プロローグ 亡霊の獣道
『Ⅰ』のプロローグ二枚重ねが気になっていたので、「プロローグ 亡霊の獣道」をこちらに移しました。
『Ⅰ』に入れると忘れてしまいそうなので、丁度いいでしょうか。よろしくお願いいたします。
走れ。
逃げろ、逃げるんだ。
絶対に来た道を振り返ってはいけない。
今は、満天の星空さえも見えない。
荒涼とした岩場をすり抜け、鬱蒼とした雑木林に体を擦り、腰を落としたまま彼らは走り抜ける。
この荒れ果てた国には一つの物語がある。
民だけが知っているおとぎ話。
国境を越えるには、獣道を通るしかない。
謎かけに隠された、あの獣道。
銃声がしてもレーザーを当てられても、何かが肩をかすめても絶対に振り返ってはいけない。身を隠して高い柵の下の獣道をくぐるのだ。
棘のある草に捕らわれても肌を傷付けられても、ここで死んだ亡霊たちが無念の声をあげても前に進むのだ。
その獣道はなぜか昼間は見つからない。夜にだけ現れる。
どこにあるのかも本当にあるのかも分からない。
さあ、越えるのだ。
あの国境を。
「はあ、はあ…」
数人の中の一人の少女は身も心も息切れしかない。言葉も出ない。慢性的な栄養不足、不眠。極度の不安。本当に獣道はあるのだろうか。どれだけ走ったのかも、自分がどんな姿なのかももう分からない。そもそも、私たちの行く道は合っているのだろうか。捕まったら処刑では済まない。
同じ村にいた人たちのひどい有様を見てきた。
お母さん、お父さん、死んでしまったみんな…
お願い。
助けて。
私たちを助けて…。
身内が全て死んでしまった同士で、少女たちは逃亡を図った。その先に何があるかなんて知らない。彼らは「世界」という言葉すら知らないのだから。
どこかから悲鳴が上がった。
誰?あの子かな?
死んでしまったの?怪我をしただけ?
でも、振り返らない。彼らとはそう約束し合っていた。
何があっても走り切るんだと。
彼らは神にすがることも知らない。それすら知らないのだから。
少女は草と何かに足を取られた。
「うう…っ」
ダン!と少し横にあった大きな石の一部が砕けた。追い詰められたのか。大丈夫。まだ場所が知られたかは分からない。
その時手に何かが触った。
人?
生暖かく、柔らかく人の感触がする。何だろう。
少女は助けなければと、前を向いたまま掴み上げる。
でも、自分が触れたものは石の欠片だった。
けれど、それが人のようで、どこかに連れて行ってあげたくて、必死に掴んだ。
お母さん、お父さん…っ。
みんなも連れて行ってあげたい。
ガタガタ震えが止まらない足を引きずりながら、前に進む。
振り返るな。絶対に相手の位置を確認するな。お願い。教えて!獣道はあるの?
その時だった。
カーテンのようにひらめく薄汚れたスカートが舞う。
え?
何も理解できない少女の少し横上に、女性の影が見える。
振り返ることはできないが前斜め横だ。後ろは見ないように気を付けながら少し斜め横を見上げた。
「!」
怪物なのか、亡霊、幽霊なのか。
そこには歩きにくそうなドレスに、長いくすんだブロンドヘアの浮く女がいた。
少女はドレスも見たことがなかったのでそれを表現する方法を知らなかったが。
まるで嵐のように、その女の周りはごうごうと散乱する渦が揺らめいている。美しい人のようにも見えたが、目はくぼんで吸い込まれそうな何もない円。そのおぞましさで皺だらけの顔にも見えた。
女は何も語らず立ち尽くし、少女の前方、ただ一点を指している。
一瞬止まったままの少女は、その女の指す指の先と亡霊の顔を交互に見た。しばらく考えて息をのむ。
獣道!
獣道があるんだね!
それは勘でしかなかったが、少女は女の指先からその何も見えていないような目を覗いて、コクっと頷いた。亡霊に対してうなずいたのか自分の決意だったのか。
そして指さす方に向かう。背を低くしたまま、背丈よりも高く生い茂る雑草の中をくぐり、住んでいた小屋より高く複雑で厚いフェンスに向かう。
絶対に振り返るな。
すると、草むらに踏み固められた土だけの獣道が現れた。少し先に行くとコンクリートと、その上にはフェンス。
越えろ。
これを越えるんだ!
頭の上の少しゆがんだフェンスを触ってから、そこを越えた。
生暖かい先の手が、自分を引っ張るようにして…最後にドンッと押されたような気がした。
目には見えないけれど真下にある、このラインを越えろと。
………
はあ、
はあ、はあ、はあ…
ずるずる足を引きずるように歩きながらも、少女は少しずつ姿勢を上げた。
徐々に周りの草も少なくなり、土だけの場所に出て膝をつく。
小石が痛かったが、そこには生があった。
…生きている。
生きている。
生きてるんだ!
お母さん、お父さん…。胸に手を当てて、どこかに消えたまま二度と会えなくなった祖父母や叔父叔母たちも思い起こす。妹や従弟たちの事はまだ振り返るにはつら過ぎた。それから、自分の胸にある何かに「生きています」と伝えた。「ありがとう」という言葉は知らないから。
そして国境を越えたのか、もう一度確認するために周りを見渡した。森や山があるだけで、確認する手立てがない。あのフェンスを越えれば国境越えということは聞いていたが、振り返る勇気がない。
すると、何人かの知った顔が少女を安心させた。
「もう大丈夫だよ。」
「フェンスを越えたんだ。」
本当のことを言うと、少女は彼らの名前や声もよく知らない。知っているのは同じ村出身の2名だけだ。彼らとも施設に入ってからは名前を呼び合うことも話をすることもなかった。最終的に何人が国境越えに参加したのかも分からない。知らない顔の1人は腕から血を流していた。でも生きている。
「振り返ってもいい?」
あの亡霊にお礼を言いたかった。
「うん、大丈夫。大丈夫だよ。」
少女はこれまでの全てをかみしめるようにゆっくりと振り返った。
恐る恐る元来た場所に目をやると…、驚くほどそこは普通だった。
ただフェンスがあるだけで、ここと向こう側は、何も変わらない。
一体何が違って、ここに逃げてきたのだろう。何がここをとあちらを隔てているのだろう。
何も変わらない同じ山なのに。荒地なのに。何が違うのだろう?
こちら側に何も怯えなくていい場所があるのかも本当は分からないのだ。でも、『向こう側』では好きに笑っていいと聞いていた。
「笑う?」笑った記憶を辿れなくて少し落ち込んだ。大丈夫。今は疲れているだけだ。
手を広げると、先の石があった。
必死に掴んでいた少し尖った石をぎゅっと握る。
まだ人肌の感触がする。
生きている人間に捕まることの方が怖かったからであろう。不思議に怖いとは思わなかった。
少女は、自分を逃してくれた、あの、もう既に朧げな亡霊に頭を下げ、故郷にも頭を下げた。
仲間たちが、と言っても仲間という言葉を知らない少女は、そう連帯感を覚えた彼らも亡霊を見たのかはまだ聞けなかった。
そして向こう側にさようならをする。
振り返らない。今は。
不思議と足が軽い。急に足枷を解かれたように。
上を見上げて、初めて満点の星空が広がっていることに気が付く。
こんな澄んだ空が世界に存在したのかと驚く。
安心した気がしたが、どんな感情や表し方をすればいいのか分からず戸惑う。
こちらに来てからの行動は、何かに威嚇されたら動かないこと。そして手をあげて身を任せること。もし怖くて走ったとしても基本は撃たれない。しかし、相手が連合側か人さらいかで、また運が二分される。でも、あの獣道を通った人は助けに出会うという言い伝えがある。
こちらが無抵抗で囮でないと確認してから、軍人や何かの職員が助けてくれるらしい。軍人たちは怖い人ではないのだろうか。
それにしても、閉鎖している世界でなぜそんなうわさが広まったのか。それを考えるのはもっとずっと、大きくなってからだ。
少女たちは全員生存していた。1人だけ大人もいる。怪我をした少年の叔父だ。過酷な生活で背が伸び切っていない叔父が、自身の服のなるべくきれいな部分から紐を抜き、止血をしてあげていた。それからみんなで方角を決めて歩き出した。
――以上。
これが獣道を渡って、国境越えをしてきた人々の報告の一例である。
もう、440件を超える報告書が届いている。無視することも邪険にすることもできない数だ。
様々な責任者たちは、ため息をついて資料を閉じた。
――そしてこれは、もう十年ほど前の出来事だ――