36 ヘッドハンティング
※物語の中に書かれている科学医学のお話は、この物語の中の創作です。
ファクトは奥まで父を引っ張っていく。そこで止まって話し出した。
「母さんさ……最近2回ぐらい過労で倒れてるんだよね。これ以上怒らすと、本当に血管とか切れたりしそうで怖いからさ、怒らせないでよ…。母さんまで倒れたら、もう話になんないよ。」
「分かってる。だから置いて来たんだ。」
「…タイミングが悪かったね。」
シリウス完成まで、走りに走って来たミザル。
研究者と言っても、いわゆる企業でいう総合職的位置。
SR社だけでなく、統一アジア、連合国、業界、全世界の期待を全部背負って来た、命を天秤にした仕事。失敗は許されなかった。やっと、一番大きな山を越えたと思ったら、ファクトはベガスに行ってしまい、チコの命とそして響まで抱える。チコの行く末次第で、やっと内戦を終えたユラスがまた分裂してしまうかもしれない。
そして自分たちの把握していないニューロスまで現れた上に……。
ミザルはどこで息をついたらいいのか分からなかった。ずっと走って来たから、それしか分からなかった。
多分ここにいると、ファクトが案内したのはミザルのプライベートワークルーム。母ミザルを確認すると、ファクトは「父さんバイバイ!」と去っていった。
ポラリスは、机に伏しているミザルに近寄る。
「ミザル…」
呼びかけても反応しない。
そっと、隣に座わる。
「ごめん…。」
背中を擦ってあげる。
「この日だったのはすまなかった。でも…。
こう言っていいのか分からないけれど、一人で頑張らないでほしいんだ。」
ずっと先頭を切って来たミザルの立場を否定したくない。今更そんなこと言われたらショックだろう。でも伝えるべきことは伝えたかった。
「………」
やっと返事が来る。
「アンタレスを出たのはあなたでしょ?」
「悪かったと思っている…。ごめん…。」
しばらく待っても反応がない。先のファクトの言葉を思い出し焦るが、一定の吐息が聴こえてきてホッとした。
呼吸のたびに小さく動く体と、温かい体温に安心する。
ポラリスも移動の時間以外、数か月ほぼ無休で働いていた。
地域統一が進み道が開け、科学が発展するたびに移動時間も減るので、本当に困っている。乗り換え、許可取得待ち、乗り換え…で、やっと行けたような場所に、近隣市町村にでも行くような感覚で行けてしまうのだ。移動時間がなかったら寝られない。
ミザルより年上で40代後半。
さすがに今までのようには働けないし、これまでの体への蓄積も出てくる。下手をすると、コロッと逝ってしまいそうな働き方を10代からしてきた。ミザルに関しては、幼少期から天才扱いされ、勉強研究仕事漬けの人生。睡眠休暇、食事もろくにろらず、若くして亡くなるニューロス研究者の話はよく聞く。
今は大分、仕事環境を調整されているが、世界の覇権がどうなるか分からなかった数年前までは、トイレ以外は休めないと言われるほどで、トイレでそのまま寝てしまう者も本当にいたのだ。
人に仕事を振るよりも自分でしてしまう方が速かったし、できる人間でとにかく進めと指示が出る、それほど急がれていた。
理由は、休んだら新技術、新体制が、世間が、無秩序勢力に持っていかれる。
その一点。
まだ数年前まで、自由圏がのんびりした生活を謳歌している間に、昼夜休まず動いていて自由圏を圧制しようとする勢力も多かった。…正しくは昼夜休まず人を働かせられるため、圧倒的に有利だ。人の生死も人権もなかった。
先に前時代の新技術が、その勢力に先手を取られる歴史を辿った。
例えば前時代は、無秩序層に圧制された分野として、生殖に関わる医学分野があった。
生殖技術の倫理がない彼らは…、いや知っていて、もの言わなかったのかもしれない。ヒトの遺伝子操作、賭け合わせも行われたし、1人の親の血統から無秩序にたくさん子を作ったりすることもけっこうな頻度で起こっていた。もう、ヒトとも称せない細胞組織からの繁殖まで秩序無くしていたのだ。
連合国になり遺伝子登録が義務付けられてから、存在無自覚の兄弟作りや近親婚は大分減った。
例えば、以前はユラスや正道教など婚前性交渉を基本しない文化圏は、付き合いや婚約前に血統、病気も含めて遺伝子の確認がされるのでまだよかったが、自由圏では自由に付き合って、知らずに近親と関係を持つこともそれなりにあった。
生物的な話だけでなく、そうすると近親婚が禁じられている国、及び連合加盟国家では、別の問題も起こってくる。相続問題も多く法整備がさらに必要であった。
また、遺伝子登録によって近親婚が減ったため、総合的には前時代までのかなりの精神的、身体的遺伝病が減っていったが、医学的に親が不明な場合や、親との関わりのない完全な研究室ベイビーの場合、1代、もしくはそれ以降に精神的疾患など起こる者も多かった。まだそれは生誕や成長環境の不安定という環境的理由も考えられたが、血液や内臓、筋肉など、神経系統、骨などに機能障害、成長障害をきたす事例もまとめられて、件数、割合、因果関係などが調べられている。
都市、先進地域では晩婚化によって、前時代よりそれほど世代交代をしていないため、結論まで出せないでいるのだ。
なお、一般的な生殖医学、不妊治療などによる医療は問題がなくこの件に関係はない。倫理観に逸脱した場合、医学科学的な実験、もしくは関係者の思惑の上にあった子供のことが、研究室ベイビーと言われていた。
生殖医療界は、前時代終盤にそんな混沌の時代をたくさん辿って来た。子供たちの救いは、子供を中心に憲法、法律がまとめられたことだった。成人しても、それらの子供として生まれたことは生涯、立場や医療に置いて法の保護対象になる。
ニューロス研究も最終的には命に繋がる。
いや、命から始まって命に辿りつくのか。
絶対に先手を取られるわけにはいかなかった。
彼らは、命を人間がコントロールできると思っているのだから。もっと深みを言えば、神の名であろうと人間の名であろうと、結果がどうあれ関係がないのだ。
未来に責任を持つつもりなどないのだから。
ミザルの頭を撫でながら思う。
パンドラの箱を人類は開けてしまったのだ。
もう、ずっと、前に。
もう元には戻れない。
けれど、最後に出てくる希望を掴むことができるのか。
それを見分けることもできないのか。
人類はまだ「生命」さえ分からないでいる。
アナログ時計の針が静かに時を刻む。
ポラリスはミザルをベッドにできるソファーに寝かせ、自分も同室で休むために準備をすることにした。
***
「…今日は帰るか…?」
周りに料理が届いているが、サルガスがなんとなく言った。
「響さんも今日は会いたくない気がする…」
ファイも頷く。
「そうだよね…。だって起きたばっかりだよ!1週間も寝て!まず、1週間も寝てたことがショックじゃん?」
寝ている間に何かあったのか考えてしまう。人間だし。生き物だから。
それにノーメーク。そしてそこに男どもがワラワラ来たら…自分なら…心が…心が……あれ?…別にいいかな?と考えて気が付く。
今更ここにいる奴ら対し恥じらいはない。とくにタラゼドには小さい頃におねしょの面倒まで見てもらっている。タラゼドの親を呼びに行ってくれただけだが。なんだか、疲れて細かい事がどうでもよくなって、響に会いたくなってきたファイ。
「私は会いたい!」
潤んだ目で訴える。
「…やめよう。待っていても仕方ないし、帰ろう。」
「俺は待ちたい…」
キファが言うがイオニアは切れ気味だ。
「お前、明日も仕事をサボるのか?帰るぞ!起きたならいいだろ!」
1週間方便したキファは、せめて響の声を聴きたい。先は顔もほとんど見られなかった。
というところで、カウスとサラサが来た。
「サラサさん!」
ファイが手を振る。
「…ファクト、キファ、ファイ…本当にありがとう…。」
かなり疲れていた。
「二人とも起きて…本当に、本当に良かった…。」
サラサも判断力が落ちているのか、いつもなら絶対にないミスをする。『二人』と言ってしまった。
これで響だけでなく、ムギでなければ…チコも眠っていたことをみんな確信した。カウスが「あ…」という顔をしていたが、もう口にはしなかった。サルガスは、チコの手足がおかしな方向にねじ折れた時の事故を見ている。あれでも立ち上がろうとして翌日には大丈夫だったのに何があったのか…。あまり想像したくない。
「リーブラは寝てるね。…それでタラゼド。」
「?」
なぜかサラサに呼ばれて、タラゼドはびっくりする。
「指鳴らしの音で起きたって言っていたけれど、どうして?」
「……」
咄嗟で言葉が思い浮かばない。
「響さんと話していたのだけど、急にそこだけ理由は言いたくないって…。タラゼドとリーブラしか知らないって言ってたから。」
イオニアとキファが反応する。
「言いたくない?いや、ただ香じゃなくて音が合図でもいいって話で…。なんだ…?」
饒舌な他のメンバーと違って、意識していなかったことをタラゼドは急に説明できない。
「…これここで言ってもいいのかな?」
ファクトが口を出す。
「響さんが研究室の前でずっと指を擦っていたけど。鳴らない…鳴らないって…。あ、現実でなく術の中でね。」
「怖いっ…。お岩さん?」
ファイがツッコむ。確かに響の長い髪…。お岩さんである。
「それに響さんもひどい!私もいたのに!」
正確にはファイは次の日の会話で聴いただけで、研究室前のことは見ていない。
タラゼドは思い出そうとするが、これ以上は何も分からない。
「…ただ響さんが不器用ってこと以外、何もなかったと思うが…」
それはみんなが知っている。
そもそも心理層というのは、思いの世界なのか、記憶の世界なのか、その混濁の世界なのか。
「まあいいけど。そのうちいろいろ聞かれるかも…。」
サラサがため息を吐く。
「あ!あとみんな!響さんが『ここ』に残ってもいい?」
「ここ?」
「『SR社』!」
とぼけたファイ以外全員が悟る。
つまり、ヘッドハンティングの予感がしたのだろう。それかもうされたのか。
「いやです。」
「いやっす。」
同時に言うイオニアとキファ。
「あなたたちヤケに気が合うのね!」
ちょっと楽しそうなサラサと、かなり嫌そうな二人。
キファがイオニア並みにオフェンスに入ったことを、サラサはまだ知らない…。
「いつも不愛想だなー、相手に無関心だなー、もうちょっと歩み寄れよ!と思っていたアーツAチームにも友情が芽生えたのね!」
そんなわけがない。
今更、業務事項以外交流する必要ない。
いつものサラサならキファの只ならぬ様子に気が付くが、今日は意外にもカウスの方が冷静で勘がいい。「サラサさん、時々心の暴言が肉声になっています。」と、ツッコみたくなるカウス。サラサは今日のことがよっぽど嬉しかったのだろう。
「ファクトもちょっとヤバいけれど…、両親という囲いがあるから安心して多分急には攻めてこないと思う。」
何の話だと思うが、これもヘッドハンティングの事だ。
「チコも早く連れて行かないと……」
このままチコ、響、ファクトまでSR社に引き抜かれたらたまらない。しかしカウスが止める。
「今日はここまでにしましょう。響さんはまだ移動できません。ここで寝ていてもらいます。」
SR社はアリ地獄か。
「じゃあ、響さんが引き込まれないようにみんなで頑張りましょうねっ!」
まるで担任の先生だ。
「頑張りまーす!!ファイトー!」
と張り切るファイの声に、リーブラが目を覚ました。目をゴシゴシしている。
敵陣でその大声はいいのか…?タラゼドは思った。みんな変なテンションである。
「………。」
響さん、変な方に引き込まれそうだから、別のディフェンスがいるな…とサルガスはキファを見ながら思った。
取り敢えず帰るという事で、元々持ち帰り用にしてくれた食事をもってベガスに向かう。久しぶりに少しほっとした日だった。




