「透徹にして愚昧なるドラキュリア〈4〉」
※グロ注意
※一応、百合注意
窓から緩やかに吹き込む風は、石で囲まれた閉塞感を押し流すように過ぎていく。
メイリは、自室の窓から空を眺めつつ、サンドイッチを頬張っていた。
未だ暖かな午後の陽気の中で、遅めの昼食を取る。ザキュラもいない。
なんだか優雅だなと思いつつ、ぼんやりとしていた。
パンからはみ出たレタスを、無心でしゃくしゃくと齧る。
あれから、床の血だまりを掃除して、ザキュラの血塗れの服を洗濯して、と結構時間がかかってしまった。
なにせ、あの濃厚な血の臭いが充満する中でご飯を食べる気になどなるはずもない。
となれば、臭いの元を先に片付けるしか選択肢はなかった。
食べ終わり、手についたソースを舐めつつ、皿を片付ける。
しばらく換気をしていたので、隣の部屋に入っても、血の臭いはあまりしなくなった。
とはいえ、ザキュラとメイリの暮らすこの部屋には、血の臭いや、死臭ともいえる臭いが完全に染みついてしまっている。どんなに掃除しても、常にそこはかとなく漂うこの臭いは消えないのだ。
それはメイリ自身も例外ではない。ザキュラから血の臭いがするのは当然だが、いつの間にか、メイリの服や体からも仄かに血の臭いが香るようになってしまった。それもいくら洗っても落ちず、もう諦めている。
そのせいだろう。自分から血の臭いがすると気づいた頃から、出かけるとすれ違う人から避けられ、店からやんわりと追い出され、憲兵隊や他の人食いから声を掛けられることが格段に増えた。
おまけに、ザキュラの秘書であることを説明すると、それっきり二度と話しかけられなくなる。
そんなやり取りを繰り返さなければならないのだから、気が滅入るのも当然だ。
そんなこんなで、外に出ること自体が億劫になってしまい、ここしばらくは買い物すらも行かず、ミューリに頼りきりになってしまっている。
…こういう時ばかりは、周りを何も気にしないザキュラが羨ましくなる。
そんな、どうしようもない事ばかり、つらつらと思い出してしまい、気分がどんどん落ち込んでいく。
さて、皿を洗い終わってしまうと、本当にやることがなくなってしまった。
メイリには趣味と呼べるようなものは映画観賞くらいしかないが、この部屋にはテレビもDVD再生機器も無い。
だから前までは映画館に行っていたのだが、前述の通り、外に行きたくない。
掃除は昨日やってしまったし、ザキュラは帰ってこない。
…ひたすらに暇だ。
そうしてメイリがテーブルに突っ伏していると、ノックの音が響く。
「メイリ~?居る~?」
聞き覚えのある声が扉越しに投げかけられる。
(ミューリ?でもなんで今?)
メイリは疑問を抱きつつも、
「はーい」
と答えて扉を開ける。
「やほー、メイリ。今時間ある?」
扉を開けると、目の前で真っ白のロングヘア―から生える白い耳がピコピコと動き、大きな二つの尻尾がくねるように揺れている。
「え、うん。あるけど…突然どうしたの?」
メイリの問いに、ミューリは若干気まずそうにする。
「んー、実はね、ザキュラちゃんの事で話があるんだ」
メイリはなんだか嫌な予感がした。
「ザキュラ様の事…?わ、わかった、私の部屋でいい?」
「もちろん」
ミューリが改まって話に来るのだから、余程の事なのだろう。
換気しておいてよかった、と胸をなで下ろしながら、自室に入る。
メイリは、何を言われるのか気が気でならず、友人の前だというのに、緊張した面持ちをしている。
二人でソファーに腰かけると、ミューリは相変わらず気まずそうに話し出す。
「えっとね、今日ザキュラちゃんがユカちゃんの所に相談に来たんだ…」
「え…そうだったんだ」
珍しいこともあるものだ。その上ミューリが言いにくそうにする程の相談なのだろうか。
「それで、驚くと思うんだけどね、ザキュラちゃんは、メイリと仲良くなりたいんだって」
「…え?」
メイリは、その言葉が理解できず、固まった。
仲良く?ナカヨク?なんで?どうして?
「だからね、その、ザキュラちゃんはメイリの事は食べないと思うんだ。」
「…はあ」
あまりに予想外の話で、メイリは呆けた声を出す。
メイリの抱いていた、ザキュラのイメージと違いすぎる。思考回路が人間とはかけ離れているとは思っていたが、まさか、あれで仲良くしようとしているつもりだったのだろうか。
ザキュラと仲良くするなど、そんな事考えたこともなかった。そもそもメイリは彼女を人として見ていなかったのだ。あれは災害であり、自分は起こった事に対処するしかないものだと。
あんな厄災と仲良くなれるものなのだろうか…?
「だから…前にメイリは食べられるのが怖いって言っていたけど、怖がらなくてもいいっていうか、なんていうか、すぐには難しいかも知れないけど…ザキュラちゃんの事もちゃんと見てあげて、受け止めてあげて欲しいなって」
ミューリはどことなく申し訳なさそうに、力なく笑う。
「…そう、なんだ…えっと、本当にザキュラ…様がそう言ってたの?」
信じがたい話に、メイリはなんだか眩暈がしてきた。
「うん…ユカちゃんと一緒に聞いた。嘘じゃないと思うよ」
「そっか…」
ザキュラは嘘がつけるほど器用でも賢くもない。それが本心なのだろう。
とはいえ、今までずっとトラウマを抱えて怯えてきたものが急になくなったと言われても、明日から変えられるようなものでもない。
そんな簡単に、恐怖に苛まれ続けた傷跡が消えるわけがない。
メイリは項垂れた。一体、どうすればいいのだろうか。
ミューリも伏し目がちに、黙ったままだ。
メイリはふと顔を上げる。
「そういえば…相談は、結局どうなったの?」
少し間をおいても、ミューリは俯き、黙ったままだ。
「…ミューリ?」
彼女は、ゆっくりとこちらを向く。
「…メイリには、ザキュラちゃんの事を受け入れて欲しいって」
なぜか、悲しそうな顔をしている。耳も、尻尾も、力なく垂れている。
ユカもいる場で出された結論であれば、すなわち命令に他ならない。ザキュラがどんなアプローチをしてきても従えと、そういう事なのだろう。
だが、それだけではこのミューリの表情は説明がつかない。
なにか、それ以上の事が…。
怖くとも、尋ねねばならない。友人にこんな顔をさせる、その訳を。
メイリは声を震わせながらも、聞く。
「…どうしたの?」
「…あ、あのね!ザキュラちゃんは、メイリのことをっ…」
ミューリはそこまで言って、逡巡するように、言葉を詰まらせる。
その時、バン、と扉を開ける音がした。
ザキュラが帰ってきたのだろう。
メイリは反射的に立ち上がる。
「あ…ご、ごめんね、すぐ戻るから」
まだ、心の整理はつきそうもないが、とにかく、出迎えなければ。それにザキュラの様子も知りたい。
ミューリは、思い詰めたように、心配そうに、こちらを見ていた。
メイリは自室の扉を開けると、ザキュラと目が合う。相変わらずの無表情で、特に変わった様子はない。
その赤から目をそらしつつ、おじぎをする。
「お、お帰りなさいませ。ザキュラ様」
ザキュラは何も言わず、歩み寄ってきた。メイリはビクリとして、僅かに後ずさる。
少し間をおき、目の前に立つザキュラが口を開く。
「メイリ、話があるの」
その顔は、いつになく真剣そうにみえた。
「は、はい…なんでしょうか」
メイリは恐怖と震えを堪えつつ、なるべく目を合わせるようにした。気分が悪くなってくるが、何を言われても受け止めないといけない。少なくとも、そう見えていなければならない。
しかし、ザキュラの取った行動は、メイリの予想を斜め上に超えてきた。
目の前で、赤が揺れる。暖かい。ふわっと、血の臭いがする。
ザキュラに、抱き付かれた。
「…ッ!?」
メイリは硬直した。予想外の出来事に、頭が真っ白になり、体が動かなくなった。
ザキュラはメイリの背中に手を回し、優しく、抱きしめてくる。
混乱した思考が、次々に弾けては消えていく。次第に、恐怖が体の底から湧き上がってくる。
ザキュラの手が、メイリの背中を撫でる。
耳に、ザキュラの暖かい吐息が当たる。深紅の髪からは血の臭いがする。
そして
「メイリ。私、メイリの事が好き」
そう、ザキュラは耳元で囁いた。
メイリは、絶句していた。
(なんで…よりにもよって、この人に好かれているの!?)
それに、ザキュラの「好き」とはつまり、食事として「好き」とも取れるのではないだろうか。
ザキュラの一挙手一投足が、メイリの恐怖心を逆なでする。
メイリの身体は、堰を切ったかのように、ガタガタと震え出した。怖くて、身体が動かない。声も出ない。歯が、カチカチと音を立てる。
ザキュラは、涙目になったメイリをあやすかのように、背中を優しく、トントンと叩く。
だが、震えるメイリは、ザキュラの放った言葉に驚愕する。
「メイリ。食べない。食べないよ。メイリのこと、食べないよ」
その言葉に、驚きで固まる。
これほどまでに穏やかで優しいザキュラの声音を、今まで聞いたことがない。
ザキュラがメイリを食べるつもりがないというのは、本当だったのか。
「…ぐっ…ひぐっ…ほ、ほ、本当ですか?本当に…んぐっ…私を食べないんですか?」
メイリはすすり泣きつつ、声を絞り出す。
「食べないよ。食べたりしないよ」
ザキュラは優しく声をかけながら、抱きしめ続けた。
なぜか、涙が溢れてくる。恐怖ではなく、嬉しさでもなく、張り詰めていたものが溶けだしていくかのように、涙を流した。
安心した、という事なのだろうか。
赤い髪から、血の臭いがする。それまで思っていたほど嫌悪感はない。むしろ、嗅ぎなれたこれがザキュラの匂いなのだということに、不思議と気持ちが落ち着く。
ザキュラは、メイリが落ち着くまで、抱きしめ続けていた。
メイリの呼吸も整ってきた頃、ザキュラはふと手を離す。
泣き腫らした顔を上げると、赤い双眸と目が合った。
反射的に目を逸らしてしまう。こればかりは、急には変わらない。
ザキュラはそれでもメイリの顔を見つめていた。
「わたしは、メイリが好き。だから、メイリとずっと一緒にいたい」
いつになく真剣な眼差しを向けてくる。
それがわかると、なんだか気恥ずかしさが芽生えてくる。でも、決して嫌ではなかった。
まだ染みついた恐怖は消えない。でも、時間をかけてでも受け入れてあげよう、そう思えるほどに。
そして、ザキュラは流れるように言った。
「だから、メイリ。わたしの眷属になって」
「…え?は、はい」
よくわからなかったが、思わず返事を返してしまう。
「ありがとう」
そう言って、ザキュラはメイリの肩を強く掴み、
その白い首筋に、牙を突き立てた。
「…え?え?」
メイリは訳も分からず、固まる。
首筋から、じわりと、鈍い痛みが、広がる。
じゅるり、じゅるり、そんな音が、耳元に響く。
血を…吸われている。
そう、理解した瞬間、全身に鳥肌が立った。
痛い。痛くて、熱い。
「…え…い、いや、私の事、食べないって…」
その痛みを理解してもまだ、呆然としていた。
メイリの脳は、次々に起こる予測不能な事態に、完全にキャパシティーオーバーをしていた。
「い、痛い、え、いや、嫌っやめてっ」
メイリがか細い悲鳴を上げたのと同時に、ザキュラは口を離した。
「メイリの血、すっごくおいしい。ごちそうさまでした」
ザキュラは、いたく満足気な表情だった。
血の流れる首筋を押さえつつ、メイリは呆然自失として、ザキュラを見ていた。頭が、考えることを拒否していた。
そして、突然それは来た。
突如として、全身がカッと熱くなる。嫌な汗がでてきた。
動悸がバクバクと、早鐘のように激しくなる。
「…!?」
視界がぐちゃぐちゃに歪む程のの眩暈に襲われ、メイリは床に倒れこんだ。
息が荒くなり始め、すぐに過呼吸になる。
「ハッ、ハァッハッ…!」
全身が、熱い、熱い、熱い。
…いや、痛い。痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い!!!!
「ぅあ“あ”あ“あああああああぁぁぁぁぁあっ!!!!」
全身が沸騰したかのように、焼けるような熱さと火傷のような痛みが全身を駆け巡る。
メイリは絶叫しながら床をのたうち回った。
ドロドロに溶解した金属が、血管を無理矢理拡張しながらなだれ込んできたかと錯覚するほどの、筆舌に尽くし難い、灼熱の激痛。
「い“い”い“い”っ!痛いっ痛いっ!!う“う”う“う”っ…!」
誇張でもなく、本当に感覚神経が焼き切れるのではないかというばかりの未体験の痛み。
メイリは涙と、鼻水と、涎で顔をぐちゃぐちゃにしながら呻いている。
視界の明滅が止まらず、上下左右もわからないまま、転げ回っていた。
すると、突然メイリの身体が床に押さえつけられる。
チカチカと点滅するフィルム映画のような視界の中、自分を押さえつける白い姿が見える。
(ミューリっ…!)
ミューリは右手に何かを持っている。のたうつメイリの上にのしかかると、手に持つそれを、首筋に刺してきた。
さっきザキュラに噛まれた場所だ。
「ぐううううっ…!」
全身の痛みにかき消されてわからなかったが、何かを突き刺されているということを、メイリは遅れて理解する。
もうメイリには何が何だかわからず、ただ痛みに呻くことしか出来なかった。
しかし、変化はすぐに訪れた。
首筋の辺りから、じわじわと、ひんやりとした感覚が全身に広がってゆく。
それに伴い、灼熱の痛みが和らぎ始め、多少はマシになる。
「ふぅ…うぅ…」
すぐに歪んだ視界は正常に戻り始め、明滅も消えた。
メイリはやっと周囲を見る余裕が生まれ、痛みを堪えつつも、周りを窺う。
いつの間にかミューリは退いており、背を向けて立っていた。右手には空になった注射器が握られている。先ほど刺されたのはそれだろう。
ザキュラはといえば、少し離れて立っており、こちらを何の感情も読み取れない赤い双眸で見下ろしている。
メイリが落ち着いてきたタイミングに合わせるように、ミューリが話し出す。
「メイリ…ごめんね。今、メイリはね、ザキュラちゃんの眷属として…ドラキュラになっている途中なんだ」
ゆっくりと、少し震えた声でそう言った。
「え?…わ、私が…ドラ…ぐっ…うぅ」
驚きと共に声を絞り出すも、喋ると頭痛がしてきて、すぐに呻き声に変わる。
「さっきの相談の時、ザキュラちゃんがさ、メイリとずっと一緒にいたいから、眷属化してドラキュラにしたいって、言ってたんだ」
白く大きな二つの尻尾は、すっかり垂れ下がってしまっている。
「そしたら、メイリも不老不死になれるからって。…ユカちゃんも、その方がいいって言ってて…私は、そんな簡単に決められる事じゃないって、言ったんだけど…」
ミューリの身体が、震えている。見てわかるほど、右手の注射器を強く握りしめていた。
「この薬…これはね…人間はドラキュラ化するときに記憶の混濁か喪失と、理性を始めとする知能の低下が、副作用として出るんだ。それを防ぐ為の薬と、鎮痛剤が混ぜてあるんだって。でもね…」
ミューリの声に、段々とすすり泣きが混じってくる。
「これ…これ、まだ治験もしてないから、まともな効果があるのかどうかもわからなかったんだ…。だから、もし効かなかったら…ひぐっ……メイリがメイリじゃなくなっちゃうかも知れなくて…でも、でも…」
ミューリは、ゆっくりと振り向く。
「…このセフィロンで、人間のままで生きていくのは…難しいんだよ…」
彼女は力なく、涙を流していた。
「人間は弱いから…いつ死んじゃうかもわからない…それに、ドラキュラになれば、ドラキュラには捕食されなくなる…だから…」
ぽつりぽつりと話すその言葉は、弱弱しい。
「ごめんね、言い訳だよね。…ほんと、ごめん」
顔を背け目元をゴシゴシと擦る。
「…そろそろ落ち着いたかな。数時間で、完全にドラキュラ化するみたいだから…ベッドに運ぶね」
ミューリはメイリを軽々と抱え上げる。
(ミューリは、悪くないよ…)
そう思いつつも、歯を食いしばって痛みを堪えるのに精一杯で、喋れない。
「…うん…わかった」
メイリは、どうにかそれだけ絞り出した。
そのまま、お姫様抱っこで運ばれ、自室のベッドに寝かされる。
「意識は、はっきりしてるよね?」
不安そうに顔を覗き込んでくるミューリに対し、顔を歪めつつ頷きで返す。
「よかった…それならちゃんと薬が効いてるんだと思う」
ミューリに安堵の色が見えるも、すぐに浮かない表情になる。
「それじゃ、私、行くところがあるから…。何かあったら、これで呼んで」
そういって、テーブルの上に、携帯端末を置く。
そのまま、
「…ごめんね」
と言い残し、ミューリは去っていった。
メイリは何も言わなかった。
例え、痛みがなかったとしても、何も言えなかっただろう。