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19 足音

「……ねえ? なんだか、変じゃない?」


 妙な気配に不安を感じて私が声を出す前に、隣に座っていたラウィーニアは状況を察していたようだ。彼女は耳を澄ませるようにして、何かを窺うように息を潜めた。


 私が住んでいるハクスリー伯爵家の邸から、王城に進む道はそこまで複雑な経路ではない。


 賑わっている市街の大通りを抜けて、王都の中心部に守られるように位置するレジュラスの王城は、大きな湖に囲まれているためその外周を橋がある場所まで大回りしなければならないという程度。


 街の中特有の喧騒が聞こえなくなったので、そろそろ城に辿り着くと私はついさっきまで呑気に思っていた。


 けれど、通常ならライサンダー公爵家に仕える優秀な御者は馬車を揺らさないためにゆったりと速度を落として進むはずだ。そのはずなのに私たちの乗車しているこの馬車の進みはどんどんと速度を増し、何か良くない予感を連れて来るようにいくつもの馬蹄の荒い音が後方から聞こえてくる。


(まるで……追われているみたいじゃない……)


 背筋を、ふわりとした嫌な気配が通り過ぎていく。ラウィーニアは中腰になって紺色のカーテンを開き、小さな窓から外の様子を見た。


「……ディアーヌ。これは……厳しい状況かも、しれない」


 ラウィーニアは、長い時を共に過ごした私が今まで見たこともない深刻な表情で硬い声音で告げた。そして、これから私たち二人に起こるだろう出来事を予想したのだろう。自分の太腿に皮ベルトで留めていた小さな守り刀を、彼女はドレスの裾から取り出した。


「ディアーヌ。これから、もしかしたら。私たちは、死ぬより辛い目に遭うことになるかもしれない。多分この件にはあまり関係のない貴女だけでも、逃してくれるように交渉はするから……どうか落ち着いて、聞いて欲しい。このナイフを、貴女に渡して置くわ。もし解放されなかったら、一緒に死にましょう」


 真剣な顔をして突然とんでもない事を言い出したラウィーニアに、慌てた私は驚いて彼女の名前を口にした。


「らっ……ラウィーニア?」


「こうして私達のような貴族の娘が、婚約者の政敵に捕らえられれば何をされるかなんて……決まっているわ。でもきっと、コンスタンスが気がついてくれれば彼は騎士たちを編成して、すぐに追って来てくれるとは思う。命は最後までは決して諦めないけれど、これからは私の指示に従って欲しい。どんなに腹の立つような、何かを言われても、貴女は余計なことを決して言わないで」


 これから、少しでも命が助かるために私のすべき事を明確に示した。


「……わかったわ」


 きっと。王太子妃になる教育時に、こういう時の対処も学んでいるはずのラウィーニアの強い気迫に押されるようにして、私は何度も頷いた。


 御者は追ってくる馬からなんとか逃げ切ろうと必死に馬を走らせているのか。激しい鞭で叩く音がして、無理な速度に高級なはずの車輪が軋む音がする。ガタガタと、普通であればあり得ない程に馬車は何度も大きく揺れた。


「軽く、状況だけ説明するわ。今、私たちを攫おうとしているのは、きな臭い噂の絶えなかったジェルマン大臣の手の者だと思う。コンスタンスは、この前に私を襲わせたのは彼だという証拠を掴んだと言っていたの。そして、すぐにジェルマン侯爵邸へと騎士団を向かわせたけれど、そこはもう既にもぬけの殻で使用人なども合わせて一人も……誰もいなかった。そして、何かの証拠となるような怪しい書類なども、見つからなかった。だから、もうジェルマンは国外逃亡していると思われていた。彼を捕縛するための追っ手も幾手にも別れて居るはずよ。でも、あの時不慮の事態とは言え関わることになったディアーヌも、何かの理由で狙われてはいけないとコンスタンスが念のために私に城へと連れてくるように言ったのよ。そして……彼の母である王妃様の気まぐれという形を取って、私たちはほとぼりの冷めるまで共に城へと滞在することになっていたのよ」


「でっ……でも、でも……ラウィーニアの護衛も、すぐ傍に居るはずよね?」


 なんと言っても、彼女は未来の王太子妃だ。それに、そんな状況でコンスタンス様がラウィーニアを無防備に外出させるなんて、考え難かった。


 ラウィーニアは、顔を顰めて声を絞るようにして私に言った。


「それよ。きっと、その護衛が……裏切っていたんだわ。情報が漏れるはずよ。あの時にも」


「でも……ジェルマン大臣が……もう失脚してしまった後で、こんな事をしたとしても……何にもならないのに」


 私は事情を知り、困惑することしきりだった。


 もし、自分がジェルマン大臣だとして、ここでラウィーニアを攫おうとする理由がわからない。王太子の婚約者……いわば、後の王族へと名を連ねることは決まっている女性を狙ったことが暴かれればこの国の法律上間違いなく極刑は免れない。


 彼が国外逃亡を企てているのなら、一刻も早く距離を稼いだ方が良い。何の関係もない私だって簡単にわかることだった。


「……私の身柄は、もし彼がどこか敵国に身を寄せるのなら、良い手土産となるでしょうね。コンスタンスは、候補者の中から私を妃にすると貴族たちの前で既に宣言してしまった後だから。生きていて敵国に居るのなら、国のためだからと言って簡単に切り捨てられないでしょう。ディアーヌ……落ち着いて聞いて欲しいんだけど……」


「言わなくても、わかっているわ。そこまで、バカではないもの。私は……ラウィーニアとは違って何の交渉道具にも、ならないものね」


 私はつらい表情を浮かべる彼女を安心させたくて、二の腕をさすった。


 王太子妃となる予定のラウィーニアの身柄と、彼女の親族とは言えただの貴族の娘でしかない私の身柄。少なくとも、この国の政治的には命の重さは釣り合わない。


 もしこの国の王や亡命する他国への何かの交渉のカードとするなら、ラウィーニア一人で十分だろう。


 けれど、私には自分では考えたくもない利用価値がある……これから、ひどい状況になり得ることもわかっているから、ラウィーニアはこうやって険しい表情になっているのだ。


 だから、彼女は私にこのナイフを渡した。ぎゅっとそれを握って、隠しポケットへと滑り込ませた。


「ラウィーニア。どうか、貴女は生き残って。でも、何かの理由で私が何かの足手纏いになりそうなら、自分のすべきことはちゃんとわかっているわ。それは、他でもなく私のためだから。決して、自分を責めたりしないで……ランスロット以外と、あんなことをするのは、きっと無理だと思うもの」


 ラウィーニアが何か言おうと口を開いたけれど、その時にガタガタと激しい音がして馬車が急に止まった。


 御者台に座り馬を操っていた御者はどうなったのか、それを考えるだけでも怖い。必死で私たちを守ってくれようとした彼が、どうか無事でありますように。


 ラウィーニアはさっと私の手を繋ぎ自分の身体で庇うように、扉の前に進み出た。


 馬車の扉は、ゆっくりと開かれた。いつもならば気にならないキイっという金具の音が、やけに不気味に響いた。


「やはり、貴方だったのね……ジェルマン大臣。いえ。もう単なるファーガス・ジェルマンかしら。自分の邸まで捨てたと聞いたけれど、この私に何か用かしら?」


 そこに現れたのは、私も夜会などで姿だけは見たことのある、痩身の白髪の男性だった。鷲鼻で薄い唇、酷薄そうな表情。彼を睨む私たち二人を、何か物のように舐め回す不快な視線。


「ライサンダー公爵令嬢。いつもながら、本当にお美しい。貴女が王太子を忘れてくれていたら……色々と、こちらは好都合だったんですが」


「……そうなったとしても、コンスタンスは私を諦めないわ」


 毅然として言ったラウィーニアに、ジェルマンはくくっと嘲るように言った。


「お二人は幼い頃から、本当に仲睦まじい。愛し合う二人は美しいですね。だが、そんな心底愛する女性からの関心が一切失われた状態でも、王太子殿下はこの大国の舵取りがそつなく出来るでしょうか?」


「……何が、言いたいの? はっきりと言いなさい」


「王太子殿下は、貴女が思うより貴女を愛しているようだ。ライサンダー公爵令嬢。まあ、それは良い。そちらの、可愛らしいハクスリー伯爵令嬢と共に、こちらの馬車に乗り換えて頂きます。聡明な貴女たちなら、今から自分たちがどうすべきかは……理解していますね?」


 ラウィーニアは、私の手を強く握った。そして、私も握り返した。



◇◆◇



 大きな箱のような馬車に乗り換えて、鎧戸のある窓からはほんの少しの光も差さない。明かりもない闇の中で、私はラウィーニアの温かい手を握っていた。


「最後までは、諦めないでいましょう。ディアーヌ。そういえば、貴女の恋人と元彼は筆頭騎士だし……筆頭騎士って一人で、一個師団を倒せるのよ。知ってた?」


「一個師団の人数が、わからないわ。とにかく、何だか凄そうではあるけど……元彼のクレメントは……関係なくない?」


「向こうは、絶対にそう思ってないわよ。この前だって未練たらたらな様子だったし。大体の男性って、別れた女は別れてもずっと自分の事を好きだと思っているらしいわよ」


「そんな訳ないでしょ。あんなひどい事をしておいて。もしそうだとしたら、大分おめでたい頭だと思うわ」


「別れてしまえば、悪いことは忘れてしまって。付き合っていた頃の……良い記憶だけが、残るのかもしれないわね。それはそれで、幸せな事だと思うわ」


 姉代わりだったラウィーニアと、こうして手を繋ぐのは子どもの時以来だと思う。今思い出せるのは転んではいけないからと、庭園を手を繋いで一緒に歩いた記憶。きっとその時の他にも、彼女とは何度も何度も手を繋いでいるはずだった。


 ラウィーニアだって、この状況が怖くないはずがない。というか、彼らの目的は彼女一人だ。これから、どうなってしまうのか。一番怖いのは、彼女だと思う。


 巻き込まれただけの私をどうにか解放するために、知恵を絞ってくれると言ったけれど……きっと、崖のすぐ傍を歩くような危うい交渉になるだろう。


 何も見えない暗闇の中で、ラウィーニアは敢えていつもと変わらないようにして私と話してくれた。


 優しい温かな手のぬくもりに、忍びよる冷たい死の予感を抱かせないように。


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