86 知らない君だから
土曜の夜、チコは心を決めた。
6年ぶりに会って、初めて向かい合って座るサダルとチコ。
ソファーのローテーブルにボロボロのA3用紙を突き出す。
苦々しい顔をしているが、相手のサダルは全く無表情だ。
「それで今ここにサインしろと?」
枠で引かれた中にたどたどしい文字。
それは離婚届けだった。
「今とは言わないし、するなら新しく書き直してほしい。役所も驚くだろ。こんな年季の入った紙。勘ぐりを入れられる。」
その紙を見てため息をつく。サダルとしては予想はしていたが、この最終の夜に言われるとは思わなかった。しかも離婚届まで用意されて。
結婚離婚に関しては、この時代でも特別な事情がない限り両者直筆の紙の書類がいる。非常に重いことだからだ。役所としては、紙の状態以前の問題だろう。ユラス族長夫婦の離婚届けを提出されたら、アンタレスの役所も困ってしまうに違いない。
「本当は今度にしようと思ったけれど、サラサに知られてしまったから…。」
「………」
ユラスも連合国家に加盟したので、共通語であれば手続きはどこで済ませても1か所、この1枚で済むが、正道教もユラス教も結婚は個人だけのものでなく天に捧げたものとなるので、離婚の前に牧師や神官と相談もしなくてはならない。
とくに、ユラスはまだ家族や氏族が絶大な力を持つ。
二人の結婚はカストルが決め、ユラス既存勢力の反対に反対を押し切って進めたものだった。
その後二人が終戦を進め、アジアと協力関係を築き首都を再建したことはその層にも一定の評価を得たが、チコの存在は出生の分からない異物、脅威であることに変わりはなかった。そしてただの義手義足でなく、体を改造したに近い状態。当時まだ若いサダル。一国の長の横の椅子に、ふさわしいとはいえない体でもあった。
それに加え、ユラス人ナオス族はサダルを絶対に手放したくなかった。
彼は母方であるにせよ、ナオス族長兄元族長の唯一の生き残りであったからだ。
一族抹殺の際、生き残った族長末娘のたった一人の子供。
大叔父親族は他大陸に亡命していたので助かったが、亡くなった祖父は国内にとどまり戦火を可能な限り民間に広げず、ユラスを理性勢力として保ち続け、国際社会から見放されないようまとめ続けた功労者だった。現在最もユラス文化の基盤があり、人口が多いナオス家が全ユラス議長になるのが定番だ。サダル以外に国内に該当する男親族もいない。
本人が拒んでも、それは問題ではなかった。事実、その位置にいるのだから。
それに、サダルは正式な家督を預かっていた。
そして、サダルにもしもの事があった場合、異人の女にナオス、そして全ユラス議長の座を渡すのか。そこは他の人間に変えても、ナオス族の相続はある程度発生する。結婚期間が長ければ長いほど、譲る物も多くなるであろう。多くのナオス勢力は、それを避けたかった。
「6年ぶりに敵地から帰って来た旦那に、最初に離婚届を出すなんて最低だとサラサに言われた。」
「………」
「でも、長引かせるよりいいと思って。」
サダルは窓を見る。鮮やかではないが地上の光が見えた。
「…少し考えさせてくれないか。」
「もちろん。」
「カストルの立場も考えないといけない。」
チコの方に向き直り、サダルは謝る。
「申し訳なかったと思う。子供時代も青年時代も奪ってしまった…。」
「…今更そんな理由じゃない。どっちにしたって普通の生き方なんてなかったし、それは私だけじゃない。ユラスはみんな紛争で傷付いている。」
誰もが親族をなくしたり、体や心に傷を持っていた。
「……それに、サダルのことを愛していたわけではないけれど、嫌いだったわけでもない。努力はしてきた。でも私には努力でできることがもうない。」
「……」
「さすがに情はある。でもそれだけでは難しいから。」
それなりにきつい言葉だが、二人が抱えるものは同じだ。
「私も同じだ。一緒にいる努力はしてきた。今もそのつもりだ。もう少し時間がほしい。」
チコは過去、殆ど笑ったことがなかった。
サダルは思う。今も自分の前では大して笑わないが、それでも表情が豊かになったと思う。多分自分にはそうできなかっただろうと、ここに来て思った。自分にもチコにも6年前のあの時でさえ、普通の街角を普通に歩く、普通の人生があるなんて思ってもいなかったのだ。
終戦に必死だったが、終戦後の人生など何も考えていなかったし、そんな余裕もなかった。
「離婚したらどうするつもりだ?」
「どうもしない。とりあえず一人で生きていく。もう結婚はしないし、どうせ長生きできない。」
「どうせ一人なら別居でも一緒にいればいい。人生の保険になる。私もこの先は一人だ。」
「…そんなわけないだろ。ユラスに帰ったらお互いそうはいかない。」
サダルはすぐに結婚させられるだろう。ユラス社会にいる限り。
「体は痛むのか?」
「今は別に。しばらく仕事をして、だめだったら完全分離型にする。その方が負担が少ない。でも、昔より違和感はない。精神的なものもあるとポラリスは言っていた。」
少しの沈黙の後、A3用紙に手を置く。
「…分かった。これは預かるか?それともチコが持っているか?」
離婚届に手を置く。
「捨てていい。提出するときは書き直すし、もう知る人は知ってしまったから。また落すと困るし。」
こんなものを落としたのかと呆れる。
チコは顔を伏せた。
サダルは立ち上がるとチコの髪に触れ、軽く頭の横を撫でた。チコにとってサダルは半分親世代のような存在だ。歳が離れているだけでなく、サダルは過去、ミザルやポラリスのような位置にいた。もっと前はチコにとってもっと痛く複雑な存在だった。
「明日は見送りはいいが、ベガスでの仕事だけは出てくれ。シリウスには結局会えなかったな。」
そうして顔も合わせず部屋から去って行く。彼がこの訪問でチコに触れたのは、この時とニューロス化の調整具合を見た時だけだった。
そしてその翌日、アンタレス中央での仕事を終えてサダルはユラスに戻って行った。
***
という訳で、週明け。
超絶好調の人が一人。
「おはよう!今日は空気が爽やかだな!」
爽やかな朝に、言っている本人を冷たい顔で見つめるカウスやフェクダたち。
「…チコ様、せめて夫が去った日の朝ぐらい、もう少しテンション落してくれませんか?」
「え?普通だけど?」
ご機嫌で直ぐにバイクで事務局に行ってしまうチコに、さすがにサダルがかわいそうだなと思ってしまう部下たち。夫がいると空気が淀むのか。
そして、こちらでも同じ反応をされる。
「おはよ!サラサ!」
「…昨日まで浮上不可だった人に見えませんね…。」
「今日はもう、朝トレ2時間したから!」
コンビニに入る前に事務局に来たジェイが唖然と見てしまう。昨日の夕刻までと全く違う、生き生きとした人がここにいる。学校に行くつもりだったキロンやラムダも、人生まだまだ知らないことがいっぱいあるんだなあ、と頷いている。
「あれが、亭主元気で留守がいいとか言うのか?」
「結婚は人生の墓場ですもんね。」
「結婚って難しいんですね…。」
「離婚が叶ったのかな…。」
ぼやいている3人にサラサが叱る。
「皆さん!命が惜しくば他言無用でお願いしますね…!」
「あ、はい…。」
「ほら!総長!みんなに悪影響を与えていますよ!」
「え?何が?」
「あ、チコ。おはよう。朝来るとかすみません。なんかパイたちもう向かってるらしくて。せめて明日以降にしてほしかったのだけど…。」
サルガスがパイたちがいきなり来ると言い出したので謝ろうとすると、チコの顔を見てゲッと思ってしまう。
「あ?ファーデン・パイね。OK、OK!」
「………。」
非常に爽やかである。
タウやベイドたちも何があったのかと思う。
「男って辛いね…。こんなに奥さんに毛嫌いされているとか。」
「…俺も気を付けよう…。」
「あそこまで分かりやすいと、もう清々しいというか…。」
「え?何?」
「旦那がユラスに帰ったらしい。」
「えーチコさんひどい!ちょっとかっこいい人なのに!全然チコさん会ってもなかったのに!」
ファイとしては残念である。見る分には悪くない人なのだ。あのタイプはなかなかいないので、もう少し見ていたかった。
「6年で埋まらないものもあるんだよ。夫婦の溝は…。」
よく分からないが、みんなが言うのでそういうものなのかなと思った。
仕事や学校のある人間が出て行くと、最近見慣れたツイストスパイラルが顔を出す。
「あ゛?」
ビビるサルガス。
「お前もう来たのか?来る前と着いたら連絡しろって言っただろ?!!」
「ごめん。忘れてた。」
サルガスはパイが来る前に出て行こうと思ったのだ。なのに来るのが早すぎる。面談前にチコと打ち合わせもできない。
「ソア、悪いけど少し2人を別室に案内してくれる?チコに話がある。」
「分かった。ウヌク、部屋移動しよ。」
ウヌクたちが場所を移すと、サルガスがチコに簡単に説明しておく。事前に話のすり合わせをしておかなくてはいけない。自分は婚約済みなのだ。
「だからチコ。俺は結婚予定という事でよろしく。エア結婚で。」
「…?」
エアの意味が分からないチコ。
「は??!お前結婚決めたの?」
「!!??」
チコが口に出すので、周りが一気に注目する。
「ロディアさんと決めたのか?」
「は?」
チコとしては、婚活おじさんがサルガスに絡みまくっていたし、おじさんと雰囲気も良かった上にあまりにしつこいので、ついに受け入れたのかと思ったのだ。
しかしここで失態をおかしてしまう。そこに反応したのはアーツやVEGAスタッフだけでない。
今日の午前、アーツ事務員に会計など教えに来たロディアもそこにいて聞いてしまったのだ。
「え?!!」
真っ赤になるロディアに、青くなるサルガス。
「チコ!違う。エアだ!」
「エア?」
空気である。心の中だけの恋人だ。
「エアさん??」
ロディアもエアの意味が分からず、エアさんという女の人だと思ってしまう。
「はっ?!」
一瞬自分との結婚を受け入れたのかと思い、勘違いして赤くなってしまったロディアは恥ずかしくて仕方ない。
近くの鏡を見ると真っ赤な顔をしているので、必死に隠した。あんなにきれいな人たちの横に、自分を並べて考えるようなことをしてしまったのも、みっともなくて仕方ない。事務局の入り口にいた綺麗な女性が、「サルガスは?おはようしたいのに!」とずっと言っていたのも見ていたのだ。
「あ、おめでとうございます。結婚決まったんですね!」
ロディアは間違えたことへの照れ隠しに言って、スケジュールを確認すると、急いで外に出ていく。今日はタウやサルガスも講習を受けるので気まずい。とくにタウは鋭いので勘違いを気付かれたくなかった。
ロディアの名前が出てしまったことは良くないと思いつつも、慌てているロディアの心の状況がつかめないサルガスであった。
「チコさん!今のはだめです!すっごい失言です!」
サラサがちょっと心配になるが、突然言われたチコは話が分からない。
「…もう少し説明してほしい…。ちょっと分からない…。」
ため息をついてから、サラサが一から説明することになった。
「あーまた何かしてしまった。こじれてしまう。」
その場にいたみんなが頭を抱えた。




