月を仰ぎて花を愛ず 13
和臣……というよりも朱音から諭されたその日から、社長は、中村との和解に向けて動き出していた。だが、中村側は、謝罪の意味も込めてこちらから差し出した手を決して取ろうとはしなかった。
強引な手段で港や倉庫に止めていた中村の荷を解放しようとしても、あれこれ理由とつけて引き取りにこない。横取りした取引先から六条が手を引くそぶりを見せても、取り返しにこようとしない。そればかりか、止めていた資金援助を再開するという六条の申し入れにも応じようとしない。面談を申し入れれば、これもまた拒否……というより無視する。
悪いのは間違いなくうちの社長なので、中村側が腹を立てるのは当然ではある。しかしながら、あちらもにせよ、いつまでも意地を張り続けたところで、いいことなどないはずだ。このままでは、本当に中村物産が潰れてしまうことになりかねないのだから。
仕掛けたのは自分とはいえ、もともと中村を潰す気なとなかった社長は焦った。なんとしてでも、あちらの社長……つまり弘晃か弘晃の父親と直接話をしようした。だが、受付の交換台が取り次いでくれない。中村物産の本社に出向いても同じで、麗しい笑顔を浮かべた3人の受付嬢は、「社長はお会いになりません。相談役の所在は不明です」の一点張りである。本宅の執事の応対は受付嬢以上に冷淡で、社長は塩まみれになった。
「かなり、やばいな」と、冷や汗をかきながら社長が呟いたのは、中村に対してだったのか、それとも自分たちに対してだったのか。それというのも、その頃の俺たちは、中村から無視されているおかげで、とんでもない目に会っていた。
総合商社でもないうちの会社でも、強引な手を使えば中村物産の仕事を一時的に奪ったり妨害することはできた。しかしながら、俺たちには彼らから奪った仕事を自分たちだけで引き受けるだけのノウハウがなかった。さらに愚かなことに、中村の取引を妨害すれば、世の中に広く悪影響を与えることはわかっていても、どこにどれだけの問題が起こるかまでは正確に予想しきれていなかった。
港湾に消防、警察に裁判所、通産省に運輸省に建設省、等々……
紫乃が無意味な見合いを始めた頃から、俺たちは、中村の仕事を妨害したことから二次的に大量発生したトラブルについての苦情の応対に追われることになった。だが、俺たちには、それらの苦情を受け付けるだけで精一杯だった。税関の手続きがどうのこうの……とか、港湾法第○条の何とかの第○項が……とか、電話口で矢継ぎ早にまくし立てられたところで、そんなことに関わったことがない俺たちには、なんのことやらサッパリわからない。即時に対応するどころか、用語や法律を調べるところから始めなければならない。その頃の六条の秘書室は、ちょっとしたパニック状態だった。
自分たちだけでは手も頭も回らないと判断した社長は、秘書の数名に命じて、高い報酬を餌にして中村から人材を大量に引っこ抜いてこさせた。
愛社精神に欠けているのか、中村の社員たちは気軽に六条からのヘッドハンティングに応じてくれたという。中村の業務に精通していた彼らは、入社早々、俺たちの(というよりも社長のだ!)尻拭いを引き受けてくれた。おかげで、3日と経たぬうちに苦情の電話はピタリと止んだ。
「まあ、向こうでやっていたことを、やっているだけですからね」
元中村物産社員の優秀さに驚愕する俺たちに、彼らが謙遜してみせる。
それは、そうかもしれない。だが、彼らが自分たちの優秀さを余すことなく披瀝し始めたのは、その後だった。なんと、彼らは他人の仕事を根こそぎ奪うような勢いで、目に付いた仕事を片端から効率よく片付け始めたのだ。
「なんというか、無駄の多い職場ですね」というのが、彼らから見たうちの会社のの感想だった。
数年前に潰れかけていた時に、中村物産は、大きなプロジェクトから備品の置き場所に至るまで徹底的に業務の見直しをしたという。そのおかげもあって、中村物産の経営状態は急速に上向いた。元中村物産の社員たちは、その時の経験に基づいた業務改善案を社長に提出した。その案は、100に近い項目からなり、当たり前のことが見えていなかったことに気付かされるような、ある意味基本に忠実で、だからこそ画期的と呼べるような、そういうものだった。
「中村物産で最初にこれをやった時のことを考えると、すごいな。反発も多かっただろうに……」
改善案を読みながら社長が唸る。この改善案は、中村物産の社員の隅々からアイディアを募り、実践し、効果を検証した結果としてあるものだろう。だから、改善案そのものは、弘晃ひとりの手柄ではない。 だが、だからこそ素晴らしいのだと、社長は言う。なぜならば、誰でも意見が言えるような風通しのよい空気を社内に作りだし、出されたアイディアを積極的に試しながら良いものだけを残していく……ということをプライドの高い社員たちの先頭に立って主導したのが、今よりもずっと若かった……どころか成人もしていなかった頃の弘晃に違いないからだ。
「やべえ。ますます弘晃くん本人が欲しくなってきた」
社長が本音を漏らす。しかしながら、呑気に喜んでいるわけにもいかない。元中村社員の性急さは、事情を知らない多くの六条の社員を脅かしていた。
『近いうちに、社員の大量解雇が行われるのではないか?』
六条コーポレション本社の秘書室以外の場所は、そんな噂に恐々とする社員だらけとなり、俺は、その噂の火消しに日々追われることになった。
***
「ほ~ら。言わんこっちゃない」
一緒に飲んでから3週間ほど経過した頃、菱屋の田代が陣中見舞いと称して、笑いながら俺に電話をかけてきた。
「言ったでしょう。『下手に手を出すと、六条なんて内側からバリバリ食べられちゃいますよ』って」
俺が、「現在進行形で食われつつあります」と答えると、菱屋は更に楽しそうに喉を鳴らした。
「ヘッドハンティングされてきた中村の社員は、さしずめ斥候ですね。戦を有利に進めるため、またはかく乱するために、少数で敵の陣地に入り込む……っていう、あれですよ」
つまり、俺たちは、わざわざ高い報酬を払うことまでして敵を陣地に入れたアホだということだ。
「で、これから、どうするんですか?」
真面目な声で菱屋が問う。だが、若輩者の俺に打開策がわかるはずもない。俺は、菱屋の質問を、そのまま社長にぶつけてみた。ついでに、菱屋からの「とにかく謝ってしまってしまいましょうよ」というアドバイスも、叱られるのを承知で社長に話してみた。
「わかってるよ」
柄にもなく疲れきった顔で、社長がうなずく。
「そもそも中村の庇護下に入りたくて始めたことだから、あちらに喰われようとどうしようと別にかまわない。だが、このまま放っておかれるのだけは、困るんだよ。だから、とにかく謝りたいし話し合いたいんだが、どうやっても、社長と弘晃くんに接触できない」
困り果てた社長は、第三者を頼ることにした。
喜多嶋紡績グループの会長、喜多嶋英輔氏である。
***
「裏の仕事から足を洗いたいって……。ああ、それで、あんたは中村の本家さんに、変なちょっかいを出しておられるわけですか」
社長の裏にも表にも詳しいらしい洒落た身なりの喜多嶋英輔氏は、快く社長の頼みに応じてくれた。ちょうど彼の孫息子の婚約披露パーティが行われるので、その席に中村社長を引っ張りだしてくれるという。それから、知り合いの中村の分家の有力者で東栄銀行の元頭取夫人にも、六条側の真意をそれとなく伝えておいてやろうとも約束してくれた。
そればかりではない。紫乃が要求している『もっとマシな見合い相手』として、もうひとりの孫息子を提供してくれるとも言ってくれた。当て馬として提供するのだから当然断ってくれてかまわないが、紫乃が弘晃よりも孫を気に入るようなら是非とも貰ってやってくれと、気前の良い事この上ない。
「大事なお孫さんを、こんなことに利用させていただいて、本当にいいんですか?」
「ああ、全然かまいませんよ。あの子なら、私の道楽に付き合わされるのは慣れっこになってますからな。後で事情を話せば、許してくれるでしょう」
お気に入りの孫なのだろう。喜多嶋氏が相好を崩す。
「これぐらいのことなら、喜んで手をお貸ししますよ。《男爵》殿と六条さんには、ずいぶん世話になりましたからな」
喜多嶋氏が笑いながら打ち明ける。要するに、この気前の良さは、喜多嶋氏なりの罪滅ぼしのようなものなのだろうと俺は推察した。彼もまた、金儲けのために社長を介して自分の手を汚したことがあるのだろう。だから、ちょっとだけ良い事をしたいだけなのだ。自分の気持ちを軽くするために。
人知れずガッカリしている俺の顔色を読んだのか、柔和な笑みを残したまま「秘密兵器を作れと言われたのですよ」と、喜多嶋氏が俺に言った。
「秘密兵器ですか?」
「うちは、長野に研究所を持っておりましてな。そこで、空気中に撒くと体中が痒くなるようなガスとか皮膚がただれてしまうような液体とか、そういうのを開発せよと命じられました。戦争が終わりかけていた頃です。でも、うちは化粧品を作っているような会社です。だから、『誰かの見た目を醜くするような代物の開発になど、死んでも関わるわけにはまいりません』と、そう言って突っぱねたんですな。そうしたら、えらく憎まれてしまいましてね。その時に、六条さんたちに助けてもらったのですよ」
他にも、体の弱い友人のところにまで送られてきた召集令状を破り捨てたことで、あやうく銃殺刑になりかけた息子を助けてもらったことがあると、喜多嶋氏は懐かしそうに語った。危ないことなど絶対しなさそうな柔和な顔をしているくせに、喜多嶋氏とその一族とやらは、随分と気骨があるというか世渡りベタな人々の集まりであるようだ。
「他にも、戦後の化粧品の再販売の認可を早めに出してもらうのに、少しばかり手を貸してもらいました。必需品でないものは、いつだって後回しですからな。だが、くだらないものだからこそ生きていくハリになる。そういうことって、あると思いませんか。法律や制度がしっかりしてきた今となっては、六条さんがしているような役割は必要ない。いや。人を利権や私欲に走らせるだけで、あってはならないものかもしれません。しかしながら、六条さんのような人がいないと、どうにもならないような時代もあったのですよ。特に《男爵》のような、無私……というか、時代の常識に囚われず、大局的な視野をもってこの国を見定められるような人がね」
「非常識だっただけですよ。あの人は」
社長は、楽しそうに喜多嶋氏の思い出話を混ぜっ返した。
(たぶん大丈夫だ。きっと、社長は、本当の意味での卑劣な悪事は働いていない。俺が、この会社にいるのも、だから間違ってない)
喜多嶋氏の話と、その時の社長の笑顔から俺は確信した。そして、帰ったら今の話を和臣にも聞かせてやろうと思った。
***
それから3日ほど後、紫乃の5回目の見合いが行われた。
見合い相手の森沢俊鷹氏は、いかにも喜多嶋老人の孫息子らしく、センスの良い服装と身のこなしがスマートな愛想の良い人物だった。
「ある意味、弘晃さんを上回ってますかね?」
「うん。いかにも女性に好かれそうなタイプだよね」
もしも紫乃が弘晃よりも彼を選んだら、どうしよう。いつの間にやら、すっかり弘晃びいきになっていた俺と和臣は、人知れず焦った。社長も焦ったようだ。いつものように紫乃がその日のうちに断りを入れてこないので不安になった社長は、森沢氏の身辺調査を業者に指示した。
森沢氏は、喜多嶋紡績の子会社の社員である。衣料品の原料や化粧品を扱っている会社であるだけあって、森沢氏は仕事でも女性と関わることが多いらしい。交友関係は、非常に華やかだった。だが、派手な風聞とは裏腹に、彼が節操なく遊んでいるのかいえば、そうでもなさそうだった。弘晃と紫乃をくっつけたい俺たちとしては、この調査結果は、不満足なものでしかなかった。なんとかして森沢氏の醜聞を見つけたい。だが、どれだけ調べても何も出てこない。ムキになりすぎて森沢氏の後を追い回した俺は、追い回していることを彼に気付かれて捕まったりもしたのだが、その話は長くなるので、また別の機会に……次女明子の話でするとしよう。
話を戻して、森沢氏との見合いから、約一週間後。
「いっそのこと、本当に森沢くんに紫乃をもらってもらおうかな。そうすれば、仮に俺に何かあったとしても、紫乃だけは喜多嶋のおっさんが守ってくれるだろうし」
社長の口からそんな弱音が漏れるようになった頃になってようやく、紫乃は、いつもの紫乃らしさを取り戻しつつあった。
「弘晃さんについて、おかしな噂が沢山あるって、本当なの?」
喜多嶋氏が約束してくれたパーティーを晩に控えたある日の朝、車の側で社長が出てくるのを待っていた俺に紫乃が質問してきた。




