37 退院を目指す
次の日ファクトは学校前に、朝一で第3ラボに向かった。
裏門から入館し、母のプライベートルームに行く。すると直角折りに2つの簡易ベッドが繋げてあり、二人は頭と手だけ近くして、ポラリスはミザルの手を握って寝ていた。
湿度温度調節はされているのでそのままでも快適だが、父のずり下がった布団を掛け直しておく。
ここはデバイスとパソコン以外に機密事項はないので、ファクトもキーをもらっている。デバイスも本人しか作動できず、キーも本人の許した人物に、許した状態でしか開かない。この時間に寝ている母を見るのは久しぶりだった。寝ているところ自体ほとんど見たことがなかったので安心する。
差し入れだけ置いて、今度はチコの方に向かう。
こちらは、入館の段階から限られた人しか入れない空間になり、あとは西洋の屋敷のような普通の家のような感じに作られている。
「おはようございます。チコ、大丈夫ですか?」
大きな戸を叩くと、連絡を入れておいたユラス女性が戸を開けてくれた。
「おはよう、ファクト。」
「おはようございます。チコは起きてます?」
学校に行く前に顔を見たいとユラス女性にお願いしていたのだ。
直ぐベッドに向かい挨拶をする。
「チコおはよ。元気?」
『元気なわけないだろ!何で昨日、ほとんど話さずにいなくなったんだ?』
小さい声で答える。
「それは今度、サラサさんから説明聞いて…」
そして袋から1つ取り出す。
「チコ、マンダリン好きなの?それともオレンジ?」
『…ミカンやマンダリンでもいいけど、今はオレンジかな。』
「なんで好きなの?」
『…そっちこそなんでいきなりそんなこと…。』
「父さんがチコがマンダリンの香りが好きだって言ってたから。」
『…タニアはミカンの方がよく採れるからかな。ポラリスが好きだったから…』
「じゃあ、オレンジは?」
『………』
昨日まで響が眠っていたので、まだチコは何も知らされていないはず。チコは複数人が心理層に入ったことを知っているのだろうか。
チコにオレンジをあげていたのは…多分カウスの亡くなったお兄さんなのではないか、とファクトは思った。あれが現実の記憶ならば。
『忘れた…。気分だよ。なんでもいいよ。』
「そっか。あとこれ。リーブラから。」
オレンジとマンダリンの精油と香油のポット。目線まで持って行ってサイドテーブルに置くと、少し首が動く。
「使い方は…。忘れた。」
検索するが、よく分からない。要するに関心がない。
「まあ、ユラスのアロマポットですわ!精油もそうね!」
掃除をしていたユラス女性が嬉しそうに言う。
『アロマ…?アロマって?』
「香のことだけど知らないの?」
小声で聞き返す。
『香?芳香のことか?…いつからそんな乙女になったんだ…。』
血と火薬や人間のすえた匂い、消毒臭、腐敗臭、カビや埃臭さ。そんなものに囲まれてきたチコは、急にファクトがかわいい話をし出すから心配してしまう。しかもミカンとかオレンジ臭とか。そういえばアーツはやたら、デオドラントとかしていたな。ファクトも色気付いたのか…。なんだか切ない。
ファクトでなくても、スポーツ系の中高生はそれくらいしている。が、そんなティーンな世界のことなどチコは知らない。ちなみにチコもカウスたちも、戦場やサバイバルでもない限り、そのくらいはしている。
「あの、チコ。首が動いているけれど…。」
「ほんと?!」
ユラス女性が驚いているのを見ると、どうやら初めてのことらしい。うれしく思うが、体機能が完全に戻るとはいいがたい現状だ。自分の力で復帰できないと、かなりニューロス技術に頼ることになるので、それは避けたいとポラリスが言っていた。
「チコ、よかったね。」
温かいおでこに手を置くと、チコと目が合う。
大人っぽく見えていたけれど、目が大きいせいか、こうしてみると案外幼さもある。不思議な感じがした。
「で、ウチの両親のところにも置いてきたけれど、これ、オレンジとミカンです。みんなで食べてください。チコも食べられますか?」
「柑橘系より、始めは梨やリンゴの果汁やすり身がいいんだけど…。ずっと点滴と胃ろうだったから。…でも胃には入れてたから絞って薄めて口に含むところからかな。先生に聞いてみますね。」
「…あ、じゃあ、あとはよろしくお願いします!
シャムと約束したんで朝練行ってきます!アロマ、オレンジの方、焚いてください!」
何で、あいつはオレンジにこだわっているのだと思うチコ。理由が知りたい。
『ちょっと待て!』
と、呼び止めるチコにVサインをして、早々学校に向かった。
***
「はあ…、信じられない!」
「そんなに気にしなくても大丈夫ですよ。」
もう一人、介護のユラス女性が響の部屋で優しく言う。
睡眠状態に入ってから、響は尿管カテーテルを入れられていた。それだけならまだいい。
いきなり眠ってしまった若い女性が、起きたらオムツとかはかわいそうだからと、大きなパッドが入れられていた。
「女性は排泄だけでなく生理もありますからね。」
1週間の間、水分以外は出なかったらしい。
はじめて、便秘体質超万歳!と、思う響。
ただしこの1週間を目途に看護体勢を変えるつもりで、親族への報告なども話が進んでいたと聴かされる。
はー、よかった…。とベッドでゆっくり動く。
眠った次の日以降は関節も動かしていてくれたらしく、体はスムーズに動いた。
時々固形物以外を口に流していたらしいが、点滴以外、ほぼ絶食状態であった。空っぽの胃に物を入れ始めた時点で腸が動き出すだろうから、トイレに行ける状態にしてからしか食事もできない。まだ転倒の恐れもあるので、食事前後はトイレまでの移動ですら介助してくれる。恥ずかしかったが仕方ない。
脱力してあれこれため息をつく響に、ユラス女性はにっこりする。
「気にしないでね。私は慣れてるし。10代20代でも病気や怪我で、トイレがうまくできなかったり、オムツを当てている人もいるから。」
「はあ…。」
響も高校では第1選択で看護や介護をしていた。実習にも行ったし、同級生とペアで介護、介助経験もしている。服の上からだがオムツの装着も習い、入浴介助などもする。現在、力仕事はほぼロボットの仕事なので昔より非常に楽だが、人力やサポート道具も一通り習う。
職業病というのか、ユラスやアーツのデカい人たちを見る度に、この人たちの介護、大変そう……。介護設備やメカニックの準備すら大変だわ、お棺とかどうなるんだろ、と勝手に心配していた。
なのに、パッドであっても、人を介護する前に自分が介護されてしまうとは…。
しかも二人に告白され、お見合いまで待っているこのモテ期に。
結婚する人は、こういう話も打ち明けられる、心の柔らかい人がいい…と響は思う。看護経験がなければ、今の状況にもっと落ち込んでいただろう。
あの、バレエダンサーの人は無理かもしれない…。引き締まった顔で背も高く、女性を選べる立場だ…。キレイな事しか受け入れてくれなさそうな雰囲気。でも細身だから、介護は楽かな……。いや、男性バレエダンサーはモモなどの筋肉が凄い。脱いだら凄いのかもしれない。
とか考えて、なぜ私はそこに話が戻ってしまうのか!どうしてせっかくのモテ期にロマンティストになれないのか!と、自分の中で混乱暴走するのであった。
そんな朝が過ぎ、さらに響は叫ぶ。
「だーかーら!なんでタラゼドさんが来るんです?!」
「そんなの俺が聞きたい…。」
響の部屋には、サラサ、リーブラ、ファイ、タラゼド、ムギがいた。
「あの…。キファ君は…?今どこ?」
「キファを選ぶの?」
キラキラファイが攻める。
「違います。お礼を言わなきゃ。」
あまりにお世話になってしまった。研究室まで見てくれたらしいし。
そんな中、
「…響も倒れていたってこと??!!」
未だ信じられない顔で怒りに震えているのはもちろんムギである。
「この元凶、ぶちのめす!!!!」
響の意識が戻るまで、言わなくて正解だったと思うアーツ。事故か事件か何が元凶かも知らないのに、今ですら暴走直前だ。
「ムギ、大丈夫だって!」
響が宥めても怒っている。
やっぱりムギが男だったら良かったと思うファイ。男ムギがその怒りを何処にぶつけるのか見届けたい…。女子中学生ムギちゃんでは、怒ってもいかせんかわいすぎる…。
かわいいのは好きだが、見た目と性格にこれじゃない感があり過ぎるのだ。この想い、書記官クルバトに相談せねば…。
しょうもないことを考えていると気が付き、我に返らせるため、タラゼドはファイの頭を拳でグリグリする。
「ちょっとやめてよ!髪が崩れるじゃん!」
「…本当に仲いいんだね。」
響はあんぐり見てしまう。
「え?」
「タラゼドさん自分からはあまり話さないし干渉もしないけれど、ファイとは仲がいいから…」
「嫉妬?!」
「違います!ファイはそういうことしか考えられないの?!」
「ぶー。」
顔だけ反抗する。ファイは萌えたいのだ。まさにそう言う事しか考えられない自分勝手な女なのだ。
「…兄妹とほとんど同じだよね。私とタラゼドは。」
「兄妹を通り越して、娘だな…。」
「なにそれ!」
ファイは家が嫌いで、幼少期からタラゼドの家に入り浸っていた。
4人兄妹の上に従兄妹又従兄妹どころか、ダンス仲間の子供も出入りする家。1人増えたところで大して変わらないと、腕っぷしの強い元ダンサーのタラゼドママが、まとめて面倒を見てくれていたのだ。ファイはいじめられやすく不器用だったので、年の近いタラゼド妹たちにもよく面倒を見てもらっていた。
「いいなあ…」
思わず言ってしまう響。
「…何が?」
みんな注目する。
「え?!」
と、タラゼド含むみんなに見られて我に返る。
「あ、いやね…!」
あれこれ飾らなくていい相手がいるなんて羨ましい。悩めるお見合い女子なのである。
「…楽そうで…」
「楽??」
一見コミュニケーション能力がありそうなのでみんな気が付かないが、響はプライベートでの男性との対応に疲れ切っていた。
仕事なら割り切れるが、万年女子のエスカレート出身。兄姉はいるが、どちらも響に対してはきつい性格だった。その上、1人で自然観察をして満足するタイプ。蟻や蜘蛛、年輪や樹の皮や苔を見ているだけでも1日が過ぎてしまう子であった。蛍惑の友人たちがあの性格なのでどうにもこうにもだが、友人たちが強引女子でなければ、女友達もたいしていなかったであろう。
決め顔で検索に上がるようなバレエダンサー系の人たちと、付き合えるとは思えなかった…。
やめよう…、お見合いは断ろう…。
「やっぱり研究室の子たちが一番だよね!」
疲れ切った顔でリーブラに聞くが、いきなりそんなセリフを言われてもリーブラは話の根幹が分からない。
「…先生、後でゆっくりお話ししましょう…。」
「はい皆様、静かにしてください!響さん、体はどう?動けそう?」
サラサが場を仕切る。
「…そうですね。走るのは怖いけど歩けます。」
「よし!ではこれからのスケジュールを把握してください!」
「ここでの生活は最長明日まで!普通、入院の必要がないのにいつまでも病院にはいないでしょ?早くここを出でます。」
「はい…」
「ベガスにも立~派な病院がありますので、いくらでも見てあげられますし!」
いや、今、入院は必要ないと言って、また入院させてくれるとか矛盾しか感じない。
「そもそもここは病院ではありませんし。SR社からサイコスに関する面談があれば、SR社が赴けばいいのです!」
今日のサラサは強い。
「あの…、トイレまでは普通に歩けそうですし、通常食までのメニュー表だけいただいて、家に帰っては…」
考えたら研究室もそのままだ。仕事を確認したい。ここはデバイスも制限されていて継続の使用はできない。
「一旦安心できる場所にいた方がいいでしょ。」
『あの男』のこともある。SR社も基本安心できる場所のはずだが、サラサにはそうでないらしい。
一先ず、SR社とのサイコスに関する面談をして、退院の準備を整えることにした。