42 アーツだけはさっぱり
「宗教って本当にめんどくさいな…」
「ほんと、面倒ですね…」
移動車両の中でとんでもないことを言っている牧師は、セイガ大陸の筆頭牧師であり宗教界の総師長カストルとその補佐エリスである。
アンタレスにいるとなかなか分からないが、宗教をよく知って関与しないと、世界の基本構造は変えられないし、政権に意見することさえできない国が多い。自分が何教であっても、その国にある文化をよく知り、尊重し全てを包括していく姿勢がいる。正道教がそこに入っていくことができたのは、聖典を良く熟知し、多角的統一論点を持っていたこと、その上での宗教融和に説得力があったためだ。国ごとの宗教の役割と、周辺国家への影響、歴史的位置。
そして誰もが天を担い、また、堕ちる位置にあるということも多くに理解させた。
誰もが世界で自分たちが選ばれた民だと思っている。聖典信仰でなくとも、歴史書や地域伝承からそう思っている者は多いのだ。
けれど、どんな高い位置にあれど、預言で選ばれた者であろうと、血統を持っていようと、この先の時代は他者を尊重せず、分裂や諍いをもたらす者は滅びていく。
自然を見ていれば分かる。
均衡と調和をもたらさないものは生成を成せず、全て流れていく。
それはまた同時に、何も生み出さないと思っていた小さな石ころすらも、天の栄光になれるということを示唆していた。
「え?私はめっちゃ楽しいですけど!」
ノリノリ神官のもう1人が楽しそうだ。
「お前はゴンジュアン大陸だろ。あそこは普通にノリがいいからな。ただし生活まで入っていくと大変だぞ。誰も言う事を聞かない。」
「何も罪がないと宣言した上に早く祝福がほしいと結婚して、後に母違いの子供が数人出てくることもあるし、教会の会計が朗らかな顔で自分の裁定で地元の商店に投資していたこともある…。」
「そのくらいは序の口だ…。」
数人の補佐や牧師が、若い神職者をビビらせていた。
「覚悟していた巨悪より、小規模で信頼していた場所で起こる方がかなり抉られるぞ。」
「…あの、やめて下さい…。聞かれたらまた叩かれます。」
2人をよく知る各宗教の高位聖職者たちは、そんな「面倒だと」ぼやいているカストルの言葉を聞いても何ともないだろうが、叩きたい層は言葉尻を狙っている。
宗教が最終的に目指すものは、宗教ではなく人であり、全ての人が自立した精神性と調和性を持った国だ。
聖典的に言えば、「この実は食べないでね」と神が言ったのに、蛇に唆され食べてしまった女の過ちから全てが始まっている。その実は全ての知恵、賢さの全てであった。
が、女と男はともに食べてしまった。そして、自分たちの姿を恥じて隠したのだ。
隠した恥を露わにして、その本来の知恵と賢さを取り戻すことが1つの目的である。
神は人にこう言った。
お前たちは「わたしの似姿」に作ったのであり、「私に似るもの」になりなさい。
全知全能の神が言ったのだ。
あなた方は私の似姿であると。
本来は、一人として違わず。
これを受け入れた時点で、歴史が変わっていく。
全ては天の人なのだ。たった一人ではない。
これまで人類が描いていた世界と、本来作るべきであった世界は全く違ったのかもしれない。
今回はVEGAとして、教育と児童婚、近親婚の現状確認、宗教宗派に関わらず内戦後の宗教施設がうまく機能しているかなどの確認していた。カストルは途中で学会の方に行くが、エリスたちは現地の仕事に漏れがないか見ていく。
女性保護、児童関連の現場で猥褻行為も霊視で確認し、実質的な聞き取りなどは女性たちがしていく。
昔ほどではないが、カストルが若かった頃は、アジアもひどかったし、大型の教会から小さな原始宗教までも、混乱して大変だった。旧時代は集落単位であらゆる問題があり、その霊の痕跡を消化していく作業もしていた。歴史の中で乱行が行われていたなど、あまりにひどい場合は、現持ち主と掛け合って建物や祠を取り壊し、浄化していくか取り壊すかも話していく。
別の人間に任せてもいいが、お金、権威の他、性に関することが最もミイラ取りがミイラになりやすい。
はっきり霊視に残る霊性、いわゆるサイコスで言えば人や物に残る残留映像を、他に立て替えて視ることができる能力がないと、高位霊能者でもミイラになることがある。むしろ狙われやすい。
男性は視覚で狙われ、女性は情において狙われる。
なので、場慣れした代置視覚霊能者が犯罪や紊乱現場の洗い出し作業をしていく。現在は誰もが平均的に昔の人間より霊性が高いため、世界中の公安や様々な機関もその体制をとっている。
このように霊線が絡みに絡んだ世界を整理していくのも高位霊能者の仕事だ。
ただし、告知、警告といくつかの段階を経てそれでも場が正されない場合、公的環境に関わる場合と被害者がいる場合、その状況整理と保護を行い、それ以上の直接的干渉はしない。
人は選択ができる生き物だ。
特殊な状況でない限り、自分の意志で正しいことを判断できないのならば、もしくはそれでいいと言い切るのならば、それ以上は干渉はしないし、できない。
「はあ、なぜクレスなんだ…。」
エリスは自分の長男の結婚式にも、孫の祝福にも立ちあえなかった。もっと言えば、長男次男や二人の娘が生まれた時も何もできなかった。でもこれは仕事のうちにも入ると、楽しみにしていたタウとイータの子の誕生の祝福もできなかったばかりか、百日祝いまでクルスに持っていかれたのだ。
大房の人間は「百日祝い?何それ?何度もめんどいじゃん」「誕生日だけでいいよね」という感じだったのだが、タウ父がうるさいのでみんなでお祝いをしたらしい。お食い初めとかいうのをさせられて、不機嫌な顔でブスッとしているタウ息子。その写真だけが送られてきた。
通称ターボ君と言われているタウ息子の名も、名付けは頼まれたカストルがしたが、名を捧げる祝福もクレスが行った。
「あー!私がアーツの責任者だったのに…。クレスが全部持って行った!」
「アーツの責任者、嫌がっていたじゃないですか。それに最初の結婚式はあなたが司祭を務めたでしょ。それで満足してください。」
同僚に言われる。
「………。」
そう、エリスはあの頃すごく嫌がっていた。
「……でも、子供はかわいいだろ…。」
まさか、あの時点でアーツがこんな形でベガスに残るとは思っていなかったのだ。
5億人を抱えるナオス族長一家のチコに皿洗いでもいいから仕事をくれと言い、仲良くもない奴らと同室に詰め込まれ、禁酒禁煙禁欲させられた上に、なぜか軍人ばりの人間たちに筋トレ指導を受け、勉強までやり直しさせられて、起床消灯時間まであって…。
初動から半分以上は消えると思っていた。
アーツには何も期待していなかったのだ。
河漢事業も行き止まっていたし、最終的にはどうにかベガスミラの優秀な卒業生や大学生を引き抜いて任せるつもりであった。それをアーツに任せることになるとは。
そして、まさかベガスで子供を産んでくれるとは、あの時誰も思っていなかった。アーツすら思っていなかっただろう。おそらく。
エリスはあの雑然としたVEGA事務局の掃除をしていたイータを思い出す。イータも整理整頓は苦手だったが、事務局はそれを超えてひどかったので運動代わりによく掃除をしていた。
タウの彼女、今は妻のイータ。
『今、とっても安心しているんです。』
各ディスクに溢れた飲み物のゴミを集めるため、ゴミ袋を持ちながら歩く、お腹の少し大きくなったイータを思い出す。
『タウと話して、母が追って来れない他の街か都市に移ろうって話もあったんです。』
『でもよかった。ちょっと鬱陶しいぐらい、みんなが産後も見てくれるってうるさくて。こんなふうに誰かにして貰うのは初めてで…。もし出産時や産後にタウが隣にいなかったら、やっていけるか不安だったのに……』
イータは学生の時からバイト代も、時間もほとんど母に搾取されていた。全部吸われても、まだ親にあげないとと思っていた時期もあった。
でもきっと、心のどこかは渇望していたのだろう。
そこからの解放を。
どこに行っても満たされない気持ち。追いかけられる不安。
でも追いかけられなくなったら、それはそれで自分の居場所を失うのではないか。捨ててもいいほどの親なのに、そう思うとなぜか消えない罪悪感。
結局自分と親の関係は何だったのか。その気持ち悪い疑問も、親に言ってやりたかった全ての鬱憤も、親と離れてもずっと消えなかった。
「ほしい」なんて思いも知らなかった。
私がほしかったのにくれなかったあの人。あの胸の奥にある何かがほしかったのに。
…何を?
でも、あの母は悟らないだろう。きっと。イータ自身ですらその答えが分からないのだから。
そこに始まった、女子ばかりの寮生活。
自分と気が合わなさそうで大房ではそれほど関わらなかった、ぺちゃくちゃ喋るリーブラやファイがいつもいる。案の定、うるさい。うるさいと思いながら、いつからそれが当たり前になったのだろう。とくにファイは顔しか知らなかったのに。
そして、隣に住むムギや響。自分のために、お腹の子のために祈ってくれていた、ミラをはじめとするユラスや西アジアの女の子たち。
それは、アンタレスの一線引いた付き合いと違った感覚だった。
集めたごみを分別しながらイータは笑う。
『……でも、もうだいぶ大丈夫です。
貰って貰って貰い過ぎると、今度は溢れ出て…溢れて溢れて、誰かにあげたくなるんですね。なんかこれ以上貰ったら胸焼けしそうで。』
はは、と笑うイータと、事務局のメンバーたち。
今後の話し合いで来ていたカストル、そしてエリスも笑いながら聞いていた。
そして今、タウとイータの子は「ノーヴァ」という名をもらった。
予知夢や予知映像をよく見るエリスだったが、アーツの事だけはさっぱり分からなかった。