月を仰ぎて花を愛ず 3
紫乃の見合い相手の名前は、中村弘晃といった。
社長からその名前を聞かされたとき、俺は誰のことだかわからなかった。知らなかったのは俺だけではない。後で確認したら、室長を除いた秘書室の全員が知らなかった。
「知らないわけはないだろう?。 中村物産の社長の息子さんだよ」
社長が俺の無知を笑う。
中村物産のことならば、俺だって、もちろん知っている。日本中に知らないものはないだろうと思われるほどの大商社である。傘下に多くの子会社や関連会社を従えており、これらを総称して、中村物産グループと呼ばれている。ことごとく書類選考ではじかれたものの、俺は、あの会社もしくはその系列会社に就職しようとしたことさえあった。
ところで、中村物産グループは、戦前は中村財閥として知られていた。
その規模は、今の約4倍。中村財閥は、戦後の財閥解体によって4分割され、今では、本家と中村の3つの分家がそれぞれの経営を受け持っている。4分の1と言われれば随分小さくなった気がするが、たった4分の1でも六条グループと同じかそれ以上の大きさがある。本家筋の中村物産グループ、分家筋の中村エンジニアリンググループと中村造船グループ、そして東栄銀行グループの4グループを総称して、『中村四家』と呼ぶ。
ところで、『中村四家』のうち、本家筋の中村物産グループは、ここ十数年来倒産の危機に瀕していた。しかしながら、中村物産グループと分家筋の3グループは、先代の時代にいろいろともめたために現在仲がよろしくないらしく、救いの手を全く差し伸べてもらえない状態にあるそうだ。そこにつけ込んで積極的に資金援助を持ちかけ、数年前から中村物産と仲良くなろうとしているのが、我が六条グループであった。社長が善意から中村物産に破格の援助を申し出たわけではないことは明らかだ。おそらく売れる限りの恩を中村に売りつけてから、どうしても断れないような無茶な要求を突きつけるに違いないと、誰もが思っていた。だから、社長が望みが紫乃と中村物産の御曹司との縁組だとわかったとき、俺たちは、『なるほど、そうきたか!』と膝を打ったものである。
次から次へと企業を買収して大きくなった六条グループは、成り上がりだのハイエナ新興企業だのと世間から白い目で見られている。
一方、中村家といえば500年もの歴史を持つ由緒正しき大商家である。
由緒が正しいだけに、中村家は非常に気位が高い。普通であれば、成り上がりの娘など受け入れはしない。本家であれば尚更である。だからこそ、中村の本家に紫乃を嫁にやることができれば、六条家には箔が付く。自分の出自にコンプレックスを抱えているらしい社長にとっては、願ってもない縁組であろう。
だが、中村物産の跡取り息子の名は、弘晃ではなく正弘だったと俺は記憶していた。他の息子を見かけたことはないし、いるという話も聞かない。ちなみに、正弘は、同会社の専務をしており、お世辞の必要がないぐらい有能で将来が楽しみな息子であった。
「社長。中村社長の息子さんは、弘晃さんではなくて正弘さんなのでは?」
「あまり目立たないけれど、弘晃くんも、ちゃんといるんだよ。ちなみに、正弘くんが次男で、弘晃くんが長男だ」
社長が俺の勘違いを正した。俺の考えを先読みするかのように、佐々木室長が、「弘晃氏と正弘氏は、父親も母親も同じだよ。うちの社長とは違って、中村社長には、お妾や愛人と呼ばれるような女性はいない」と説明を入れた。
「長男のその人が、中村の跡取り息子だというんですか?」
「いいや。先代さんは、跡を継ぐのは正弘だと決めていたようだね」
「は?」
俺は困惑した。「では、社長は、次男に劣るような、いるんだかいないんだかわからない役立たずな長男に、紫乃さまをやろうっておっしゃるんですか?」
社長の娘たちへの偏愛ぶりは凄まじいものがある。常日頃から、『どれほど金持ちであろうと、家柄や顔が良かろうと、俺が認めない男には娘はやらん』と断言しているほどである。それを、どういう心変わりで、跡継ぎにも選ばれなかったようなヘタレ長男に、娘をくれてやろうという気になったのだろうか?
「『いるんだかいないんだかわからない役立たず』 ねえ
なにが面白いのか、社長が、俺の言葉をそっくりそのまま繰り返しながら、クツクツと笑う。
「弘晃くんはね。ほとんど目立たないけれども、中村物産にとっては、なくてはならない存在だよ。彼がいるから社長がハリボテのお飾りでも、あの会社は潰れることなく、ここまでやってこられたんだ」
つまり、弘晃は跡継ぎではない。実質的には現役の社長なのだと社長が言う。
「お飾りって? 中村物産の社長がですか?」
話が進むほど、俺は、社長の言っていることがわからなくなってきた。押し出しが立派な理知的な紳士にしか見えない中村物産の社長が中身のないハリボテだとは、俺には到底思えなかった。俺の疑問を察したかのように、「商売には向いていないようだけれども、中村の社長さんは、とても頭の良い人だと思うよ。たまに会うだけの取引先相手なら、ハリボテと疑われずに振る舞えるだけの機転も利くしね」と社長が笑う。
「つまり、商才のない父親の代わりに弘晃氏が陰で社長をやっているということですか。でも、彼は長男なんですよね。正弘氏よりも年上なら、別に隠れる必要などないのではないでしょうか。父親に代わって社長として堂々と振舞えばいい。それとも、そうできない理由があるのでしょうか。そんな人を紫乃お嬢さまと結婚させて大丈夫なんですか。弘晃氏という人は、いったい、どういう人なんです?」
矢継ぎ早に質問する俺を、社長と秘書室長が嬉しそうに見つめている。俺は、だんだんと嫌な予感がしてきた。
「うん。なかなか良い質問だね。葛笠くん」
慌てて口を閉じた俺に、社長が微笑みかけた。
「では、2週間の猶予を与えてやるから、その間に、今、君が言った疑問の数々を徹底的に解明してくるように」
佐々木室長が暖かみのない声で俺に命じた。
『しまった、はめられた』と思ったときには、もう遅かった。それからの2週間。俺は、中村弘晃の正体を突き止めるために、いつにも増して走り回ることになってしまったのである。
☆☆
中村弘晃の調査にあたった2週間は、俺にとって地獄だった。
どうしても解かなければいけない数学の難問があるけれど、どうやって解いたらよいのかわからない。あれこれ試してみるものの、まったく正解らしきものに辿りつけず、なにをやっても見当違いなことをしているような気がしてならない。そんな、じれったくてイライラする感覚を、俺は、最初の1週間味わい続けた。だけども、受験生のときでさえ、俺は、こんなに長い時間をかけて1つの問題に頭を悩ませた覚えはない。
「すいぶんと苦労しているみたいだね。大丈夫?」
調査から10日ほど経った夜。いつものようにその日の報告のために部屋を訪れたものの、くたびれ果ててぐったりしている俺を見かねて、和臣がたずねた。
「もう、なにがなんだかわかりません」
俺は、力の無い声を出しながら勧められた椅子に力なく腰を下ろすと、頭を抱えた。
中村弘晃についての調査は難航を極めていた。
なによりもまず、彼の顔がわからない。弘晃氏が写っている写真は、どれだけ手を尽くしても一枚も入手できなかった。卒業アルバムの写真の中にさえ……いや、それ以前に、小学校から大学まで、弟の正弘氏の学歴は易々とたどれるにもかかわらず、兄のほうはといえば、何処の学校に通っていたのかさえ未だにわからないままである。
「中村家を外から見張っていれば、顔ぐらいわかるんじゃないの?」
「無理です」
中村本家を囲むコンクリート塀は、隣の女子校の塀よりも高く分厚く、そして、どこにも隙間がなかった。ちなみに、隣の女子校というのは、紅子たち六条家の娘たちが通っている中高一貫の学校である。筋金入りのお嬢さま学校よりもガードの固い中村家。その中に住む中村弘晃は、深窓の令嬢ならぬ深窓の王子さまといったところ。そんなに見せるのが惜しいのかと、愚痴のひとつも言いたくなる。
実体がつかめない一方で、弘晃氏に関する噂は、真偽の別なく豊富に巷に流布していることがわかってきた。
「だけど、この噂が、ヘンテコなものばかりなんですよ」
「例えば?」
和臣が、聞きたそうな素振りを見せた。
「例えばですね。『弘晃は子供ではなく、寝たきりのおじいさん』 から始まって、『頭がおかしいので入院している』 とか、『妙な宗教に凝っている』とか、『弘晃は人ではなくて、中村家にいる座敷童子である』とか……」
座敷童から派生したのか、『弘晃は新興宗教の教祖であり、中村物産は彼のご託宣で動いている』というのもあった。
「ねえ、その人、本当に存在しているの?」
「いるんでしょうか?」
俺は逆に和臣に質問してしまった。噂の中には、『弘晃なんてものは、始めから存在していない』、『弘晃は、3歳の時に亡くなっている』など、現在の彼の存在を否定するものも数多かった。もしかしたら、弘晃がいない可能性もなきにしもあらずなのである。
いるけれども人ではないという噂も数多くあった。
例えば、『中村物産社長夫妻は、小さな頃に子供を病気で亡くし、彼が使っていた部屋のベッドに寝ている大きなクマのぬいぐるみを、弘晃と呼んで可愛がっている』とか、『中村の社長は、夜毎、仕事の悩みを、そのクマに聞いてもらっている』という、『弘晃ぬいぐるみ説』である。
上記の噂のヴァリエーションとして、『社長は、クマからの助言を会社の経営に生かしているらしい』、『中村家には、齢100歳を越える女性の霊媒師がいて、社長はその老婆を介して、亡くなった弘晃と会話している』というのもあった。
噂を仕入れば仕入れるほど、中村弘晃の実像から遠ざかっていくような気がして、俺のやる気は、日に日に削がれていった。
「先代が変な宗教に凝っていたというのは事実であるようです。そのことと弘晃氏に関する情報がゴチャゴチャになった結果、このようなおかしな噂ばかりが広がったようです。ですが……」
ただ、調べていて、わかったことがあった。それは、中村社長の後ろで糸を引く誰かの存在を疑っているのは、うちの社長に限ったことではないということだった。
菱屋商事や六甲製鉄、喜多嶋紡績、等々…… 数々の大企業の社員が、上からの命令を受けて密かに弘晃氏のことを探っていた。それにもかかわらず、その中の誰ひとりとして真相にたどりつけた者はいないようだ。新しい情報を求めて他社の社員と情報交換してみたものの、クマのぬいぐるみがサルやキリンのぬいぐるみに置き換わっただけで、お互いにガッカリ……ということもあった。
「それにですね。誰も否定してくれないんですよ」
「誰が何をだって?」
「弘晃氏に関するおかしな噂の数々を否定してくれる人がいないんです。中村の社員などに、それとなく探りを入れてみたんですが……」
噂を仕入れれば仕入れるほど混乱することにイラついた俺は、思い切って中村物産の社員たちをつかまえては、中村弘晃について、あれこれ質問してみたのだ。しかしながら、弘晃氏に関する噂は変な噂ばかりだというのに、俺がたずねた中では誰一人、その噂を否定しようとしなかった。皆が皆、怒りもせずに、ただ曖昧な微笑と言葉を返すばかり。それどころか、変な噂に更に尾ひれをつけようとする者まで現れる始末である。
「まるで、中村物産の社員までもがグルになって、噂に紛れて弘晃という存在を煙に巻いてしまおうとしているみたいなんですよね」
「そんなことして、なんになるんだろう?」
「わかりません」
俺は、力なく首を振った。本当に、わからないことだらけである。これでは、社長と室長に報告できることが何もない。2週間も猶予をやったのにお前は何をしていたのだと、社長と室長から叱られることは必至である。
俺は、クビを覚悟した。