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OVER THE LEFT !  ~あるいは、ある親バカ社長秘書の備忘録~  作者: 風花てい(koharu)
月を仰ぎて花を愛ず
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月を仰ぎて花を愛ず 2


「私が、この家にご厄介になるのですか?」

「日中は源一郎さんの我侭に振り回され、就業後には和臣さんのお話相手までするのでは、休む暇がありません。ここから通えば、少なくとも通勤時間の節約ができます。食事や洗濯の心配をする必要もありませんよ」

 

 突然の申し出に唖然としている俺に、綾女が説明する。ここに住むのであれば、朝夕の食事もその他の家事も使用人任せにしてくれていいと彼女は言った。そのうえ、家賃も取る気がないという。俺にしてみれば、夢のような話である。


「でも、ご迷惑ではないですか?」

「迷惑ならば言いません。源一郎さんも賛成するでしょう。とりあえず、お部屋を見てくださる?」


 彼女が案内してくれた部屋は、中央・南・北の3棟からなる屋敷の、南棟の1階の本館寄りにある部屋だった。出入口は1つだが、中で2つの部屋に分かれており、奥の部屋にはベッド、手前の部屋には作りつけのクローゼットと本棚代わりに使えそうな棚と机が設置されている。開かれた窓から聴こえてくる風に揺れる木々のざわめきも耳に心地良く、実に居心地が良さそうだ。


「ちょっと手狭かもしれませんけど……」

「とんでもない。広すぎますよ!」

 いかにも苦労知らずの綾女の発言を、俺は言下に否定した。紹介された部屋は、狭いどころか、その時に住んでいた俺の下宿の3倍の広さは充分にあった。


「私にはもったいないです。もっと……」

 『もっと小汚くて狭い部屋で充分です』と言おうとした時、俺は、背後から視線を感じて振り向いた。この家の四女の紅子が、戸口から顔を覗かせていた。肩にかからない程度に切りそろえた髪が、部屋を抜けていく風を受けてフワリと揺れていた。


「綾女お母さま。このお部屋で何をしていらっしゃるの?」

「この部屋を使ってくれるようにって、葛笠さんを説得しているところですよ」

「本当、葛笠さんが、ここに住むの?」

 穏やかな微笑みで綾女が答えると、紅子がパッと顔を輝かせた(……ような気がした)。


「これから、よろしくね。うちのお母さんは甘えん坊さんで、ちょっとうっとうしいかもしれないけれど、でも無害だから。どうか嫌わないであげてね」

 跳ねるようにして部屋に入ってきた紅子が、俺の前で、ぴょこんと頭を下げた。その時になってようやく、俺は、南棟の一階部分……つまりこの部屋の並びには、紅子が彼女の生母と住んでいたことを思い出した。


 はしゃぐ紅子につられたように、俺も、つい『はあ、こちらこそ、よろしくお願いします』と頭を下げてしまった。

「じゃあ、この部屋でよろしいわね」 

 俺たちのやり取りを見ていた綾女が、満足げにうなずいた。




 忙しすぎて寝るためにしか帰ってなかったそれまでの下宿先には、引越し荷物と呼べるものがほとんどなかったから、それから数日後には、俺は六条家の住人になっていた。


 暮らし始めてすぐに、俺は、自分にあてがわれた部屋が、俺にとって、この上なく使い勝手の良い場所だということがわかってきた。


 なにかにつけて俺をこき使いたがる社長の部屋からは、近すぎもしなければ遠すぎもしない。帰りが夜中になっても、台所に行けば、俺のために食事がとり置かれている。部屋が階段の上り下りが必要最低限で済む1階にあることも、足が悪い俺にはありがたかった。



 だが、なによりも、俺がこの部屋で良かったと思う一番の理由は、俺が住んでいる南棟1階の主が紅子の母親であるということだった。


 社長は、数年前に本妻を亡くした時に後添いの座を狙って一斉に押しかけてきた6人の愛人のために、屋敷の左右に3階建ての北棟と南棟を建て増しし、各棟の各階に、ひとりの愛人とその娘を住まわせているのだが、社長の愛人……もとい妻たちは、いずれも美しいが、クセの強い人物ばかりだった。 


 次女の明子の母親の愛海まなみと末っ子の月子の母親の梨花は、いわゆる女傑タイプで、そこにいるだけで周囲を威圧するような迫力があった。

 五女の夕紀の母親の百合香は陰気臭く、娘の夕紀でさえ、たびたび耐えきれなくなって紅子の部屋に避難してくるほどだった。

 長女の紫乃の母親の綾女はきちんとし過ぎていて、こちらの肩が凝りそうな人だったし、フランス人形のように華やかに着飾った三女の橘乃の母親の美和子は、好人物ではあるようだが明子の母親とは違った意味で近寄るのが怖った。


 その点、紅子の母親の朱音あかねは、彼女たちの中では一番人当たりが良かった。少なくとも俺は、彼女に対して他の社長の妻たちに感じているような近寄りがたさを感じなかった。だが、朱音も他の女たちと同様に個性的というか、ある意味他のどの妻よりも不思議な人物ではあった。


 紅子が母親のことを『無害な甘えん坊』だと言っていた通り、この人は、何かにつけて人を頼ろうとした。普段の朱音は、実家から連れてきたというタツというばあやに何もかも任せっぱなし。その老女がわずかな間でも朱音の側を離れようものなら、彼女は、誰彼構わずに周囲の人に用事を言いつけた。


 だがしかし、朱音の頼みごとというのは、どれもこれも大したことではなかった。例えば、「ボタンが留められないの。留めて」とか、「お魚の骨、とって」など、彼女は、子供のようなことを何の恥じらいもなしに、年がら年中、人に頼むのである。


「もう。そういうことは、自分でやりなさいっ!」 

 紅子は、文句を言いながらも甲斐甲斐しく母親の世話を焼いた。これではどちらが母親だかわからないが、紅子は、必ずと言っていいほど母親の頼みを断らない。なぜなら、紅子が断れば、朱音は、その辺にいる俺や夕紀を使おうとするだろうし、それも無理なら、「じゃあ、いいわ。源一郎さんか綾女ちゃんに頼むから」と、とんでもないことを言い出すからだ。


 男はもちろん他の女が同様の頼みごとをしたとしても、絶対に言うことをきかないだろう社長である。それにもかかわらず、朱音の頼み事だけは、社長は、いつでも何の不平も言わずに気軽に引き受けた。社長が、「朱音は、御乳母日傘で育ったからねえ」と笑いながら彼女に靴下を履かせてやっているのを見かけた時には、俺は、片方しかない自分の目を疑ったものである。


 また別の日には、朱音が自分で着ることができない浴衣(つまり寝巻きだ)の前をはだけたまま、手伝いを探してウロウロしていたことがあった。その時には、さすがの俺も逃げ出した。


 思わず関心してしまうほど何もしない朱音だが、彼女の何かに付けて人を頼ろうとする性格は、怠け者というのとは少しばかり質が違っているようだった。なんというか、彼女には、自分の面倒は自分で見るという意識が非常に希薄であるようなのだ。人に任せっぱなしにすることが子供のころからすっかり習慣化してしまっていて、今更どうにもならない……そんな感じなのである。


 紫乃の母の綾女には屋敷内での家政と女たちの取りまとめを、次女明子の母親の愛海には社長を訪ねて六条家を訪れる客の応対をというように、この家の女たちには、それぞれに果たすべき役割が与えられている。だが、『怠け者』の朱音だけは、こんな調子だったから、なんの役割も与えられていなかった。


 しかしながら、朱音本人は、自分が役立たずであるとは露ほども思っていないようだった。


「だって、何にもしていないことないもの。私の仕事は、見守ることなの。この家がいつまでも平和につつがなくいられるように」

 いつだったか、朱音がそう言って、俺と紅子に胸を張った事があった。だたし、綾女に浴衣を着せてもらいながらの発言だったので、全く説得力に欠けていた。


「『見守る』って、使い勝手のいい言葉よね。何にもしていない言い訳になるんだから」

 紅子が母親を馬鹿にすると、朱音が頬を膨らませた。

「そんなことないもの。ちゃんとやっているもの。そうよね、綾女ちゃん?」

「そうですね。朱音さんがいるから、このお家は、うまくいっているんですよ」

 朱音が脱ぎ散らかした服を畳みながら、綾女が、にこやかに同意する。この家の使用人たちの頂点で女王のように君臨する彼女もまた、朱音を甘やかしている。


「でも、紅子ちゃんが生まれたときには、あまりにも何もなさらないので、どうなることかと思いましたけどね」

「うん。赤ちゃんって、私以上に何もできないものね。そう思うと、私も、随分といろんなことができるようになったって思うわ」

 朱音が自分で自分に感心したように、小刻みに首を縦に振る。


(おや?)


 ふたりのやり取りを聞いていた俺は、不思議に思った。


 社長は、別の女性の存在を隠したまま、それぞれの女性と付き合っていたのだと、俺は聞いていた。だからこそ、本妻である和臣の母親が亡くなってすぐに、6人が6人とも 『我こそは次の本妻に違いない』と、娘を連れて屋敷に乗り込んできたのではなかったのか?


「紅子お嬢さまは、この家にいらっしゃる前から、綾女奥さまのことをご存知だったのですか?」

 不思議に思いながら、俺は、小声で紅子にたずねた。

「ええ。なにせ、うちのお母さまは、こんなでしょう。だから綾女お母さまが、お父さまの代わりに時々様子を見に来てくださっていたの。でも、綾女お母さままで、お父さまの奥さんだとは知らなかったわ」

 自分に紫乃という姉がいることも屋敷に来るまでは知らなかったのだと、紅子は言った。和臣と本妻の凪湖のことは、朱音からも綾女からも聞かされていたという。


(そうか、このふたり、前々から知り合いだったのか)

 それなのに、なぜ彼女たちは、愛人同士で仲良くしていられるんだろうか? 


「綾女ちゃんは、お馬鹿さんなのよ。お馬鹿さんといえば、源一郎さんもだけどね。でも、そのおかげで、私は生きていられるの」 

 そんな俺の疑問を察したかのように朱音が言う。


 朱音の言葉は、俺を納得させるどころか、混乱させただけだった。細かい説明を求めても、朱音も綾女も微笑むばかりで教えてくれなかった。


「そんなことより、綾女ちゃん!」

 朱音が、ふいに何かと思い出したように綾女に顔を向けた。

「もう少ししたら、雨になるわ。大雨よ」

「まあ、大変。葛笠さん。お使い立てして悪いのだけれども、誰でもいいからメイドさんを捕まえて、雨が降るって伝えてくださるかしら。朱音さんが、そう言ったって念を押してね。急いでちょうだいね」

「はいっ!」


 綾女と朱音に追い立てられるようにして、俺は朱音たちの居室を飛び出した。だが、空は晴れ渡っていて、雨が降りそうな気配など微塵もなかった。もしかしたら、朱音たちにはぐらかされただけかもしれないと俺は疑ったが、通りがかりのメイドは、朱音の雨予報を聞くなり、空模様をうかがうことさえせずに、血相を変えて物干し場に走っていった。それからまもなく、急に生暖かく強い風が吹き始めたかと思うと、空は黒雲で覆われ、大粒の雨が降ってきた。



 こんなふうにして俺の入社一年目は、慌しく過ぎて行った。


 ちなみに、六条家に入った俺の生活が以前よりも楽になったかといえば、そうでもなかった。


「葛笠さん!お給料もらったんでしょう? 私ね、不三家の苺の特大ショートケーキが食べたい!」

「だめよ、月ちゃん。葛笠さんは新人さんで、お給料は雀の涙なのよ。だから、アイスがいいわ。ね、夕紀ちゃんも、アイスがいいよね?』


 兄の守役は自分の遊び相手と言わんばかりに社長の下の3人娘に無闇に懐かれ、紅子の母親を始めとした社長の愛人たちからは執事代わりのようにこき使われと、俺の日常は以前に増して忙しくなった(……としか思えなかった)。



 そして、六条家での暮らしにもすっかり慣れた、次の年の春。


 高校を卒業し大学に通い始めたばかりの紫乃に、縁談が持ち上がった。


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