公務員宇原の現実世界転生
双眼鏡の倍率を上げると、向かいの建物の中の様子がよく見えました。
高そうな絨毯が敷かれた、その中心に立つ少女の顔まで。何もかもがくっきりと認識できます。
その時ひと際大きく吹いた夜風が、徹夜中の体に沁みました。私は双眼鏡から一度手を放し、全力でポケットの中のホッカイロを振る作業に移ります。夜勤はいつだって体力勝負です。
再度双眼鏡を覗き込みながら、私は用意していたあんぱんを一口かじりました。抜かりのないよう、室内の様子をつぶさに観察します。退屈そうな顔で使用人らしき人物の話を聞いているように見える少女、そして部屋にある豪勢なシャンデリア。
私が遠方から年端もいかぬ少女を観察しているのは、決して淫らな目的からではありません。これは公務なのです。一国の存亡に関わる、重大な案件。とはいえ、今のところは何もすることはなく、退屈を持て余して、私は右目の眼帯を指先で弄びます。
このまま待ち続けるのもつまらないので、私がこのような任務に従事することになった経緯でも思い出すことにしましょう。
遡ること二週間。私は上司からとある極秘情報を受け取りました。
私のIDカードと指紋認証が無ければ開かないトランクの中に入れられたパスコードをブラウザの秘匿されたURLに入力することでアクセスできるテキストデータで、更に閲覧から五分後に自動消滅する。もはやギャグに近い隠匿が施されたその情報というのは、ずばりとある災害の発生予告。
上司自ら察知したというそれの襲来は、絶対に確実。処置を打たなければ数か月後、日本は壊滅的なダメージを負うだろうということ。国民の混乱を防ぐため、この情報は“四天王”とその直属の部下数名にしか伝達されないこと。
“四天王”は私と、その同僚、研究部トップの[青山睦月]と、軍事部トップの[赤川皐月]の三名を表す言葉です。私としては、少々大袈裟な名前だと思います。いくら行政府のトップを分割して担当しているとはいえ、やっていることはほとんどただの中間管理職なのですから。基本的には上からの仕事を下に流すだけの、簡単な作業です。
その上私の部署にはメンバーが少ないので、私は形式上の書類仕事を数枚こなすだけでエリート公務員級の収入を手に入れられる、夢のスイートライフを謳歌していたのです。もうすぐ有給を申請するつもりでもいました。
それが今や、上から渡された任務のせいで、か弱い乙女の私は夜風に吹かれながら任務に勤しんでいます。私ほどの上層部が現場仕事など、本来ならばあってはならないことなのです。
更に言うと、上司は私をここへよこす際、『有給休暇を利用した慰安旅行』という名目を使わせました。言うまでもなく、これは違法。
虚しい気持ちに襲われた私は回想を一旦止め、再び双眼鏡を覗き込みました。中の様子を見るに、どうやら使用人と少女の話は片が付いたようです。
すると建物の二階部分、そのガラス窓に見知った影が立っているのが確認できました。
白と黒を基調にした、極端に露出の低い服を着た女性。建物内にいる人間とは違って、彼女は私の方を真っ直ぐと向いていました。それから、口元に手を当てて咳払いをするようなしぐさを一つします。
私はそれを認識すると、ワイヤレスマイクを取り出しました。あれは、作戦決行が近いというサインです。
チャンネルを定めて、こちらから声を掛けます。
「はい美那子、首尾は?」
『段取りが進行中です。間もなく“プリンセス”は目標の地点、部屋中央の椅子に向かい始めます』
「はいはい、歩き始めたら窓お願いしますね」
私が会話しているのは、向かいにいるメイド服を着た彼女です。名は[灰原美那子]。
今回の任務にあたって、私のサポートをしてくれる忠実な部下です。今回彼女には、前もってメイドとして例の建物に潜入してもらっていました。
連絡を中断した私は、いよいよ計画が佳境に入っていることを認識して、自分の服装を確認します。オーダーメイドの黒いスーツにお気に入りの灰色のネクタイ、そして左胸には黄色く輝く三日月のバッジ。
本来はこのような浮いた格好はしない方が良いのですが、公務員として任務中には可能な限り正装をしていたいという私のプライドです。ここは使われていない見張り塔の最上部なので見つかる心配はないでしょうが、この格好、特に三日月バッジは万が一見つかれば面倒なことになることは必至でしょう。
何せこれは日本政府の象徴であり、この場所の人間は妙な名前を付けて忌み嫌っているのですから。確かそう、“魔族のイコン”と。
服装の確認を終えた私は傍らに置いていたスーツケースを手繰り寄せ、その中身を取り出します。入っているのは、黒いスポンジで保護された、これまた黒く塗られた細長い部品。
それら全てに歪みなどがないことを確認した私は、手早く組み立てを始めます。完成するのは、一丁のスナイパーライフル。
私の愛銃で、一点物の高級品です。
『窓を開けます』
「了解」
通信を終え、両手に伝わる商売道具の頼もしい重量を確認した後、私は右目に着けていた眼帯を取り払いました。
──まるで自分が異なる存在への転化を果たしたかのように、先ほどまでとは見る景色が異なっていた。自分の神経が、周囲の闇の全てを覆っているかのような感覚。視覚、聴覚、触覚、その全てが過敏なまでに研ぎ澄まされている。
私は眼帯を外すことで、自らの意識のスイッチを切り替えることが出来た。これは生まれつき手にした、ちょっとした“能力”のようなものだ。普通では認識し得ない物を認識する力、それらの情報を処理するための思考能力。それを使って、私はこの特別な任務を果たす。
スコープを覗き込めば、緑色の髪をした少女の顔が現れる。
建物にいる少女の名は、[レディコ・ナ・ムリア]。この国、大陸の中央部に存在する[ヒース王国]の王権を担っている人間の娘、つまり王女の一人だ。三女である彼女は、その人懐っこい人柄と、十二歳にして宮廷の魔術師にも引けを取らない魔術の才能で、国民からの信頼は篤いという。
そんな彼女が、私の任務とどのように関わっているのか。それは、例の災害が関係している。
大陸と実質的な戦争状態にある、我が国日本。地理的な問題から、長らく双方の間で衝突が起こることは無かったが、その事情が変わった。私達の敵は、日本を潰そうと災害を“呼び出した”のだ。
その災害の名は、“勇者”。異世界から召喚されたその存在は、圧倒的な力を持ち、いずれ日本に攻めてくる。情報によれば“勇者”は、偶然にも我々日本人と同じような名前と姿かたちを持っているというが、その異質すぎる力は、私達を滅ぼすためだけに振るわれる。
『奴が日本に上陸した時点で、我々の敗北は決まっている。“勇者”の力を持つ奴を殺すことは出来ない』
上司からの情報には、災害に関する上司自身の知識、そしてそれに対して取るべき対応が記されていた。
“四天王”の全員が、その目的のためにそれぞれの任務を行っている。そして、私に与えられた任務が──
『ヒース王国第三王女が奴と接触を図ろうとしている』
私はゆっくりと重心を持ち上げ、標的に狙いを定めた。
『“勇者”の戦力を増やすわけにはならない』
眠たげな眼をこすり、椅子に座ろうとする少女の頭部──ではなく、真上に吊るされている銀のシャンデリアの鎖。閉じた窓越しに、幅五ミリほどのそれを捉える。
その後すぐに、何気ない足取りでその窓に近づいた美那子の手によって、ターゲットとの間の障害物が取り払われた。
通信機から届いた部下の言葉を認識すると同時に、私は深呼吸を始める。
一度目の呼吸で、私の視界が標的を中心に絞られる。
二度目の呼吸で、私の聴覚から雑音が消え去る。
三度目の呼吸で、周囲の風の向き、湿度を完璧に把握しきる。
最後の呼気を吐き出すのに合わせて、私はトリガーに掛けた右手の人差し指を引き──
街に真夜中を知らせる鐘が鳴り響いて、消音器に包まれた銃声を完全に掻き消した。
「任務完了しました」
『ご苦労。報酬は口座に振り込んでおく』
「……ここじゃ口座にアクセスも出来ないんですけど、この出張もう終わるんですか?」
『折角の休暇だ、楽しんで来い』
一仕事終えた部下に対して、けんもほろろな上司です。
『次は、“勇者”から依頼を受け武器を作ろうとしているドワーフの鍛冶師だ。詳しい情報は後で送る。することは分かるな?』
「はいはい、分かってますよ」
“勇者”の日本上陸を阻止するため、その協力者を暗殺すること。それも暗殺自体を悟られないよう、全て事故に偽装。それが私に与えられた使命でした。
「すごい注文付けてきますよねえ」
『そう言うな。期待しているんだぞ、“四天王”の一員としてな。黒澤』
「有難い話ですね、魔王様」
精一杯の皮肉を言って、私は通話を終了しました。
辛く厳しいこの現実世界で、私は政府の首相である魔王様にお仕えしています。
私の名前は[黒澤宇原]。日本政府の“四天王”の三番目。仕事は諜報と、ちょっとした不幸の演出。
次の任務に向かうため、私は真夜中の路地裏に踏み出しました──
──レディコの王女が死にました。シャンデリアの落下事故との事です
──彼女はヒロイン候補だったのですが。まあ、代えならいくらでも利きます
──いや、事故でしょう。周囲に魔力反応はありませんでした。これが作為的な物なら、出来るのはそれこそ……“転生”してきた者くらいですよ
──はい、そのように取り計らっておきます
──全ては貴方の、そして“勇者”の“完璧な物語”の為──




