月を仰ぎて花を愛ず 6
翌日。どうしても気になった俺は、思い切って中村家を訪ねることにした。
行きがけに買った花束と煎餅の詰め合わせの入った紙袋を手に呼び鈴を押し、インターフォンに向かって、緊張しながら「昨日、弘晃のことで電話をさせもらった六条社長の秘書だ」と告げる。門前払いを食らうことも覚悟していたが、応対の声は丁寧で、さして待つこともなく、外の世界を拒絶するかような大きくて頑丈そうな門扉の脇にある小さな潜戸から、小柄で上品そうな女性が出てきた。初対面の挨拶と共に、彼女は中村夫人だと名乗った。ということは、彼女が、昨日の俺からの電話に出た弘晃の母親だということになる。
「昨日は、やぶから棒に大変失礼なことを申しまして、本当に申し訳ございませんでした」
「いえ、どうか、お気になさらないでください。こちらこそ、余計なことをしてしまったのではないでしょうか」
「いえいえ。昨日は教えていただいて本当に助かりましたの。もう少しで、警察に捜索願いを出すところでしたから」
「まさか……」
「本当ですのよ。なにせ、これまで弘晃が独りで外に出るということがなかったものですから、家中の者が動転してしまって……」
冗談とも本気ともとれることを言いながら中村夫人が俺を門の内側に招きいれ、玄関まで続く石畳の上を先に立って歩いていく。
「それで、あの……息子さんのお加減はいかがでしょうか」
俺は、中村夫人の背中に向かって、1番気になっていたことをたずねた。
「少し熱がありますけど大丈夫です。本当にごめんなさいね。弘晃には、大騒ぎしすぎだって怒られてしまいましたわ」
「弘晃さまは、その何十倍も叱られていましたけどね」
夫人の照れたような笑い声に、機嫌の悪そうな若い男の声が重なった。声がしたほうを見れば、玄関先に、昨日弘晃を迎えに来た運転手が立っている。庭掃除の最中でもあったのか、くたびれたTシャツにジーンズというラフな格好である。軍手をした手には竹の熊手を持ち、髪の毛には葉っぱを一枚くっつけていた。
「こちらへどうぞ。弘晃さまが、お会いになりたがっています」
ぶっきら棒な口調で告げると、運転手は、さっさと靴を脱いで家の中に入っていった。俺は、夫人にお見舞いの花束と煎餅を差し出すと、慌てて運転手の後を追った。「すぐに、お茶をお持ちしますね」という夫人の明るい声が後ろから追いかけてくる。
「今日は、六条社長の指図でいらしたんですか?」
「いいえ、社長には、まだ何も話していません」
運転手からのつっけんどんな質問に、俺は慎重に言葉を選んだ。運転手は俺の返事には無反応のまま、歩調を速めた。てっきり、そのまま大人が5人ほど並んで歩けるほど広い廊下のほうへ進むものだとばかり思ったが、彼は、その広い廊下の手前で左に曲がり、細い廊下へと入っていった。そして、台所の横を通り過ぎ、納戸らしき部屋の前では、いったん立ち止まって、どうやら持て余していたらしい熊手と軍手を放り込んだ。それから、住み込みの従業員が暮らす部屋らしきエリアを抜け、更に屋敷の奥へ奥へ……と進んでいく。
(……なんか、おかしくないか?)
この屋敷の作りから察するに、玄関の近くにあった大きな廊下を進んだ先が主人がいるべき場所で、このあたりは、いわゆる裏方が活動する場所なのではないだろうか。こんなところに、本当に中村の御曹司がいるのだろうか。
(まさか、このまま進むと屋敷の裏口に出てしまうとか、弘晃の秘密を守るために、人気のない部屋に連れ込んで、俺を消すつもりとか……)
縁起でもない考えが頭をもたげる。もしかして、逃げたほうがいいのだろうか。臆病風に吹かれた俺の足が止まりかける直前、ある角を曲がった先に、それこそ唐突に、両側に扉が並ぶ広い廊下が現れた。扉は、左右3枚ずつ。左側の一番奥まった部屋が一番大きい部屋のようで、間隔から察するに他の部屋より倍以上の大きさがありそうだ。不思議なのは、その大部屋の扉の前の空間である。左側と対象にするなら、右側にも同じ大きさの大部屋がありそうなものだが、なぜか、扉の前にあるべき部屋の廊下側の壁を取り払ったかのように部屋ひとつ分の空間がぽっかりと空いている。灯かり取りの窓もなくただ三方を壁で囲まれただけのその場所には、なんとも言えない違和感があった。
「変な作りでしょう?」
俺の気持ちを察したかのように、運転手が言った。どうして、こんな変な作りなのかまでは、説明するつもりはないらしい。おまけに、機嫌が相当悪いらしく、彼の目つきがとても怖い。
「葛笠さん」
「は、はい」
「弘晃さまは、昨日あのようなことがあったばかりなので、非常にお疲れです。熱も37度8分ほどあります。お話は、どうか手短にお願いします。それから……」
「坂口」
ドアの内側から、苦笑を含んだ声が聞こえた。
「やめなさい。お客さまに対して失礼だよ」
「ですが、弘晃さま」
坂口と呼ばれた運転手が反論しながら扉を開けた。 部屋の内側から扉の外へ向けて、涼やかな風が吹き抜けていく。
坂口に促されて入った部屋は、広くはあったが、中村財閥の御曹司が使っている部屋にしては手狭に思えた。狭いというよりも、全体的に物が多い。扉を入って左側は書斎めいていて、壁一杯に作りつけられた本棚には、本が隙間なく詰め込まれており、本棚の前には、大きめの木製の机と装飾性よりも実用性を重視したと思われる電気スタンドが置かれている。部屋の右半分の大半を占めるのは、大きなベットだ。ベットの側には病院で使うような片側だけに足のある可動式のテーブルが置かれ。テーブルの上には、山積みの書類が乗せられたままになっている。窓際の腰高の棚の上には、電話やポット、それに薬の袋や体温計といった生活感が漂う細々とした品々が雑然と置かれている。
(こういう部屋、どこかで見たことがあるような?)
俺が、珍しげに部屋の中を見回していると、壁に沿って行儀良く並べられている数脚の椅子のうちの1脚を、坂口が、ベットの上で体を起こした弘晃に対峙するように置いてくれた。
(あ、そうか。昔の俺の下宿だ)
俺が大学生の頃から六条家に移るまで暮らしていた部屋は、ひと部屋しかなく手狭であったがゆえに、寝室と書斎と応接間を兼ねていた。友達の部屋もそうだった。訪問した際には、まずベットの上に散らかった本をどかして座る場所を作らなければならなかったものである。
この屋敷には沢山の部屋がある。それなのに、この部屋には、この部屋の中だけで大概の用事が足りるように、必要なもの全てが詰め込まれているようだ。そのほうが、体の自由があまりきかない弘晃には都合が良いからだろう。そう思ったら、なんだか物悲しい気分になった。
「こんな所でお話することになってしまって、すみません」
俺に椅子を勧めながら弘晃が謝った。
「家の者たちが、ここから動くことを許してくれなくて」
「昨日あんな無理をなさったんだから、当たり前です」
坂口は、主にも恐かった。それでも、ぎこちないながらも甲斐甲斐しく弘晃の背中にクッションをあてがっている坂口を見れば、彼が弘晃のことを心配して言っていることは充分に伝わってくる、
「悪かったと思っているよ。これからは、ちゃんと壮太(坂口と一緒に弘晃を迎えに来た若い主治医のことらしい)の許可も取るし、坂口に送ってもらうようにするから」
「それから、『5時間以内に戻ってくる』、です」
坂口が、恐い顔で条件を追加する。「……っていうか、まだ懲りもせずに外にお出かけになるつもりなんですか。結婚なさる気もないっていうのに、どうしてそこまでなさるんですか」
(え、結婚する気がない?)
「だって、これじゃあ、無理でしょう?」
目を丸くした俺に、弘晃は、来客があってもベッドから出られない自分自身を示して、自嘲気味の笑みを浮かべた。
「そんなに?」
「あと3年の命と言われています」
俺の遠慮がちであいまいな質問に、弘晃がやけにはっきりとした答えをくれる。その言葉に息を呑んだ俺を見て、彼は「もっとも、生まれた時から、ずっとそう言われ続けているんですけどね」と、なんでもないことのように笑いながら補足説明を入れた。
「お、脅かさないでくださいよ」
「脅かしてません。そう言われるぐらい、お体が弱いってことです」
坂口が俺を睨み、弘晃が申し訳なさそうにうなずいた。
「これまで死なずにすんでいるのは、ひとえに、ここにいる坂口や周りの者たちのおかげなんです。そんな奴が結婚なんて、とても無理でしょう。紫乃さんを不幸にするだけです。もう少しはっきりと事情を説明して見合いをお断りできればよかったんですけど、見合いは単なる口実で、本当は僕の正体を探るのが目的というのならば困るなあ……と」
「そうでしょうね」
俺は、相手の事情を察するようにうなずいた。弘晃の正体を知りたい者は大勢いる。中村本家が疑心暗鬼になるのも無理はない。
「六条さんが正体不明の男と娘さんとの縁談を本気でまとめてくれようと思っているなんて、始めは信じていませんでした。それで、僕自身が紫乃さんにも会ってみたかったこともあり、様子見がてらに見合いをしたら、困ったことに、彼女が心配で目を離せなくなってしまった」
弘晃が、心底困り果てているように、深いため息をついた。
「へ?」
俺はひとつしかない目を細めた。心配で紫乃から目が離せない?
「だって、おかしいでしょう。あの紫乃さんが、親の言いなりになって、自分の望まない結婚を積極的にしようとするだなんて、まったく彼女らしくない。絶対に、ありえません。必ずや何か……しかも、危なっかしいことを企んでいるに違いない」
怪訝な顔をする俺を捕まえて、弘晃が力説を始めた。
――― ですから、あと少し。ほんのしばらくの間だけ、特に紫乃さんには秘密にしておいてください。もう少ししたら、僕は速やかに紫乃さんにフラれます。ですから、それまで、このまま、紫乃さんとの交際を続けさせてください ―――
「そう、中村さんが言ったの?」
「ええ」
その夜。俺は、昨日から今日の出来事を、包み隠さずに和臣に報告した。
中村家との縁組に自分たちなりの思惑があるらしい社長たちに、弘晃から聞かされたことを話すのはためらわれた。だけども、弘晃が打ち明けてくれたことは、紫乃の身内でもない俺ひとりの胸に収めておくには重すぎたのだ。その点、和臣ならば、秘密を守ってくれだろうし、なによりも紫乃の幸せのことを考えてくれると思った。
「しばらくっていうのは、姉さんの企みを暴くまでってことだよね?」
「誰でもいいから結婚しようとしている紫乃さまの本意を探り出し、必要とあれば、その心得違いを改めさせるまで……だそうです。中村さまは、紫乃さまの幸せを願っていらっしゃいます」
俺は、忠実な伝書鳩のように弘晃の意向を伝えた。
「それから、もしも、自分が紫乃さまが結婚したい理由に納得でき、中村さまの事情を話した上で紫乃さまが自分を名ばかりの夫とすることに依存がなければ、紫乃さまを妻として迎えたいともおっしゃってました」
「なんとも、まあ、姉さんにばかり都合の良すぎる話だな」
和臣は腕を組むと眉間にくっきりと縦皺を寄せ、「うーん」と唸りながら天井を睨んだ。
「中村さんは、どうしてそこまで姉さんに良くしてくれるんだろう。姉さんに2回会ったきりの中村さんが、姉さんの何を知っているっていうんだろう」
「妬いている場合ですか」
「違うよ。単に気になるだけだって」
俺が突っ込むと、和臣がムッとした顔をした。普段はポーカーフェイスを気取っている和臣だが、打ち解けてみれば結構わかりやすい奴であった。彼をからかうことは、近頃の俺の密かな楽しみとなっている。俺は、笑いを堪えながら話を続けた。
「紫乃さまのことを前から知っていた可能性は充分ありますね。なにせ、中村家は、お嬢さまたちが通われている学校の裏手にありますから」
そこは中高一貫の、いわゆる『お嬢さま学校』で、和臣が通っている大学附属の男子校の系列校でもある。紫乃は、今年の春に、その学校を卒業していた。
「姉さんは態度が大きいから、無駄に目立って、隣に住む病弱な青年にまで評判が届いた……そんなところかな」
独り言のように呟いた和臣は、しばらく考え込んだあと、「そういうことなら、姉さんのことは、中村さんに任せよう」と決断した。俺も、喜んで彼の決定を受け入れた。
だが、それほど日を置かないうちに、俺たちは、俺たちの判断が甘かったことを痛感することになる。
その後、弘晃が会いに来るたびに不満たらたらで彼と出かけていく紫乃は、日に日に可愛らしく、そして綺麗になっていった。それは、誰の目からみても明らかで、『お嬢さまは、弘晃さまに恋していらっしゃる』と、見合いからひと月も経たないうちに屋敷中の使用人たちが大っぴらに噂するようになった。
どうせ紫乃は弘晃を嫌っているから、彼にフラれようが喧嘩別れしようが、後腐れなく破談になるはずだった。それなのに、まさか紫乃が弘晃に惹かれてしまうとは……
想定外の成り行きに(というよりも自分たちが未熟だっただけである。何年も経ってから、このことを紅子に話したら、紫乃が弘晃に気があったことなんか、最初の最初にわかっていたことではないかと馬鹿にされた)に、俺たちは、おたついていた。




