上総介参る
ある文学賞の最終選考まで残りましたが、受賞とはなりませんでした。まだまだ修行が足りませんです。
【おい、お前。何処から来やがった。この馬の骨野郎】
【なんでぃ、てめえら。馬の骨たあ、ご挨拶だ。おいらが馬に見えっか】
【なにおっ! 威勢だけはいいじゃねえか。でもよ、ここらじゃはったりは効かねえんだ。このごん太様の縄張りじゃあよ。てめえ、名はなんという】
【それを聞いてどうすんだい】
【野ざらしは寝覚めが悪いからよ。墓ぐれえは建ててやろうかと思ってな】
【それはありがてえ話だが、生憎と墓に入るのはそっちの方だ。ま、名乗らねえでもねえがよ。おいらの名を聞いたら最後、尻尾を巻いて逃げ出すのはそっちだ。後悔しても始まらねえよ】
「おい、上総介。なにさっきから野良犬なんかとにらめっこしてんでぃ。さっさと行くぜ」
【あ、こいつおいらの名をしゃべっちまいやがった。だから三下は当てにならねえってんだ。これが青山の若様ならなあ。おいらのことはちゃんと承知していなさるってぇのによお】
「なんだお前、不服そうな顔じゃねえか。お前なんぞといつまでも付き合っちゃあいられねえんだ。こっちとら忙しい身なんだからよ」
勘助は上総介の首縄を強く引いた。上総介は仕方なく勘助に着いて行く。振り向き様に野良犬たちに捨て台詞。
【今度逢ったら、ちゃんとケリをつけてやっからな】
【ちっ。強がりもほどほどにしときな。行くぜ】
ごん太は仲間に言って立ち去った。
上総介は柴犬である。生まれは名の通り上総で拾われた。捨て犬が運よく旗本青山家の飼われものとなっている。今は青山家の使用人勘助に日に一度の市中見回り、つまりは散歩の最中だ。そこで、この辺りを縄張りとする野良犬の親分ごん太とバッタリ出くわしたという訳である。
【おっと。ただの犬で終わらせるのはやめてくんな。おいらにはそんじょそこらの駄犬たぁ違う、霊力が備わっているんで。その力でこれまで幾つもの捕り物を解決したんだぜ。神犬たぁつまりおいらのことさあね。それにしても、まったくよ。なんでこんな下っ端と付き合わなくちゃならねえんだ。青山の若様はどうしていなさるってんだ。今頃はきっとおいらの行方を捜していなさるに違ぇねえさ】
上総介の毒舌は勘助に聞こえない。上総介の言葉がわかるのは若様こと青山定之だけである。
その定之。義理の父である青山幸嵩より呼び出しを受けていた。
「そなたもそろそろ落ち着かねばならんな」
「嫁ですか」
幸嵩は頷いた。
「そなたは忠之殿と違って騒がしいものが好みのようじゃ」
「そういう訳では御座いませぬが、ただ兄の手助けを出来ればと思うだけに御座います」
「忠之殿は与力じゃ。盗みを働く者を捕らえるのが勤め。じゃが、そなたまで捕り物をすることはあるまい」
「私とて捕り物をしている訳では」
義父は苦笑した。
「そなたにそのつもりがなくとも、これまでの結果を見れば、みなが要らぬ期待を寄せんとも限らん。もうこれまでにするのだな」
「はあ」
定之は曖昧に答えて頭を掻いた。
「正幸も少々見誤ったようじゃ。利発なそなたを青山の養子にとは、わしに配慮してのことであったが、あまり利発過ぎるのもちと考え物じゃな」
「申し訳ありません」
「そなたが謝ることはない。あれは我が弟ながらよく出来た男だ。思えば、そなたも正幸も、みな弟の方が賢いの」
それに定之は首を横に振って、
「父には時折叱られてございます。分を弁えよと」
「そうであったか。……人にはそれぞれ持って生まれた天賦というものがある。それを徒に閉ざす必要はない。能ある鷹は爪を隠すという諺もある。よく先を見極めて己が才を磨くがよい」
「はい。承知致しました」
「縁談の件は進めてもよいな」
「義父上のご配慮に否応のある筈も御座いませぬが、今しばらくの猶予は御座いますでしょうか」
定之は頭を下げた。それに幸嵩は暫し考える風であったが、ひとり頷くと口を開いた。
「わかった。そなたにいささかの未練があれば、嫁がれる方にも気の毒であろう。今少しそなたが思うままに過ごしてみるがよい。じゃが、いつまでもとは許さん。待って三月じゃな。それまでに心残りのないようにけじめをつけるのじゃ。無論、早いに越したことはない。一日も早う孫の顔が見たいからの」
最後は穏やかに笑って腰を上げた。
その頃、上総介は勘助に引かれて土手を歩いていた。
【おい、勘助。どこまで行くんだ】
上総介の言葉がわからない勘助は当然知らん顔だ。なんと勘助は吉原まで足をのばしていた。
「くそっ。懐が寂しいや」
勘助は恨めしそうに大門の向こうを見つめている。
【なんでぃ、ひやかしの見物だけかよ。なんならおいらが引っ張っていってやろうか】
「お、おい、やめろよ。なんだい急に」
慌てて勘助は上総介の首縄を引き戻す。
「ここはな、おあしがなけりゃどうしようもねえところなんだぜ」
何故か勘助は小声だ。
「ひょっとしておめえも恋しいか。ま、男なら誰しも同じだけどな」
【けっ、てめえなんぞと一緒にするなぃ】
上総介は軽く唸った。
「なんでぃ、おっかねえじゃねえか」
勘助は驚き顔だ。しかし、それも束の間で、また大門の内を物欲しそうな目で眺めている。だが、いつまでもそうしてはおられぬと悟ったか、漸く踵を返してとぼとぼ歩き始めた。いったい何をしにきたのか。
「上総介。おめえ、この事は若様にはくれぐれも内緒だぜ。どうもおめえと若様は話が通じるようだからな」
【なんでぃ、気付いてるのか?】
上総介はぶるっとからだを震わせた。
そのとき、大門の中では事件が起きていた。
数ある廓の中でも吉原を代表する大見世西浦屋の奥、普段は人の出入りの少ない行灯部屋で騒ぎは起きた。
最初に見つけたのは西浦屋の若い者である。昼見世と夜見世との間は吉原が一息吐く時間帯となる。昼食を終えて中庭で人待ちしていると、なにやら叫び声が聞こえた。声の方へ駆けつけると、女が倒れている。
「どうした! 大丈夫けぇ!」
若い者が大声を張り上げて抱き起こすと女は一瞬目を開け行灯部屋を指差して「姉さんが、姉さんが中に」と告げてまた気を失った。今程の若い者の大声に気付いた他の使用人たちが集まって来た。それには構わず、若い者は女を寝かせて行灯部屋に近付き戸に耳をつけた。しかし、物音ひとつしない。戸を開けようとしたが、中でつっかい棒でもしているのか固く動かない。仕方なく戸に体当たりしたが、またこれが頑丈でビクともしない。ぶち当たる肩の痺れも気にせず何度か体当たりした甲斐あって、漸く戸が内側に倒れた。勢い若い者もろ共中へ倒れ込む。手ひどく体を打ちつけた若い者が起き上がろうとすると、自分の顔に当るものがある。何かと見上げれば、それは冷たくなった女の足だった。直後に野次馬の輪から悲鳴が上がった。
【おい。なんだか急に後ろが騒がしくなってねえか】
上総介は遠ざかる大門の中を気にして振り向いた。
【おい、勘助。何かあったぜ】
立ち止まる上総介。
「どうしたい。立ち止まるんじゃねえぜ。未練たらしく見られるじゃねえかよ」
勘助は上総介を叱りながら、やはり未練があるようで横目でちらりとまた大門を見やった。すると大門の内側が騒々しい。左手の面番所から同心と岡っ引きらしき二人連れが飛び出していった。
「何とも痛ましいもんでやすね。いかに苦界にあるとはいえ、あの若さで首吊りなんざ。涙が止まりやせん」
勘助は洟を啜り上げた。吉原での出来事を定之に報告しているのである。
「誠にその者は自殺であったのか?」
「違ぇねえと思いやすぜ。なんつったって、行灯部屋の中からつっかい棒がされてたってんですから。誰もへぇれやせん」
「今月は北町が月番であった筈だ。兄上の元に報告が上がるだろう」
その翌日、定之は兄榊忠之の役宅を訪れた。
「お前は相変わらず不思議な事に拘る」
兄は苦笑した。だが、その弟の拘りが幾度か兄を助けている。
「行灯部屋で首を括ったのが気に入らぬか」
「はい。死んだ遊女は吉原では最高位と言われる昼三であったそうです。吉原は階級の厳しい世界。まして苦界と称される中で女たちの支えは気位でしょう。勘助の話では行灯部屋はよく遊女の折檻に使われるそうです。それが何故、その行灯部屋で、昼三までなった女がその死に様を曝すような真似を」
「なるほど。言われてみれば、確かにそうだな。またお前の勘が当るか」
「太田さんをお貸し願えませんでしょうか」
弟の依頼に兄は笑顔で引き受けた。
太田広勝は兄忠之が最も信頼する配下の同心である。その手下には平助と文蔵という手練れがいた。
「私の我侭に着き合わせてしまい、申し訳ありません」
「遠慮など無用ですよ。青山様のお願いとなれば、何はさておき駆け付けます」
太田の言葉に平助と文蔵も大きく頷いた。一行は吉原に向かっている。
「それにしても、また犬連れですか」
「これは私の相棒なのです。ときに思わぬ手掛かりを教えてくれます」
上総介はぴんと胸を張った。
西浦屋の内所では楼主が苦りきった顔で定之たちを迎えた。
「わざわざ旦那方がお出ましになるような事じゃ。首括りはここらじゃ珍しい事じゃありませんぜ」
楼主がくわえていた煙管を煙草盆にコンと当てると、それが合図だったのか、楼主の横に控えた女房が手拭に包まれた物を差し出した。
「なんでぇ、こりゃあ」
太田は察しよくその手拭を開いた。中には小判が五枚。
「おめえさんたちに面倒はかけねえよ。ちょいと話が聞きてぇだけなんだ」
太田は小判を女房に突き返して立ち上がった。それに楼主は舌打したが、もう遅い。太田たちは妓楼の奥へ入っていく。
遊女花紫が首吊りした行灯部屋は妓楼の一番奥まった一画にあった。確かに店の者もあまり近くを通らない陰湿な雰囲気が漂う場所だ。稼ぎが悪かったり仮病を頻繁に使う遊女を見せしめに折檻することもあり、ましてや今回の首吊り騒ぎもあって、一層そんな目で見てしまう。
太田は若い者の清二と新造の小春を呼びつけた。清二は部屋の戸を体当たりで開けた男で、小春は花紫の妹分で行灯部屋の前で倒れていた女だ。二人を呼びにやっている間、定之は部屋の検分を始めた。
「何かありますか」
太田も中を覗いた。
「特段の物はなさそうです。あれがつっかい棒ですか」
定之は棒を持ち上げた。頑丈な丸棒である。ひょっとしたら槍の切っ先を切った柄の部分かもしれない。揚げ代を払えなかった侍から質草代わりに分捕ったものか。定之は苦笑いした。それを部屋の引き戸に宛がったらきっちりと収まった。折檻のときの戸締りに使うのだろう。これでは外から入れない。見回せば、出入り口は一箇所しかない。仮に何者かが花紫を殺して外に逃げたとしても、戸口につっかい棒は立てられない。定之はひとり唸った。そこへ清二と小春の二人がやってきた。太田が尋問を始める。それを定之は静かに、しかし、どんな表情も見落とさない注意深さで見守った。すると、女が意外な事を言った。
「わたしは何も覚えておりません」
まったくそのときの記憶がないと言う。どういうことなのか。定之は小春の目に翳りのないのを確信した。嘘を言っているのではない。そして、その横で微かな動揺を浮かべた清二の変化を見逃さなかった。尋問を続けようとする太田を制して、定之が清二に問い掛けた。
「あなたはどうしてこの行灯部屋に花紫さんがいることを知ったのですか?」
「へい。この小春の叫び声が聞こえたんで飛んでいったら、行灯部屋を指して倒れてやんした。不審に思って開けようとしましたが、開きやせん。仕方ねえから何度か体当たりして戸を倒したら、姐さんが……」
「小春さんの叫び声がどうしてあなたには聞こえたのでしょう。他の人は誰も聞いてないようです」
「たまたま中庭に出ていたんで。叫びと申しましても、ほんのひと鳴きでは他に届かなかったのも仕方ありやせん」
「どうして中庭にいたのですか?」
「ちょっと人待ちを」
清二は頭を掻いた。
「これか」
太田が小指を立てた。
「え、へえ。すみやせん」
清二は決まり悪げに頭を下げた。
「すると、小春さん以外に証人がいないことになりますか」
定之の言葉に清二はみるみる青ざめた。
「じょ、冗談は言いこなしだ。それじゃあ、まるであっちが下手人みてぇじゃねえですか。でぇいち、つっかい棒はどう説明なさるんでぇ」
清二は腕まくりして強がって見せたが、唇が小さく震えていた。定之はカラクリの一つは解けたと確信した。
「初めからつっかい棒などされてなかったのですよ。戸が開かないように見せたのはあなたの一人芝居だ。その体格だ。男が体当たりを何度もして戸を壊したとなれば、誰だって、転がっていたつっかい棒がかまされていたと思い込むでしょう」
図星を突かれて清二はうな垂れた。
「共犯は小春さんですね」
「まさか、まさか小春がここにきて裏切るたぁ思わなかった。で、でも、信じてくだせえ。あっちは花紫姐さんをやっちゃあいねえんだ。やったのは小春だ。あっちは小春に頼まれて」
「詳しいことは番屋で聞かしてもらおう」
大田が平助に目配せした。清二は平助と文蔵に脇を固められながら連れて行かれた。ところが不思議なのは、これほど自分に疑いがかけられているのに、当の小春にはまったくうろたえる素振りがない。どこか虚ろな眼差しで魂の抜け殻のようだ。あまりのことに気でも触れたのだろうか。
そのとき、上総介はおかしな光景を目にしていた。
【若様。若様】
上総介の言葉は定之にしかわからない。呼ばれて定之は上総介の前にしゃがんだ。
「どうした、上総介」
【どうもおいらにゃ、あの娘っこが二人に見えてならねえんで】
「二人?」
定之は小春を振り返った。しかし、どう見ても、小春は一人しかいない。小首を傾げる定之に、
【それも一人は男だ】
と重ねた。
「男?」
その呟きが聞こえたのか、小春はガタガタと震え出ししゃがみ込んだ。だが、すぐに立ち上がった小春の顔にその愛らしさはなく、ちょっと凄みのある面構えだ。
「太田さん小春を取り押さえて!」
定之の声よりも早く小春は逃げ出した。それを太田が追いかける。
「上総介、追え!」
【あいよ。任しときな】
小気味良く駆け出した。
「与一郎で御座いますか」
西浦屋の二階である。小春と清二を番屋に引き連れ、それから西浦屋へ戻って来た定之たちを楼主が無理矢理上がらせたのだ。座敷に入ると既に酒宴の用意がなされていた。二人の花魁が妖艶な笑みで迎える。楼主の魂胆がどこにあるのか、定之にはすぐに知れた。二階までは連れて来たが、上総介は廊下に控えさせる。
「あれはしょうのない男で御座いました。何をやらせても中途半端で。ただ男ぶりがいいものですから、女にはもてたように御座います。浮名も幾つか。……ああ、そういえば、花紫ともいっときそんな噂が」
「それで与一郎に暇を?」
聞いた太田に遊女が酒を注ぐ。いつもと勝手が違って堅物の太田にはいささか華美過ぎるか、表情が強張っている。
「いえいえ。そのような噂でいちいち使用人を責めていては、成り手がおりません。そこはそれ、じゃの道は蛇と申しますから。あれは結局自分で飛び出して、そのまま行ったきりで御座いました」
西浦屋は媚びるような笑いを見せた。
「ところで旦那方に折り入ってのお頼み事が……と申しますのも、手前どものような商売では世間の評判が大事。へたな噂は命取りになることも……」
「今回の件を表沙汰にするなと言うことか」
太田が睨み返した。
「いえいえ、たいそうな事は申しません。なかった事とこの場で一言おっしゃって頂ければ」
「太田さんに無理を言って小春さんと二人きりにしてもらいました。そこで小春さんがこんな事を教えてくれました。いや、あれは小春さんにとり憑いた与一郎さんの訴えですね」
一瞬、西浦屋の表情が固まった。それを確認して定之は静かに語り始めた。以後は小春、いや、与一郎の独白である。
『姉さんは心底与一郎さんを好いていました。きっと与一郎さんも……そこへ姉さんの身請け話が持ち上がり、二人は毎日泣いていました。ある日、とうとう与一郎さんが姉さんを連れ出そうとされました。けれど、見つかってしまって、与一郎さんは酷く折檻されたと聞きました。そして、それきり、与一郎さんの姿は見ていません……』
「そこまで話して急に小春さんは気を失ったように突っ伏しました。そして、再び顔を上げた小春さんは、実はその姿を借りた与一郎さんでした。小春さん、いや、与一郎さんは私に深々と頭を下げました」
『あっしは与一郎と申します。西浦屋の使用人でございやした。こんなおとなしい小春にとり憑いてしまい、申し訳なく思っておりやす。ですが、仕方がなかったんで。花紫に逢いたい一心で、この子の迷惑も顧みず、ほんに、あいすみません。……あっしは西浦屋の旦那に殺されたんでやす。確かに、廓抜けは掟破りだ。でも、そうするしかなかった。花魁は客を取って身を任せる。それは承知でやす。それを承知で惚れたんだ。後悔はなかった。でもいけねえや。何がって。身請けされちまったら、もう二度と逢えねえ。それを花紫から聞かされたときにゃあ、身を捩じらせるほど泣きやした。二人で抱き合って泣きやした。そんときは一緒に死のうとまで言いやした。死んであの世で夫婦になろうと。でも、魔が差したんです。あっしが余計な事を思いついたばかりに。もし万が一、この廓から逃げ出せたら。花紫と何処かで仲良く暮らせるかもしれねえと。くそっ! 今でも、どうしてあんな馬鹿なことを思いついたのか。悔しくてならねえ。あっしが馬鹿でした。ほんとに、本当に馬鹿でやした。……やっぱりすぐに捕まりやした。情けねえほどあっさりとね。それからは、口じゃ言えねえほどに痛めつけられやした。そして、あっしはあっけなくおっちんじまった訳で。申し訳ねえ。……申し訳ねえ……花紫。許してくんな。……あっしが死んだのは行灯部屋でした。どういうカラクリか、あっしはからだがなくなっても、魂だけは残ったようで。でも、どんなに花紫に声をかけても、あいつにゃあ聞こえねえ。そうこうする内に、申し訳ねえが、この小春にとり憑く事が出来やして、それからはあっしの想いを花紫に伝えることが出来るようになりやした。最初はそりゃ、あいつも信じちゃくれませんでしたがね。あっししか知らない内緒を話したら信じてくれやした。そんときゃ嬉しかったです。また生身で花紫を抱いてやれると。天にも昇る気分たあ、これかと思いやした。でもいけねえや。あっしがとり憑いたんは女だ。これじゃあ、吉原から出られもしねえ。あっしはほんとに馬鹿でさ。せめて旦那にでもとり憑いてやったら、花紫の身請け話もご破算に出来たでしょうし、その前に花紫を自由にすることだって。ほんとにあっしは馬鹿です。ところがです。聞いてやっておくんなさい。あの、花紫が……こう言うんですよ。あちきも死んであんたと同じ身になりますと。……うううっ。あ、あの花紫が、あっしなんかと関わったばっかりに、みずからでぇじな命を……でぇじな命を……あっしは、あっしはもう声も出せずに、ただ、ただあいつを抱き締めてやりやした。そんときのあっしらの気持ちが、二人の気持ちが、あの業突く張りの、血も涙もねえ旦那にわかるもんか! あの悲しみが……あの堪えても、堪えても止まらねえ涙の味が、あんなやつにわかってたまるもんか!! ……ですから、行灯部屋を使ってひと芝居打ちやした。あっしらの悔しさを、恨み辛みをあいつに教えてやりたくてね。行灯部屋はあっしが死んだ場所です。そこで花紫が首吊りすりゃあ、旦那もきっと察しがつくに違ぇねえと思いやしてね。花紫にとっちゃ酷な死に方だったと思いやす。西浦屋じゃあ、五本の指に入る女だ。それがあんな場所で皆さんに醜態を晒すことになる。それをあいつは喜んで引き受けてくれたんでやす。あちきも旦さんには少々物申すことがあると言ってね。……花紫の首を絞めたのはあっしでやす。おかしなことをと、こいつ狂ってねえかと思われるかもしれねえが、あいつの、臨終の顔はえも言えぬ艶っぽさでした。こう、にっこり笑って。……あとは、殿様のお察しの通りでやす。花紫の亡骸を行灯部屋まで清二に運ばせやした。そこで首を括ったように見せかけて。それからあっし、いや、小春が悲鳴を上げて、それに気付いた清二が行灯部屋の戸口を壊して入りゃあ、戸締りした部屋の中で花紫が首吊りしたと誰も思いやしょう。騒ぎも大きくなりやす。つっかい棒を床に転ばせておいたのは、野次馬たちにその証拠を見せるためでやす。ですから、この小春には何の罪もありやせん。どうぞ許してやっておくんなさい。今ご覧になってもおわかりのように、小春は、あっしが表に出ているときゃなーんにも覚えてないんで。からだん中ですやすや寝ているんでさ。それと、あつかましいようですが、あの清二もどうぞ許してやっておくんなさい。あいつはこの小春に惚れてやしてね、いわばあっしと同じだ。図体ばかりでかくて、ちょいとお頭が足んねえが、根は悪い奴じゃござんせん。どうぞ、どうぞ、勘弁してもらいてぇ。お願ぇしやす』
「最後は消え入るように声が小さくなって、おそらく与一郎さんと小春さんがまた入れ替わったのでしょう」
定之の話が終わると、太田がやおら立ち上がって西浦屋の胸倉を掴み揚げた。怒気のこもった目で睨みつける。
「西浦屋っ! 死人に口なしとはてめえのような悪党が使う言葉だ! 生憎とその死人がしゃべるたぁ、思いもしなかっただろうよ。まさか奉行所が幽霊の言葉を証言とする訳にゃあいくめぇ。だがよ。取り調べりゃあ、いつまでも隠し切れるもんじゃあねえ。観念するんだな!」
西浦屋を畳に投げ捨てた太田の目には光るものが見えた。したたかに打ち据えられた西浦屋はおろおろするばかり。小刻みにからだが震えているのは、おのが犯した罪の深さに恐怖しているのか。いや、それは西浦屋にしか見えない二人の姿があったからだ。座敷の中央に座って見つめる与一郎と花紫の姿が。
「だ、誰か。投げ込み寺へ行って、与一郎と、は、花紫の亡骸を、ひ、引き取って来てくれーっ! ん、ぐふっ。せ、盛大に弔って……」
そこで西浦屋は力尽きた。悶死である。
【定めしてめえのような奴にはお似合な最期だ】
そう言ったのは上総介である。それに与一郎と花紫は微笑んで、そして、すーっと消えた。
「今度ばかりは後味の悪いものでしたな」
西浦屋を出て、太田は空を見上げた。零れる涙を堪えているようにも見える。
「そうでもないようですよ。手に手を取り合った二人が微笑んでいたと、上総介が教えてくれました」
「そうなのか、おい」
太田は手荒く上総介の頭を撫でた。
【よせやい。目が回らぁ】
上総介は太田から逃げようと大門へ駆けた。すると、そこへあのごん太一門の登場だ。
【けっ。間の悪い場面で出てきやがる。おい。何しにきやがった】
【おめえ、今、廓から出てきたのか】
【そうさ。そいつがどうした】
【あの、大見世からか】
【そうだよ。それがどうしたって言うでぇ】
【そ、それは御見それしやした。先だってのご無礼はどうぞお許しを】
【え? なんだって?】
【お前様はお大尽の飼われもんでいらしたんで】
【ま、そうだな】
【今後ともどうぞお見知り置きを】
野良犬たちは上総介に愛想を振り撒くように盛んに尻尾を振る。
【けっ。てめえら滅多に尻尾なんか振るんじゃねえぜ。あ、若様。こっちですぜ。……いけね。おいらも振ってた】
完