月を仰ぎて花を愛ず 1
数多くの企業から採用を断られてのち、ようやく六条コーポレーションへの入社を果たした俺の配属先は社長秘書室だった。
入社式にようやく会うことができた社長の六条源一郎は、今の言葉で言うところの『イケメン』だった。
彼の立ち居振る舞いは優雅極まりなく、やることなすこと、なにかにつけて心憎い。
……というよりも、他の誰かが言ったのであれば聞いた誰かが鳥肌を立てるに違いないよう気障な台詞でも、それが社長の口から出ると、いかにも彼らしいカッコイイ台詞に聞こえてしまう。それぐらい、社長は、芝居がかった言動が似合う色男だった。
そんな男だったから、彼に愛人がいると聞かされても、俺は特に驚かなかった。
この国の現代の倫理観で判定するなら、既婚者が愛人をもつことなど、許されていいことではない。それは俺も承知している。だが、社長の色男ぶりを見るにつけ、この人なら、そういうこともあるのだろうと、ついつい納得してしまったのである。
とはいえ、その愛人が6人もいると知ったときには、さすがに呆れた。ハーレムや昔の大奥じゃあるまいし、この男はいったい何様なんだ。きっと女性の敵どころか人類の敵に違いないと、彼女など持ったことのない俺には憤りしかなかった。
それはさておき、彼の6人の妻……もとい愛人たちには、それぞれひとりの娘がいた。つまり、6人の姉妹。俺が入社面接のときに出会った、あの娘たちである。社長には、姉妹の他に息子もひとりいた。既に他界した本妻の子供で、社長の代わりに最終面接で俺の採用を決めた和臣である。
社長は、6人の妻と7人の子供たちに、分け隔てなく愛情をたっぷりと注いでいるということだった。ならば、始めに出会った女だけを愛し続ければいいものを、なぜだか、彼は、次から次へと女性に恋し、そのうちの誰ひとりとも関わりを断ち切れなかったらしい。本妻亡き後は、彼女たちを屋敷に呼び寄せて、ひとつ屋根の下で仲良く暮らしているそうだ。
彼の有り様は、源氏物語の主人公である光源氏が人としての位を極めてのち、若い頃に関わりをもった女性たちを同じ屋敷に集めて住まわせたという話とよく似ていた。そのためだろうか。社長の大豪邸は、彼の名字『六条』と光源氏の屋敷の名前とをかけて、密かに『六條院』と呼ばれているという。
さて、入社した早々、社長は、俺と息子の和臣を社長室に呼びつけて、こう言った。
「葛笠。これからは、君が和臣に仕事のことを教えてやってくれないか?」
つまり、新人の俺が社長の秘書として体験したことや習い覚えたことなどを息子の和臣に話して聞かせてやってほしいというのが、社長の希望であった。
「和臣も高校生だからな。ぼちぼち自分が跡を継ぐことになる会社の仕事を覚えても、いい頃だろう」
俺の会社に入れたのは和臣である。だから、彼のお守り役に俺以上の適任者はいない。社長は、そのように判断したようだった。
「俺が葛笠に話したこと、あるいは葛笠が知り得た情報であれば、全てを和臣に知らせてやるのは構わない。いずれ自分が仕えることになる男が親の七光りで社長になった苦労知らずの馬鹿坊主なんてことにならないように、しっかりと教育してやってくれ。和臣も、葛笠を疎かにすることなく、将来の六条グループを共に背負って立つパートナー、あるいは兄だと思って彼を頼りにすること。いいな」
「お父さん。ひとつ質問していいですか?」
同席していた和臣が、疑いの眼差しを無遠慮に父親に向けた。
「もしかして、葛笠さんが本当に僕の兄だったり……なんてことはありませんよね?」
和臣の質問に、社長の脇に控えていた秘書室長の佐々木が忍び笑いを洩らす。
「それは、ない」
社長がきっぱりと答えた。
「あと4、5人ほど、僕の知らない兄弟姉妹がいるような気がしてならないんですけど。本当に本当ですか?」
「ないったら、ない。妻も娘も、お前が知っているだけで全員だ!」
社長は、これ以上の愛人と隠し子の存在を頑なに否定した。
俺も、社長の言葉を素直に信じる気にはなれなかった。
あれだけ無節操に沢山の愛人を家に囲っているのだ。社長には、家の外にも、まだまだ不義理をしている女がいるのではないのだろうか。俺は、その疑問を口に出すことはしなかった。だが、顔にはしっかり表れていたらしい。
「本当だぞ。誰にも不義理ができなかったから、家に6人もコブ付きで居ついちゃったんじゃないか」と、社長は、俺と和臣を交互に見ながら必死になって訴えた。
「ああ、なるほど」
俺と和臣は、同時に膝を打った。それから、お互いに顔を見合わせてニヤリと笑った。
(ちょっとばかり(いや、かなり)生意気なガキだが、こいつとなら、上手くやっていけそうだ)
その時、なんとなく、そう思った。
次の日から、俺は、日中は社長の秘書として働く一方、就業後は社長を送りがてら六条家に寄り、その日に会社であったことや覚えた仕事のことなどを和臣に話して聞かせてやるようになった。
しかしながら、年上ぶって偉そうなことを言えるのは和臣の前でだけで、入ったばかりの新人秘書など、いるほうが迷惑な役立たずでしかない。難しいことは先輩の秘書が全て引き受けてくれるのに任せ、俺は、毎日社長の鞄を持って後を付いて回るだけで精一杯だった。
「でも、葛笠は、いるだけで役に立つ男だよなあ」
ある日。取引先帰りの車中で、感心したように社長が言った。
「そ、そうですか?」
俺の顔が思わずにやける。
「ああ。なんというか、お前の姿を見た時の相手の反応が面白い。あからさまに嫌な顔をする人がいれば、まったく気にしない人もいる。相手の本当の性格を知る良い手がかりになる」
どうやら、社長は、片方の目に青い義眼を入れ足を引きずって歩く俺を見た時の相手の反応を見て、人物鑑定を行っていたらしい。
(社長…… 俺は、リトマス試験紙かなにかですか?)
社長に誉められて、ちょっとでも得意になった俺がアホだったと、俺はひどく後悔した。
「まあ、慣れているからいいですけどね。差別的な眼差しでみられるのは、今に始まったことではありませんから」
「慣れることなんてないだろう。馬鹿にされれば腹も立つ。見下されれば、逆に踏みつけにしてやりたくなる。違うか?」
社長が、開き直る俺の心の中を見透かすようなことを言って微笑んだ。
「でも、まあ、安心しろ。お前を見て笑う奴がいても、本当に笑われているのは、お前じゃない。『あの目立ちたがりの成金が、わざわざ変った者を連れて歩いている』って、俺を笑っているんだよ。俺の前ではペコペコしておべんちゃら使ってくれても、心の中では俺を見下している輩も多いからな。お前は、そのとばっちりを受けているに過ぎない」
『俺にはイロイロあるからねえ』。そう言って、社長が楽しげに笑った。
「色々あるんですか?」
「そう、イ、ロ、イ、ロ。でも、まだ葛笠には教えないよ」
和臣に話されたら困るからだそうだ。
「いつか話すことになると思うけどな。でも、今はまだ無理だな。せめて、もう少し目処がついてからでないと……」
「目処?」
「それも、秘密。時期が来たら教えてやる」
疑問だらけの俺をなだめるように、社長が約束した。
「とにかく、俺は葛笠の能力を買って秘書にした。お前には、それだけの価値があると思っている。だから、人からどんな目で見られても堂々としていろ。そうでないと俺が恥をかくことになる。ゆえに、これは社長命令だ。いいな」
「はい。わかりました」
もしかして、社長は、実はハンディキャップにコンプレックスを抱えている俺のこと気遣ってくれて、こんなことを言ってくれているのだろうか?
ひょっとしたら、社長って、とっても、いい人かもしれない?
そんなことを疑いながら、その時の俺は、機嫌よく返事をした。
だが、その後の2ヶ月間……否、その後何年も何十年も、俺は社長の我侭に振り回され、馬車馬のように仕事に追い回されることになった。おかげで、『社長が良い人』などという幻想は、いつの間にか霧散していた。
そして、入社2ヶ月が経ち、ようやく仕事の流れがつかめてきたある日の朝。
社長を迎えるために六条家を訪れた俺は、社長の愛人のひとりで、長女紫乃の母親でもある綾女に呼び止められた。
「葛笠さん。よろしかったら、この家で暮らしませんか?」
綾女が、上品な笑顔を浮かべながら俺に提案した。