月を仰ぎて花を愛ず 8
中村家の坂口が運転する車は、皇居桜田門の近くで路肩に停止すると、紫乃と弘晃を下ろして去っていった。
今日のデートはこのあたりの散策らしい。そう判断した俺は、レッカー移動されることを覚悟しながら愛車をなるべく邪魔にならないところに駐車し、徒歩で彼らを追跡することにした。
青い空に薄い雲がたなびき若葉を揺らしながら5月の涼やかな風が吹き抜ける本日は、絶好の散歩日和。寄り添って歩くふたりの笑い声や話し声の断片が、風に乗って、こちらまで聞こえてくる。
「幸せそうだねえ」
前を行く二人を眺めながら誰に言うでもなしに俺が呟く。すると、背後から、「本当にねえ」と、相槌を打たれた。驚いた俺が振り向くと、短髪丸顔眼鏡の人物が、「こんにちは」と、俺に片手を上げてみせた。誰かと思えば、弘晃の正体を探っていた菱屋商事の社員である。
「観光ですか?」
菱屋のラフな服装と首から提げているカメラに胡散臭げな視線を向けながら、俺は嫌味を言った。
「まさか。変装ですよ、変装。せっかくのデートなのに見つかっちゃ悪いですからね。しかし、六条さんはやることが違いますね。弘晃氏を表に引っ張り出すのに、美女で名高い御令嬢をお使いになるとは……」
俺の嫌味を笑顔で聞き流しながら、菱屋が馬鹿でかい望遠レンズがついたカメラで、二重橋をバックに弘晃と紫乃の姿を収めた。『違います。社長は、本当に紫乃さまと弘晃氏を結婚させたいみたいです。そして、社長が弘晃氏を探るために使い倒そうとしているのは、紫乃さまではなくて俺です』と、俺は訂正したかったが、こちらの事情を彼に明かしても仕方がないので、笑って誤魔化すことにした。
「でも、安心しましたよ。あの人、どうやら普通の人みたいですね」
カメラを下ろした菱屋が、弘晃に視線を向けたまま、満足げにうなずいた。
「そうです。とっても普通で好い人です」
俺は、本心から彼の言葉に同意した。
「となると、彼が表に出てこない理由は、やはり健康問題ですかね。あまり丈夫そうには見えないし、彼に関する馬鹿げた噂の枝葉をとって残るのは、それぐらいだ」
……と、菱屋の言葉に理性的な声で割り込んできたのは、後ろから追いかけてきて俺たちの前で立ち止まった『ただの通りすがりのランナー』こと、住永通商の社員だった。そして、「でも、ああやってデートできるぐらいだから、それほど心配することもないのかもしれませんね。中村の先代は、弘晃氏ではなく正弘氏を跡継ぎと決めていた。表に出ようとしないのは、大事をとっているのと、弟に気を遣っているだけじゃないかな?」と、割合に楽観的な意見を述べてくれたのは、スーツ姿の六甲製鉄の社員と並んで散歩していた喜多嶋紡績の社員だった。
彼らだけではない。よくよく周りを見回せば、ただの歩行者や観光客に混ざって、弘晃の調査を通じて知り合いになった顔があちこちにある。
「なんだよ、出歯亀ばっかりじゃないか」
「仕方ないですよ。これまで、どれほど調べても、弘晃氏の顔さえわからなかったんですから」
俺をなだめるように菱屋が笑う。
「それに、そんなところにノコノコ現れる、あのおふたりも悪いんです」
「まあ、そうですけどね」
菱屋の指摘に、俺は苦笑を返す他なかった。
菱屋が言うとおり、お堀の反対側に目を転じれば、そこは大手町と丸の内のオフィス街である。中村物産の居丈高な本社ビルは目と鼻の先にあり、菱屋の本社ビルは、その2ブロック向こうにある。住永商事や大手都市銀行各社の本社ビルも、もちろんこの地区にある。喜多嶋紡績や六甲製鉄の本社は、この地区にはないが、同業者たちが集まるクラブハウスだか会館のようなものなら、このあたりにあるはずだ。なるほど、これでは「デートを見に来てくれ」と彼らをそそのかしているようなものだ。
「でもなあ……」
俺は、弘晃に目を向けた。
「これまで存在をひた隠しにしてきたというのに、弘晃さんは、こんなに目立っていてもいいのだろうか?」
俺の呟きに、「かまいませんよ」と答えたのは、堀の水鳥を観察しているバードウォッチャーだった。俺は菱屋を先に行かせると、自分は数歩戻ってバードウォッチャーのくせにサングラスをかけたまま望遠鏡を使っている男に声を掛けた。
「坂口さん?」
「むしろ、あの方は、もう少し表に出たほうがいいんです。そうでないと変な噂ばっかり増える」
サングラスを外しながら、弘晃の運転手を務める若者が苦々しげに答えた。どうやら、坂口は、数々ある弘晃伝説が不満であるらしい。
「でも、大丈夫なんですか。その……体調とか?」
こちらに戻ってくる菱屋を気にしながら、俺は遠慮がちにたずねた。
「大丈夫ですよ。2、3時間の外出なら問題ないだろうと、お医者さまもおっしゃってます。私も、こうしてお側におります。今までだって、時々ならば半日ほど会社に行くことぐらいはなさっているのですから、ご心配には及びません」
「本当ですか。日々絶対安静とかじゃないんですね?」
心配を募らせた俺がムキになって確認すると、「ええ」と、坂口が笑顔らしきものをみせた。
「確かに、お体はかなり弱いですけど、そこまでじゃありません。あの方が屋敷の外をご存じないのは、もっぱら先の大旦那さまのせいですから」
「中村本家の大旦那……ということは、弘晃さんの」
「ええ、お祖父さまの幸三郎さまです」
坂口が、先代の名前を口にしながら不快そうに顔をゆがませた。
その後、坂口から話を聞かされた俺もまた、その先代が大嫌いになった。
弘晃の祖父中村幸三郎は、幼い頃から彼を屋敷の一室に軟禁していたという。その理由は、彼が信心する宗教の教祖だが拝み屋だかいう怪しい老婆が、「弘晃が死ぬと、中村本家が潰れる」と言ったからだそうだ。その老婆(坂口は、憎しみを込めて『クソババア』と呼んでいた)によれば、弘晃の体が弱いのは、中村家にかけられた呪いとか怨霊とかいったものを一身に引き受けているからだという。依り代である弘晃が死んでしまうと、解き放たれた呪いが雪崩をうって中村本家に襲いかかるという訳だ。
「それだけではありません。あのクソババアは、中村家の呪いを受けている弘晃さまに中村家の他の者が触れるようなことがあれば、その者にも災いがあるとも言ったんです」
誠に馬鹿馬鹿しい話だが、先代当主は、戦後の財閥解体のショックも重なって、その言葉を信じ込んでしまったそうだ。
病弱な孫が死なぬよう、また、自分自身が弘晃が押さえ込んでいるという呪いの影響を受ける事がないようにと、先代は、弘晃を自分の部屋から一番離れた一室に閉じ込めた。それだけではない。大事な跡取りにもしものことがあってはいけないと、弟や両親との面会も制限した。
かつての中村本家の当主の権力というのは絶対であったらしく、両親をはじめ親戚一同で反対しても、先代は誰の諫言も聞き入れなかった。先日俺が弘晃と話したあの部屋と、時たま空気を吸うために出してもらえる庭だけが、成人するまでの弘晃の世界のほとんど全てであったらしい。
「葛笠さんも気がついた、弘晃さまのお部屋の前の妙な空間。あれは、見張りの待機場所であり、弘晃さまが熱を出すたびに、クソババアが役にも立たない祈祷をしていた場所でした。先代は、弘晃さまの命にしか関心がございませんでした。早い話が、死ななければよかったんです」
「ひでえ話だな」
「うん。酷い話だ」
いつの間にか集まっていた弘晃探索係の面々も、俺と一緒になって憤慨する。坂口は、俺以外のギャラリーを気にすることなく、「ええ。ひとでなしですよ」と続けた。(後で確認したら、坂口は、弘晃の引きこもりがちな性格と彼に関する不愉快極まりない噂の数々を日頃から苦々しく思っていた弘晃の弟と大叔父から、『弘晃と紫乃さんの後をつけ回している野暮天どもに、真実を告げてくるように』と言い使っていたのだそうだ)
「そういう事情ですから、弘晃さまは弱いことは弱いし、毎日会社に通って働くことは体力的に難しいのですけど、家の外に出たら命に関わるというほど弱いわけでもないです。仕事だって、人並み以上にこなしていらっしゃいます。ですから、結婚だって、できないことはないと思うんです。紫乃さまがお嫁に来てくだされば、本家としては万々歳なんですけど……」
坂口が、主を思ってため息をつく。
「え。賛成してくれるんですか?」
坂口や中村本家は、弘晃の結婚に乗り気ではない。それどころか、病弱な弘晃に厄介ごとを背負わせることになった紫乃を疎ましく思っている。なんとなくではあるが、そう思い込んでいた俺は、心底驚いた。坂口のほうも、俺が驚いたことに驚いていた。
「だって、紫乃さまですよ。私たちが反対するわけがない」
坂口が首を大きく横にふって俺の誤解を解こうとする。
坂口によれば、中村本家は、この結婚に大賛成なのだそうだ。渋っているのは弘晃のみ。それも、紫乃のことを思うが故のことである。暫定的であるとはいえ弘晃が紫乃と付き合うと決めたときには、中村家では赤飯を炊いて祝ったという。
「なんで、そこまで紫乃さまのことを?」
怪訝な顔をする俺に、坂口が、「紫乃さまは、中村本家の福の神ですから」と微笑んだ。
「福の神?」
俺は招き猫に扮した紫乃の姿を思い浮かべた。それほど縁起が良いものには思えない。
「あの方が本家の隣にある学校に通うようになってから、うちは良い事ずくめなのです」
坂口曰く。
先代が病で倒れた。おかげで、弘晃が屋敷内を自由に歩けるようになった。
先代を疎んで寄り付かなかった分家との繋がりが戻った。
先代が引退し、弘晃の父と弘晃が跡を引き継いだ。
弘晃の弟と分家の娘とが婚約した。
先代を騙くらかしていた預言者もどきのクソ婆が、ついに屋敷から暇を出された。
倒壊寸前だった中村物産の経営が持ち直した等々…… すべて紫乃のおかげであると坂口は言い切った。
「……。それは、どれも紫乃さまのおかげじゃないよ」
俺が呆れても、坂口は「紫乃さまのおかげだ」と譲らない。
「酷いイジメを受けても果敢に立ち向かい、自らの力で仲間と理解者を増やしていった。そんな紫乃さまのお姿が、中村家の……特に弘晃さまの心を打ったのです。そして、紫乃さまに負けてはいられないと、弘晃さまは、先代さまに立ち向かう決心をなされたのです。紫乃さまがおられなかったら、今の中村家はございませんでした」
「そ、そうなんだ。それより、紫乃さまが、いじめられていたって。本当に?」
それは、俺にとっては初耳であった。あの紫乃がいじめられている姿は、招き猫の着ぐるみを被った紫乃以上に想像ができなかった。『いじめてた』の間違いではないだろうか?
「本当です。それはそれは酷いイジメでした。 うちの奥さまが見かねて学校に申し入れたりもしたんですけど、イジメは、かえって酷くなる一方でした」
紫乃は、家族にも打ち明けることなく独りで頑張っていたらしい。イジメは半年ほど続いたのち、紫乃がイジメっ子のグループに勝利したことで幕を閉じたということだ。彼女が中学1年生の時だというから、今から6年ほど前の話である。
「清凰女子といえば筋金入りのお嬢さま学校。そして、六条家といえば成り上がり。まるで水と油だな。さぞや苦労したことだろうね」
「お嬢さまだからこそ、そのイジメっぷりは無自覚に容赦なかったに違いない。可哀想になあ」
菱屋と住永の社員が、身震いしながら呟いた。
「じゃあ、その頃から、弘晃さんは紫乃さまのことを知っていらしたんですね」
俺が確認すると、坂口がうなずいた。
「ええ。イジメが終息したあとも、あの学校の卒業生である正弘さまの婚約者の華江さまなどを通して、紫乃さまのお噂は、弘晃さまの耳にも入ってきましたから」
「なるほど」
なるほど、弘晃は、ずっと紫乃のことを見守っていたのだ。
紫乃に気づかれないところで、敬意を込めて、そして気の強い彼女の思い切った行動に少しばかりハラハラしながら(少しどころかハラハラしっぱなしだったに違いない)、弘晃は、ずっと紫乃のことを見守り続けていた。道理で、紫乃のことを良くわかっているはずである。
「だから、紫乃さまと弘晃さまが一緒になってくれたら、こちらとしては、どんなに嬉しいか。もちろん、紫乃さまさえ、よろしければですが……」
遠くのほうを歩いている弘晃と紫乃を眩しそうに見つめる坂口に、「そうですね。そうなったら、いいですね」と、俺は心から同意した。弘晃の正体を探っていた他社の社員たちも、「本当に、うまくいったらいいねえ」と、ふたりの幸せを願ってくれた。
だが、俺たちの願いも虚しく、梅雨明け間近となった7月初旬、予定どおりに弘晃が紫乃を振った。
俺がそのことを知ったのは、その翌日。泣きながら家に帰ってきた紫乃を見て逆上した社長が、佐々木秘書室長の制止を振り切って、「ぶっ潰してやる!」と中村の社長に電話で宣言した後だった




