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OVER THE LEFT !  ~あるいは、ある親バカ社長秘書の備忘録~  作者: 風花てい(koharu)
月を仰ぎて花を愛ず
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月を仰ぎて花を愛ず 5

 六条家の屋敷は大きいが、その敷地は更に広大である。


 敷地の外側から見えるのは木々ばかり。時には公園と間違えて私道に入り込む者がいるほど、緑の陰が濃い。公道から六条家の門前までは、敷地の境界線に沿ってゆるりと内側に向かう坂道を歩いて15分ほどかかるが、その坂道も、もちろん六条家の所有である。


 俺が、道端にうずくまっている中村弘晃を見つけたのは、その坂の途中であった。具合でも悪いのか。それとも、道端から飛び出した狸かイタチにでもぶつかったのだろうか。あるいは、この若者自身が狸が化けたものかもしれないが、とにかく放っておくわけにもいかない。俺は、運転していた車の窓を開けると、彼に声を掛けた。


「大丈夫ですか?」

「ええ、なんとか」

 俺の声に気が付いた中村弘晃は、弱々しく笑いながら立ち上がると、車に近寄ってきた。


「六条家というのは、この坂の上でいいのですよね?」

 中村弘晃が、坂の上方に目を向ける。俺がうなずくと、彼は、「そうですか、教えてくれてありがとうございます」と、礼儀正しく頭を下げ、再び上を目指して歩き始めた。だが、彼の足取りは非常に心もとなく、心配した俺は、車を彼の歩く速度に合わせると、もう一度、声を掛けた。


「失礼ですが、どこか具合でも悪いのではないですか?」

「いいえ。今日は、かなり良いほうです」

 額の汗を拭きながら、中村弘晃が微笑んだ。 


「ですが、これだけの坂道を登ったのは初めてなので、いささか慣れません」

「いささか……って」

 いささかどころか、弘晃は全く坂道に慣れていないようだった。とはいえ、『坂道を登ったことがない』というのは、どういうことなのだろう。中村本家は、麻布の、紅子たちが通っている学校のすぐ裏手にある。あの辺りは、ここ以上に長くて勾配のきつい坂道だらけだ。あそこで暮らしていて、どうやったら坂と無縁の生活が送れるのだろうか。


 それでも、俺には、彼が嘘や誇張を言っているようには思えなかった。嘘かどうかを疑うまでもなく、目の前にいる男は、本当に坂道が不得意なようにしか見えなかったからだ。このまま俺が彼を見過ごしてしまったら、彼は、慣れない坂道を登ったがために六条家の門前にたどり着く前に行き倒れるかもしれない……と、そんな気さえするのである。


「よろしければ、乗っていきませんか。屋敷の玄関までは、まだ、かなりありますから」

 俺は、弘晃に誘いかけた。

「ありがとう、葛笠さん。助かります」

 彼は、砂漠で水を恵んでもらったかのように感謝に満ちた眼差しを俺に向けると、車の後部座席に乗り込んできた。


 俺はといえば、初対面であるはずの弘晃からいきなり名前を呼ばれたことに驚いていた。

「私のことを、ご存知なんですか?」

 俺がたずねると、弘晃は、「一度、お会いしてみたかったんです」と、人懐っこそうに笑った。


「私に?」

「ええ。僕に興味を持っていただいているようなので、どんな方なのだろうと思っていました」

「……」

 俺が彼のことを調べまわっていたことは、彼の耳にも、ちゃんと届いているらしい。

「す、すみませんでした」

 うろたえる俺に、弘晃は、「いえいえ。正体を隠しているこちらも悪いんです」と、愛想良く首を振り、「それに、それだけじゃないんです」と言った。


「それだけじゃないというのは、私の名前を知っている理由ですか?」

「ええ。昨年度のうちの会社の採用試験を何度も受けようとしてくださったでしょう。どうしてあなたを採らなかったんだろうって、今頃になって、うちの人事部長が悔しがっていましたよ。六条社長は、さすがに人を見る目がありますね」

「……。その人事部長さんは、良識がおありだっただけだと思います」

 俺は、顔を赤らめながら、車を発進させた。普通の人間なら、うっとうしい前髪で顔の半分が隠れた写真を履歴書に貼り付けてくるような者を会社に入れる気になるはずがない。自分のことでありながら、今となっては、あの時の自分の非常識ぶりが自分でも理解できない。思い出すだけでも恥ずかしい。


「そういえば、学生時代とは随分と雰囲気が変わられたんですね。今のほうが、ずっといいですね」

 過去を抹消したいと思いつめていた俺に、弘晃が無邪気な顔で追い討ちをかける。

「あの写真…… 見ちゃったんですか?」

 俺は、うめき声を上げた。


「もちろん。せっかくいただいた履歴書ですから」

「でも、そちらに出したのは2年ぐらい前です。それに、あなたが読むようなものでもないでしょう」


 中村物産は経営不安を抱えているとはいえ、学生に人気のある企業だから、入社希望者は毎年相当な数にのぼる。弘晃が中村物産の事実上のトップだという噂が本当だとしたら、採用希望者の、しかも不採用になった学生の履歴書なんぞを読む機会などないはずだ。うちの社長にしても、自分の趣味で行っている採用以外は、全て人事部に任せきりである。

 それを何でわざわざ今頃になってから、過去の履歴書を倉庫の奥から引っ張りだして見るようなことをするのだ。そう言って俺が抗議すると、「引っ張りだしてなんかいませんよ」と弘晃が首を振った。


「2年前に見たきりです。葛笠さんの履歴書に限らず、いただいた履歴書には、全て目を通しています」

「嘘でしょう?!」

 失礼を省みず、俺は、思わず声を上げた。


「本当ですよ。採用を決めるのは人事に一任していますし、僕が余計な口出しをすべきではないと思うので、事後報告ですけどね。でも、どういう方が、うちの会社に興味をもってくださっているか気になるじゃないですか」

 なんでもないことであるかのように言って、弘晃が笑う。

「一度目を通しただけの履歴書のことを覚えていたというんですか?」

「もちろん、全部覚えているなんてことはありません。でも、葛笠さんのは印象に残ってますよ」

「ああ、あの酷い写真で……」

「違いますよ。葛笠さんは、うちの子会社のほうにも、幾つもエントリーしてくださっていたでしょう。うちの会社を好いていただけているようで、僕としては嬉しかったです」

「『嬉しかった』って……」

「本当ですよ。でも、履歴書は沢山出せば良いというものではないらしいですね。僕は嬉しかったけれども、うちの人事部長は、そういうのは嫌いだそうです。彼曰く、『中村物産の傘下なら、どこでもいいというだけだろう』と……」

「ああ、はい。部長さんのおっしゃったとおりです。どうも、すみませんでしたっ」

 図星を指されてうろたえた俺は、言い繕うことも忘れて、素直に謝った。さすがは天下の中村物産。ただ『中村物産』という名前だけに惹かれて、その子会社にまで片っ端から履歴書を出したことまで、全部バレていた。

 

 とはいえ、どうしようもない恥ずかしさを感じながらも、俺は、弘晃氏が、ずっと前から俺のことを何となくではあるが知っていたらしいことに、不思議な感慨を覚えていた。なんだか、彼とは今日が初対面である気がしない。

 もう少し彼と話を続けたかった。でも、ここまでである。名残惜しく思いながらも、俺は、六条家の玄関前でゆっくりとブレーキを踏んだ。坂を登りきったところにある門前のインターホンで知らせてあったので、執事が弘晃を迎えに出てきていた。


 弘晃は俺に礼を言うと、車を降りた。車に乗り込む前よりは回復したようだが、執事と話す彼の背中は、まだまだ、お疲れ気味のようである。

(大丈夫なのかな? いや、それより……)

 弘晃は、あれだけ感じの良い人で、しかも、優秀であるようだ。くだらなくて怪しい噂など、実際の弘晃を見せれば、あっという間に払拭できるはずである。それにもかかわらずい、関係者は、弘晃を表に出すことなく、それらの噂を流れるに任せている。


 あれらの噂は、本当に無責任に流れているだけなのだろうか?


(実は、精査するのも馬鹿馬鹿しい噂の一部に、本当のことが紛れ込んでいるとしたら?)


 どうしても表沙汰にはしたくない真実を隠すために、誰かが意図的に噂をコントロールしようとしているのだとしたら。くだらない噂に紛れ込ませてしまうことで、中村物産が隠そうとしている真実があるとすれば、それはなんだろう。

 

 中村弘晃と直接に話をしたことで、調査中だった頃には俺を混乱させるばかりだった彼に関する情報の数々が、俺の中で、ひとつの答えとしてまとまり始めていた。


「中村さん。ひとつだけ教えていただけますか」

 俺は、車から飛び出すと、執事に連れられて家の中に入ろうとする弘晃を呼び止めた。

「なんでしょう」

 振り向いた弘晃が温和な微笑みで応じる。

「枕元か、あるいは毎晩一緒に眠っているぬいぐるみって、ありますか」

「ぬいぐるみですか」

 弘晃がきょとんとした顔をした。隣にいた執事のほうは、俺の気が触れたと思ったらしい。目を大きく見開いたまま固まっている。 

 弘晃は、大真面目な顔でふざけた質問をする俺に、なにかを感じてくれたようだ。なんとも表現し難い笑顔を俺に向けると、「いいえ。ぬいぐるみを抱いて眠ったことはありません」と答えた。


「それが、何か」

「いいえ。おかしなことを訊いて、すみませんでした」

 自分の推測が正しいことを確信しながら、俺は深く頭を下げた。



 弘晃がやってきた時、紫乃はまだ帰宅していなかった。

 その代わりと言ってはなんだが、彼は、彼女の妹たちから大歓迎を受けた。紫乃の母も、普段の彼女にはありえないほど舞い上がっていた。『お茶だ』『お菓子だ』、『それより、紫乃は、まだ帰らぬか』と、台所と応接間の間を飛び回っている。しばらくしてから戻ってきた紫乃は、『あの男、なんだって、こんなところにまで』と憎々しげに呟くと、これから婚約者になるかもしれない男に対するとは思えないほど怖い顔をして、弘晃が待つ応接間に入っていった。


 彼が単独でこの家にやって来てから、そろそろ2時間が経とうとしていた。時間が経つにつれ、俺は、だんだん落ち着かなくなってきた。

「葛笠さん。会社に帰らなくてもいいの。お父さまに叱られない?」

 六条家での用事を済ませてもグズグズしている俺を紅子が心配する。


「叱られるかもしれませんね。ところで、弘晃さんって、ここには独りでいらしたんでしょうか」

「タクシーで来たって言っていたから、そうなんじゃないの。でも、坂の下で降りたのは大失敗だったわよね。あそこからだと、随分距離があるもの」

「弘晃さんは、黙って家を出てきちゃったんでしょうか。お家の人は知っているのかな」

 呑気な顔で答える紅子に、俺は、落ち着きなく質問を重ねる。紅子は俺に向かって目を瞠ると、コロコロと笑い出した。

「変な葛笠さん。弘晃さんは3歳の子供じゃないのよ。勝手に家を出てきたって、お家の方は心配なんかしやしないでしょう?」

「そうかもしれませんけど……」

 俺は、紫乃と弘晃が話をしている応接間のある方角に目を向けた。普通なら、そうだ。大の男が日中に外出したとことで、誰も心配なんてしやしない。それでも、俺の推測が正しければ、中村家は、今頃大騒ぎになっているかもしれない。


(やはり知らせておいたほうがいいかな)

 電話をしてみて、先方が心配していないようだとわかれば、適当に誤魔化して電話を切れば良いだけのことだ。上手くいけば、俺の推測の裏づけも取れるかもしれない。そう思った俺は、中村家に電話をかけることにした。 


 呼び出し音が鳴るか鳴らないかのうちに電話に出たのは、弘晃の母親だと思われた。『葛笠』とだけ名乗った俺が『中村弘晃』の名前を出した途端に、彼女は、悲鳴のような声をあげた。


『弘晃は無事なんですかっ。お願いしますっ。声を。声を聞かせてください!』

 一瞬だけだが、俺は自分が誘拐犯になったような気がした。


「……。安心してください、弘晃さんは、ご無事です」

 彼女が興奮しているようなので、詳しい事情が説明できないまま、俺は話を続けた。 


「声は……、今は、ここにはいないので、ちょっと無理なんですけど……」

『今はいないって……、ああ。ひょっとして、どこかに倒れていたのを運んでくださったのでしょうか。ご親切にありがとうございます。ご迷惑をおかけしてしまって申し訳ありません。すぐに引き取りに参ります。どこの病院にうかがえばよろしいでしょうか』

 気が急いているのか、俺が聞き出すまでもなく、彼女は一人合点して、どんどん話を進めていく。


「奥さま、こちらは病院ではありません」

 俺は言った。 

「六条家です。わたくしは社長の秘書の葛笠と申します。弘晃さまが、紫乃さまに会うために、お独りでおみえになられたのですが、もしや内緒で出てこられたのではないかと思いましたので、余計なことかと思いましたが連絡させていただきました」

『ま…………まあ、六条さん、でしたの』

 彼女の声が滞った。かなり、うろたえているようである。


 とにかくこれから迎えをやる……というようなことを言いながら彼女が電話を切って間もなく、救急車のような迅速さで中村家の使用人が運転する車がやってきた。しかも、こちらに向かう道すがらに仕事中のところを引っ張ってきたのだろう、車には白衣を着た若い医者らしき男まで乗っている。


(やはり、そうか)

 離れたところから彼らを観察しながら、俺はため息をついた。


 わかってみれば、実に単純なことだったのだ。


『彼の両親は、彼が使っていた部屋のベッドに寝ている大きなクマのぬいぐるみを、弘晃と呼んで可愛がっている』等々。弘晃に関する噂に、なぜか頻繁にでてくるクマやウサギのぬいぐるみ。これらのぬいぐるみは、弘晃のことを示していただけにすぎなかったのだ。


 試しに『弘晃』という名前を、文中のぬいぐるみと置き換えてみる。


 すると、


『中村の社長は、夜毎、仕事の悩みを、クマのぬいぐるみに聞いてもらっている』は

『中村の社長は、夜毎、仕事の悩みを、弘晃に聞いてもらっている』に


『社長は、クマから教えてもらった助言を、そのまま会社の経営に生かしているらしい』は

『社長は、弘晃から教えてもらった助言を、そのまま会社の経営に生かしているらしい』へと、


 始めからデタラメだと思い込んでいた噂は、実にあっさりと普通に意味が通る文章になる。


 自分で動くことのないぬいぐるみのように、一ヶ所から……自分のベッドから動かない弘晃。中村社長は、見合いを断るために嘘などついていなかった。彼は、真実、息子の健康上の理由から、紫乃との見合いを渋っていたのだ。

 

 ただ、実質的に中村物産の屋台骨を支えている男が、深刻な健康問題を抱えている男だとライバル会社などに知られるのはまずい。だから中村としては、どれほど弘晃が優秀でも、表向きは弘晃の父親を社長ということにして、彼を世間の目から隠すしかなかった。


 だけども、どれほど慎重に隠しても、真実というのは必ず表に出てしまうものである。俺を始めとして真実の弘晃を知ろうとするものは、後を絶たなかった。中村は、噂を頼りに真相を探ろうと俺たちが追求する度に、その場その場の思いつきで、咄嗟に誤魔化しを口にしていったに違いない。そうするうちに、噂には沢山の尾ひれがついて、デタラメとしか思えない噂へと変化していった。


 いつの頃からか、中村は、それらの奇妙な噂を積極的に利用することにしたのだろう。彼らは、噂を否定することなく流れるに任せた。その結果、弘晃に関する噂は、広がれば広がるほど馬鹿馬鹿しさの度合いを増していき、中村弘晃の存在を誤魔化してしまうのに打ってつけな煙幕の役割を果たすようにまでなったのだろう。


(真相は、こんなところだろうな)

 だが、そこまでして弘晃を隠す必要があるのだろうか?


(でも、もしも、中村物産が、ほぼ弘晃一人の力で持ち堪えているとしたら?)


 弘晃がいなくなると、中村物産が一気に危機的状況に陥る恐れがあるとしたら?

 中村弘晃の生死が、そのまま中村物産の生死に直結しているとしたら?


 数ばかりが多い弘晃についての噂の中には、『余命幾ばくもない』とか、『あと3年の命』というようなものも数多く紛れ込んでいた。

「もしかして、それこそが、どうしても隠したかったこと……なのか」

 俺は、口元を手で覆いながらうめいた。





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