からの目線と交差する。
「あの、怪我してませんか」
「うん」
少女は仰向けのまま自己紹介をする。
「クアラ・ウラヌス」
彼女はどうしたらいいのか分からないのか、口を開いては閉じてを繰り返していたが「あ、アサヒ・アメです」と辛うじて名乗ることができた。
「知ってる」
ウラヌスは欠伸しながら続ける。
「アメちゃん。元気になった?」
「はい。身体の方は、でもまだ記憶が戻ってなくて」
クアラとは初対面だからか、同じ日を繰り返していることは言わないようだ。
「アメちゃん。早く良くなってね」
ウラヌスは目尻に溜まった涙を拭う。
「ありがとうございますクアラさん。眠そうなところごめんなさい。聞きたいことがあるんですけど」
「何?」
「食堂ってどこにありますか?」
「……」
「……」
しばらく無言の時間の後、
「スゥークゥー」
健やかな寝息が続いた。
「あの、クアラさん、クアラさーん」
「……うん、おはよう」
眠り姫は何事もなかったように挨拶をした。
「おはようございます……じゃなくてですね。食堂の場所を」
「この角を曲がってまっすぐ。扉の上に〈食堂〉のプレートがあるからそれを目印にするといい」
ほぼ囁き声だったが、不思議と耳に吸い込まれていく。
「角を曲がってまっすぐ、ですね。教えてくれてありがとうございます」
「困った時はお互い様」
「はい。あっ一人で起きれますか?」
「うん。気にしないで。眠いだけ」
そう言って大きなあくびをしたクアラは、廊下の真ん中にも関わらずゆったりとした寝息を立てる。
彼女は会釈して、その場を後にした。
足音が遠ざかったのを確認したクアラは気怠げに瞼を開けると、瞼の開閉で電池切れになったように立ち上がる。
同時に身体を支えてくれたエアベッドが小さくなって背中のランドセルに収まった。
ベッド内蔵のランドセル〈ベッドシェル〉を背負い直し、クアラは見えないアサヒに声をかける。
「アメちゃん。早く良くなってね」
*
教えられた通りに廊下を進んでいると、目的の場所のプレートが目に入ったようで、下がり気味だった眉が大きく跳ね上がる。
小走りで扉に近づいていくと、扉が内側から開いたので靴底を鳴らしてブレーキをかける。
「ユピテル今日も最高のパンケーキだったよ……あれ?」
ご満悦な表情のアケノが廊下に佇む人物に気づいた。
「アメじゃん。もう起きてもいいの」
「う、うん。あの、アケノさん、だよね」
「そ、そうだよ。なんか改めて聞かれるとムズムズするな。で、ボクに何か用?」
「う、うん聞いてほしい事があるの!」
おさげを弄っていた彼女は、意を決したようにアケノの右手を掴んだ。
「うひゃっ!」
そんなアケノの悲鳴が無人の廊下にやまびことなって響き渡る。
「急に、手握られたらびっくりするだろ」
アケノの顔がカーネーションのように赤くなったのを見て、彼女の顔も赤くなる。
「で、聞いてほしいことって、何」
耳まで赤くなっていた彼女は、用件を思い出したのかアケノの手を掴んだまま話し出す。
「私、目覚めてからずっと、今日を繰り返してるの!」
「えっ、どういうこと」
「だからね。エフォールさんとの決闘で気を失って目覚めたら記憶が無くなってるだけじゃなくて、同じ日を繰り返してるの!」
「分かった」
「もうループの原因が分かったの?」
「いや、それは全然。取り敢えず廊下で話す事じゃない話題という事が分かったってこと」
「あっそういう」
「取り敢えずボクの部屋に行こう」
*
「お邪魔しま〜す」
彼女はアケノの部屋に恐る恐るといった様子で入っていく。
「そんな初めて来たみたいな……記憶がないから初めてっちゃ初めてか。まあ遠慮しないで入って入って」
アケノに促されて部屋に入ると、まず目に飛び込んできたのは部屋の大部分を占有している三輪のバイク。
壁にはフライトジャケットが何着もかけられ、棚には金色に輝く大小のトロフィーが光を反射している。
「これ全部アケノが取ったの」
「そうだよ。〈ガンサイクル〉大会で優勝したときのやつ」
「ガンサイクル?」
「バイクと銃を使ったモータースポーツだよ。バイクでコースを走りながら的を撃ってポイントと時間を競うんだ」
「あっこれの事?」
トロフィーの側に写真立てが置かれている。アケノかトライクに乗りながら二丁拳銃を構えている姿や、トライクの前で彼女とアケノのツーショット写真もあった。
「記憶喪失になる前はアメも見に来てたんだぜ。思い出せない?」
「ごめんなさい。全然」
「あやまらなくていいって。じゃあループの事教えてよ」
リビングのテーブルで対面に座る。スラックスを履いたアケノは、ジャケットを羽織ったまま椅子に座った。
彼女は自分が体験したループとその時に起こった出来事の一部始終を話す。
「すごっ!まんま映画みたいじゃん!」
「あまり信じてない?」
「いや、アメは嘘つかないから信じるよ。でも、実感が湧かないなぁ」
「当事者の私だって今も信じられない。けれど本当の事なの!」
「ゴメンゴメン。でもなんでボクに相談しに来たの」
「それは、二度のループで真っ先に助けに来てくれたのが、アケノさんだったから」
「ストップ」
突然彼女の前に掌が迫った。
「な、なにアケノさん?」
「それ、それだよ」
アケノがピストルを構えるように、人差し指を向けた。
「なんで「さん」付けなのさ」
「だって、私達会って三度目」
「それは記憶喪失の時の話。ボク達は親友なんだから。ほらこれ」
アケノはツーショット写真を持ってきて見せつける。
「そうだとしても、私、全然記憶が」
「アメが覚えてなくてもボクが覚えてる!」
アケノが手で作った拳銃を撃つ。その言葉は弾丸となって彼女の心に届いたようだ。
「分かったアケノさん――ううんアケノ」
「よしよし。いつものアメにほんのちょっと近づいてきた」
褒められたと感じたようで、彼女は頬を赤らめておさげをこねくり回す。
「じゃあ改めて。今日を繰り返す原因は分からないんだね」
「うん。何でこうなっちゃったか全然、エフォールさんからは大脳皮質にダメージが入ったって聞いたけど」
「でも治療はされてる。後遺症もない。か」
二人は原因の糸口が見つからずに黙ってしまう。
「そういえばループするキッカケって何なの」
「キッカケ」
「そう。いきなり同じ日の朝に目覚めるんじゃなくて、何か起きてループするんでしょ」
「うん。アケノに……えっと、その」
何をされたか思い出したからか、彼女は突然口籠る。
「なに、途中で黙ってるのさ。早く言ってよ」
「お、怒らないで聞いてね。ビンタされて目覚めるの」
「ビンタってこれ?」
アケノは自分の頬を軽く張る。
「それ。いつも叩かれて一日が巻き戻るの」
「なんでボクがビンタを、そんな怒らせるような事を毎回してるって事?」
アケノが指鉄砲を眉間に向ける。
「違う違うよ。そんな怒らせることなんて、言ってないし、やってないよ!」
「じゃあ、なんでボクはビンタしてるのさ」
「それは、多分。ん〜〜ん〜〜」
彼女は、おさげを掴み眉間に皺を寄せて唸り声を上げる。どうやら張り手されるキッカケを考えているようだ。
棋士の長考のように唸っていた彼女が、突然顔を上げる。
「思い出した!」
「なになに、早く教えて」
「うん。私がエフォールさんに一位の称号を譲るって言ったと――」
言い終わる前に、左の頬に鋭い痛みが走る。
「「あっ」」
二人の間の抜けた声が、同時に部屋に弾けた。
彼女は何か言いたげな表情のまま椅子から転げ落ちる。
ーー次回アリエスーー