106 知らないチコ
「だから遅い!」
「グっ!」
ダン!とウヌクのメットが脚で弾かれる。
いつもの小さな道場で、みんなが2人を見入る。
一度離れたムギは、簡単にウヌクの懐に入り込み、ボディープロテクターに肘を入れそのままアッパーを軽く決めた。そしてさらに腕を抱かえて滑るように倒す。上から横に流され、きれいにダーーーと倒れた。
見ていたシャムやレサトを含む高校大学組が息を飲む。ウヌクはもう立ち上がらなかった。
目は追い付くのに、制するための動きが追い付かない。
ウヌクは上半身を起こし、長い足を放り出す。
「何でだ…。歳かな…。」
メットを外し、息切れが止まらない顔を今度は膝に沈めた。
「背が高くて細身だと、リーチは広いけれど遠心力もあるし自分が重く感じることもあるからな。今まで道場以外でトレーニングしてこなかったなら仕方がない。運動量や筋肉が圧倒的に違うだろ。立てるか?」
ムギが手を出すが、なぜこんなチビのガキに勝てないんだと、ウヌクは不貞腐れしてもう一度寝転んだ。ムギは自称160近い身長になったのだが、まだ周りからチビ扱いなのである。
「立てないのか?」
ムカついたウヌクはその手を引っ張って羽交い絞めにしたいが、女性だし、それをするとチコに殺されそうなのでやめておく。いくらウヌクより動きがよいといっても、180越えるウヌクがどうして細いムギに飛ばされるのだ。
「何度も言っているだろ。反動を利用している。ウヌク自身の動きを利用しているから、体重と力の差があってもこっちが飛ばせるんだ。」
ムギが腕で示しながら言った。
次は、体型が近いレサトやシャムが変わることになった。
「考え方を変えた方がいいな。」
レサトが最初に指示をする。
「ムギに勝つ、ここの人間に勝つ、テコンドーで勝つ。この発想は一旦やめろ。」
「テコンドーしか知らないし。」
アーツで他の武術も多少は習ったが、子供の時から習わされていたので型を崩して併用できない。
「正式な選手とかになるつもりはないだろ?これから他の格闘術も習うし、型を捨てるつもりでいろ。ムギどうこうは無視して自分が向上することを考えるんだ。」
「あと、年齢でもお前らに勝てる自信はない…。」
いきなり弱気になったウヌク。怪我をしたり店が忙しくて運動を休んでいたこともあったが、ベガスに来て久々に体をフルに動かしたら死にそうだ。大きく長い身体がかえって重荷になっている。
「大丈夫だ。40ぐらいまではよっぽど不健康な生活をしていない限り、もともと持っている基礎体力でもやっていける。」
シャムも付け足す。
「前時代より、全体的に身体機能が向上しているから、45~50まではいけるよ。」
と、ピースする。
こいつらが憎々しいと思うウヌクであった。
***
その次の日のサラサの一言で、また世界が一気に変わってしまった。
サラサの報告が、チコには地獄の宣告であった。
「は?サダルが来るの?もう?なんで?」
「何でって、連合国非営利組織の総長が来て何かおかしいことでもあります?今はVEGAユラスも代理が立っていますが、登記名はサダル氏です。」
サラサが真顔でツッコむ。サダルはベガスだけでなく、世界VEGAの創立時総長である。
「旦那様が来て不都合でも?」
「早過ぎない?来年夏ぐらいかと思ったけれど?」
それは遅過ぎると思うアーツメンバー。
先ほど全体ミーティングで、フォーラムにサダルVEGA総長が来ます。と報告したのである。
「しかも、近い時期にメカニックやニューロスのシンクタンクやエキスポが開かれます。来るでしょ。」
「はあ?!」
「チコ総長、場をわきまえてください。」
そこでシグマが質問する。
「あの、サダル総長がなぜそっちまで?職業、議長や事務局長関連ではないのですか?」
「サダル総長はもともとは研究者です。ニューロスメカニックの。」
「ええ??!!」
アーツ陣が驚く。調べてみると、ミザルたちのように目立って名前は出てこないが、研究者たちの世界ではポラリス、ミザル、サダルがニューロス研究の三大博士と言われているらしい。そしてここにシャプレーが続く。サダルとは、このサダルメリクのことだったのかと、驚きしかない。知る人は、ただの同名だと思っていた。本当はミクライという博士が三大博士に入っていたが、彼は離脱してしまった。
「研究者としてはみんな若いよな…。すごいな。」
ミザルですらまだ40歳過ぎたところだ。
「…そうなのか。チコさんもシンクタンクに行くの?エキスポとかのが楽しいんじゃない?」
そういうローをチコが睨む。
「行く訳ない!私は展示品か?!」
あんなとこに顔を出しても、研究者や学生、企業家の見世物にされるだけである。何もチコを出店するとかいう訳でなく、ただ見学に行かないかという話なのに。
「え?そう言う事でなくて…。怒らないでくださいよ!」
チコは公式にはニューロス化をしていることを話していなし、そういう話にも関わりたくないのである。面倒くさいことこの上ない。
「今、サダルは政治家色の方が強いだろ。来なくて大丈夫なのに。」
「?!」
立ち上がっていきなりとんでもないことを言うチコに、仰天する帰国組。その驚き具合にさすがのチコも、年下もいるのにやってしまったと大人しく座り、笑って言葉を濁す。
「あの…、議長はお忙しいと思いますので、こちらは気にせずユラスでのびのび頑張っていただきたいので…。」
そう言うチコに、若いユラス勢の前でいい顔をするなと、白々しい顔を向けるアーツ陣。
「あ、こちらは私で頑張るので、サダルにはユラスの方に集中してもらったら…という事です……」
「別にサダル総長はシンクタンク企画側でなくてゲストなので、顔だけ出しておこうという感じで、どちらものびのび参加すると思いますが。
それにフォーラムとは時期も少しズレますし、VEGAとしても総責任者ではあるけれど、細かい事はご本人がするわけでもないでしょう。」
チコはせめて時期が重なってほしかったと思う。微妙にずれると滞在時間も空き時間も長くなる。せめて片方参加にしてほしい。
「もともとサダルは人前が好きではないからな…。アンタレスではエンタメ系や派手なアジアの報道機関も増えるし、こっちで目立つことはしたくないのでは?」
「……そうですね。旦那様の性格をよくお知りで。」
「サラサ、この場で旦那とか言うのやめてくれないか?総長か議長で…。」
「そうですね。でも、チコ様こそ公私分けていただきたいのですが。ファクトとサダル議長に反応し過ぎです。」
アーツも知っている。チコがコントロールできないのは心星家とサダルである。
「とにかく…、サダルに言っておいてくれ。若手に任せておけばいいと。」
「我々はVEGAユラスまで管轄しておりません。アドバイスは奥様が直接なさったらいかがでしょうか?」
ニコッと笑うサラサに、撃沈するチコ。
「チコさん、今ここで電話してあげたら?」
またシグマが余計なことを言う。
「バカか!一国の議長が外からの電話なんて受け取るか!」
「え?チコさん個人のも?」
妻で、自分も総長じゃん、とみんな思う。
「電話とかしたことないから知らない…。」
最後は帰国組に聴かれないように小声だが、一応シグマの足を蹴っておいた。
マイラだけはここまでなのか……と、苦笑いだ。
「今、ベガスでしていることは政治的意味合いもあります。旦那様のお仕事を理解してあげて下さい。」
そしてチコになぜか敵対するサラサ。
「それに、シンクタンクなどは、チコ総長が一人の人間としてきちんと意見を主張できる貴重な場だと思います。シリウスがそれをうまく果たしているでしょう。そちらにも参加なさってはいかがでしょうか?」
「サラサ…。何が言いたい?」
少しキレて来たチコ。理不尽なキレ具合である。言い方は悪いが、サラサの方が普通のことを言っている。
「この長いベガス生活。よく考えれば、女同士のこういうケンカは初めて見るな…。」
シグマにクルバトが訂正する。
「そうか?時々見るぞ。まさに今ケンカしてる二人。」
前にも一発触発であった。自分を眺めているアホな顔に気が付いて、冷静になるチコ。自分の方がアホになってはいけない。
「サラサ、…私、出張の予定ない?」
「ないです。ここに皆さん出張に来てほしいぐらいです。忙しすぎて。」
「はあ…。」
チコのテンションが完全に下がってしまった。
サダルが去ってから安心感しかなくて、夫婦でありユラス議長夫婦として二人で話し合うべき具体的なことを考えておらず、全くノープランなのである。
「チコ、会議中なので、状況を割り切れないなら横で黙っててくれませんか。フォーラムに来る組織の関係性をもう少し詳しく知っておきたいのですが。」
サルガスがチコをあしらって会議をすすめる。
「…そうですね、関係組織はお話ししましたので、新しい構想とこちらが注目している人物を紹介します………」
アーツは流すが、項垂れているチコをチラチラ見て、遠慮しながら帰国組が話を進める。
落ち込んでいるが、チコは何かを考えている。
おそらく逃げ道を考えているのだろうとサルガスは放置しておくことにした。
「いいですよ。チコは脳内が別の事で忙しいので、どんどん話を進めてください。」
ベガス組の言いっぷりに、もうどう対応していいのか分からない帰国組である。
ちなみに、今回の会議メンバーはユラス人も全員アーツやVEGA、サダルやチコの直接の部下的存在。ちょっと意見の違いで議長ご夫妻は対立しているので、口外無用でという事になった。




