06 ダンス
薄紫のドレスは回るたびに優雅に翻り、私はランスロットの整った顔に向き直った。
私は今まで付き合ったのはクレメントの一人だけだけれど、ダンスならもちろん他の男性とも何度か踊った事がある。その中でも、今踊っている彼とは群を抜いて踊りやすかった。
夜会と言えば、ダンス。もちろん。そう言った名目上の目的の他にも、貴族同士の政治的な社交や商談。そして、色々な駆け引きの場などでもあるんだけれど。もうひとつの大きな役割といえば、男女共に未婚者には、目上の紹介なく声を掛け合えるという格好の出会いの場であった。
そして、踊っている最中にチラッと視界の端に捉えたのは、元彼クレメント・ボールドウィンだった。彼が居る場所とは結構な距離が空いているはずなのに、一目見てわかるほどに見栄えの良い美しい令嬢と機嫌良く踊っている。
ランスロットと今こうして踊っている私も人の事は言えないのだけれど、切り替えが早いとぼんやりと思った。
私の元彼であるクレメント・ボールドウィンは、私と付き合い始める一年前まで何人かの令嬢と浮き名を流してはいたらしい。だから、そんな女性たちから彼が私と付き合うようになってから「貴女なんて、どうせ遊びよ」とか「すぐに捨てられるわ」と、お茶会や夜会ですれ違いざまに意地悪な言葉を言われることは良くあった。
デビューしてすぐで、気の利いた会話が出来る訳でもなく女性的な魅力に溢れているとは言い難い私が選ばれたのが、彼の事を好きだった彼女たちにはどうしても腹に据えかねたのだと思う。
そんな風に突っかかってくる人は、一様に大人っぽい綺麗な人が多かった。だから、時々不思議ではあった。クレメントはどちらかというと子どもっぽい容姿の私を見初めた境に好みが変わったのかと思っていたけれど。
今踊っている女性を見れば、どうやらそういうことではなかったらしい。
「……ディアーヌ嬢。そろそろ」
無表情が崩れないままのランスロットもくるりと回った時にクレメントの姿を認めたらしく、曲の切れ目にここから早く離れようとそれとなく声を掛けてきた。私は彼の申し出に賛成の意を込めて、小さく頷く。
好奇心に溢れる視線も、そこら中に数え切れないほどあったから……きっと気を利かせた誰かが彼の耳にも入れてはいるとは思うけれど、実際に私が彼と二人で居るところをクレメントが見れば絶対に良くない事が起きそうな予感しかしない。
曲の境目にさりげなく彼が私の手を取って、二人でダンスフロアを抜けようとしたところで、あまり聞きたくなかった低い声が聞こえた。きっと、同じような時に私たちに気がついて自分と踊っている相手を置いてでも、こちらに向かってきたんだと思う。
そういう人だから。
「ディアーヌ。なんで、ライサンダー公爵令嬢が、王太子妃に決まった事を俺に言わなかった?」
別れる前まで甘い言葉を沢山くれたはずの低い声は、ひどい傷が沢山ついているはずの心には恐れていたより響かなかった。
その内容が、奈落の底に思える程に最低だったからかもしれない。自分の利になる事には目ざとい、現金な人だとはわかってはいたけれど。
それでもじくじくと疼く心の痛みを、見て見ぬ振りは出来ない。だって、私はこの人の事が確かに好きだった。
この大広間は、とても広い。王族でしかも次期王になることが確実な王太子開催の夜会のために、招待客は数多い。逐一気をつけて居れば、避けたい誰かと顔を合わせずに済むほどに。
会わずに済めば、それが一番良かったんだけれど……もし、クレメントと会ってしまえば、王太子妃となるラウィーニアの事は言われるだろうなと思ってはいた。
「……ボールドウィン様。申し訳ないけれど、ハクスリー伯爵令嬢と呼んで貰えるかしら? だって、私たち。そんなに、親しくはなかったでしょう?」
私はすぐ傍にあったランスロットの筋肉質な腕を取りながら、言った。クレメントは短気だ。けれど、そこまではバカではないから、周囲に醜態を見せる前に消えてくれればと思ったから。
クレメントはとてもわかりやすく嫌な表情を浮かべると、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「なんだよ。ついこの前まで、俺の事を好きだ好きだとうるさかった癖に、すぐに次に乗り換えたのか。この俺と付き合っていたのに、クソ真面目なランスロットと話していて楽しいか?」
自信満々なその表情も、以前は好きだと思っていた。今はもう彼に何を言われたところで、別れの時のひどい言葉が蘇る。決して消えることのない、痛みを伴って。
「ええ。とっても。ランスロット様と話して居れば、いつもお腹抱えて笑っちゃう。せっかく声を掛けてくれて嬉しいんだけど、時間がないから私達もう行くわ」
そう言って私は何も言わずに寄り添うランスロットと一緒に、ゆっくりと大広間の出口まで出た。人目がなくなったのを確認してから早足で影になっている場所に辿り着いて、大きく息を吐く。
「……我慢を、していたんですか」
ぽつりとこぼれるような彼の言葉を聞いて、やっと自分が泣いていることに気がついた。頬を伝っていく、生温かな温度。ランスロットは、準備良くまたハンカチを渡してくれた。前に彼が私にそうしてくれたように。
ひとりでに、ぽろぽろと流れる涙を彼の貸してくれたハンカチで押さえた。みっともない嗚咽をして、泣いてしまう。一目散に逃げてきた壁際の死角になっている部分ではあるんだけれど、ランスロットはさりげなく人通りがあるかもしれない方向から自分の体を盾にした。
私が泣き止むまで、彼は何も言わずにじっとして待っていた。
「……ごめんなさい」
見上げれば、ランスロットはいつも通り何を考えているかわからない無表情で私を見下ろしていた。
ハクスリーの邸まで毅然として去って平気な顔を貫ければ、良かった。けれど、今どうしようもない事だとわかってはいても、心に湧き上がって来る悲しい想いは止めることが出来ない。
どうして、私ではダメだったの? さっき踊っていた綺麗な人と、何が違うの?
「いえ。それでは、帰りましょうか」
ランスロットは近くに人が通りかかったのを見て、私を覆うように体を寄せて来た。ただ見えないようにと庇ってくれた事はわかってはいたのだけれど、胸が一度大きく跳ねた。
「あの……でも。ランスロット様は、大丈夫ですか?」
彼は王太子殿下のお気に入りだと聞いているし、この夜会はその人コンスタンス様が主催者でもある。要するにこれに出席することは彼にとっては仕事だから中座して怒られないものなのだろうかと心配すれば、ランスロットは首を振って言った。
「僕の事は、何も気にしないでください。ディアーヌ嬢のことが何より、大事なので」
◇◆◇
「なんで、その場で付き合いましょうって言わなかったの?」
先日の夜会であった詳細を人の悪い笑みを浮かべたラウィーニアに説明していると、二人で帰ろうとしたくだりで彼女は口を挟んだ。
「……別れたばかりよ。ラウィーニア」
聡い彼女だって、私が何を言いたいかは察しているはず。あの二人の関係性の中で、私がランスロットと付き合い出すと言うこと。
「ディアーヌが気にしている事は、この先どれだけ時間を掛けたところで、同じ事でしょう。それなら、すぐに付き合った方が時間に無駄がなくて効率的だわ。出世確実の、美形騎士よ」
彼らの主君である美形の王太子と婚約しているラウィーニアは、お茶菓子を頬張りつつ肩を竦めた。マナーに沿っているとは言えない仕草も、四六時中周囲に視線のある王宮では決してしないだろう。けれど、気を抜きたい時もあるのか従姉妹の私の前でだけは見せることもある。
世の女性皆が羨むような美形な王子様の婚約者の立場を勝ち取ったとて、お伽話みたいに二人は幸せに暮らしましたでは終わらない。一日中誰かに試されるような、世知辛い現実は続いていく。
「ランスロットの人となりも、まだわからないのに?」
眉を寄せている私に、ラウィーニアは不思議そうな顔をした。まるで簡単に解けるはずの問題を前にして頭を悩ませる生徒に対し、何故解けないのと思っている教師のように。
「……わからなかったの? ランスロットは、確かに氷の騎士とは呼ばれてはいるけど……確かに口を出し過ぎたわ。誰と付き合うかは、ディアーヌが選ぶことだもの。別に次に付き合うのが、ランスロットでなければいけないこともないんだから。他の第三の男が居ても私は不思議には思わないけど」
「第三の男……」
完全に面白がっている表情になったラウィーニアは、ふふっと花が咲いたような笑顔になった。
「冗談よ。もしそうだったら、また困っちゃうかもと思っただけ。羨ましいわ。私は、コンスタンスと幼い頃からずーっと一緒で結婚まで。彼の身分を考えれば、どちらかが死ぬまでは絶対に別れることもないのよ。いろんな人と付き合えば良いでしょう。きっと、それぞれ違った恋になるわ」
「……私は一人だけが、良かった」
初めての失恋で受けた痛みは、ひどいものだった。幼い頃から好きな人とずっと一緒に居れれば、どんなに良いんだろう。ラウィーニアは私をただ慰めてくれているとわかっていても、切ない思いは消せない。
「その答えが出るのは……きっと、人生が終わる時よ。どこかのバカの事はもう忘れて。次の恋は良い恋にすれば良いでしょう」




