表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

Candy 症候群


 村雲奈菜花の息は、切れかけていた。

 肺も横隔膜も痛い。生理痛よりも数倍痛い。

 全身は酸素を求めているはずなのに、気道が空気を吸い込んでくれないのだ。


 ― でも、それは登戸千鶴だって同じだ。 ―

 

 コーチの掛け声がする。

 「村雲お! 足止めんなあ!」



 インターハイ女子ボクシング予選決勝。

 ヘッドギアの下の村雲の額を汗が伝い、腫れた瞼を降りて、目に入ってくる。

 痛い。

 視界の中央の、登戸千鶴のしなやかな体がぼやけた。



 ― 分かってますよ。うるさいなあ。うるさいけど…… ―



 マウスピースで微かに膨らんだ唇の上に浮かぶ汗を、村雲は舐めたい衝動に駆られる。

 でも今、舌なめずりなんかしたら、めっちゃ馬鹿っぽい、と彼女は思う。


 


 コーチの大内先生は今年引退だ。


 廃部の危機に晒された、この女子ボクシング部を、みんなで引っ張ってきた。


 頭は禿げ上がっているし、朝練ではおでこが眩しい。


 口はうるさいし、青春の象徴とも言えるハンバーガーだって、こんなもん食べるな! と取り上げて食べる。捨てるのではない。食べる。定年真近の高校教師が、花咲ける女子高生の噛んだハンバーガーをむしゃむしゃ食べる。怪奇だ。


 怪奇のつるっぱげ。でも、このつるっぱげが合宿で握る玄米わかめお握りはとても美味しい。


 地獄の走り込み、シャドウ、スパーリング、腹筋、スパーリング、腹筋……、気が遠くなるようなリフレイン。


 けど、この繰り返しの後の玄米わかめおにぎりは、めっちゃ美味しいのだ。


 3年間このおにぎりを握り続けてくれた大内先生が叫んでいる。



 「村雲おおお! 止まんなあ! 前いけえええ!」



 叫びすぎだ。今月定年で血管年齢だって年相応なんだから、もうちょっと静かに叫んで欲しい。


 と、村雲は心配になる。



  ― 心配するとか。あたし、まだ余裕だ。 ―


 足が自然に動いた。 


 体は正直だ。ステップに、本能が呼び起こされる。


 そう、今の願いは、上唇に垂れる汗を舐めたい、でも、玄米わかめご飯を食べたい、でもない。



  ― ずっと勝てなかった、……登戸千鶴と戦いたい。 ―



 上がらなかった両腕が、顎の前に上がる。


 力の入らなかった拳に、握力が甦る。


 村雲は、顎を引いた上目遣いで、登戸千鶴と目を合わせた。



 登戸は目だけで笑う。


 余裕みせたいとかではない。


 ギリギリの体力を、本当にすっからかんにした時に出る、笑いだ。



 村雲も笑みを作りたくなった。


 が、代わりに、


「しゃあっ!!」


 と叫んで、登戸の右にステップイン。


 右フックをわき腹に叩き込む。


 登戸の左ストレートを上体を沈めながらかわしつつ撃ったパンチだ。


 グローブ越しに伝わる確かな手ごたえ。


 汗が舞い、くの字に折れた登戸の目が見開き、頬が、ぷくっと膨らんだ。


 こちらをむく体がぐらつく。



 ― いける……! ―



「お前のために投げるタオルはない。あっても投げん。だから死ぬ気で倒してこい」



 大内の言葉が脳裏をかすめる。そう、死ぬ気で倒す。


 村雲は息を吐く。


 吐いて吐いて吐いた、最後の息だ。



 登戸のガードの隙間を、村雲の拳が撃ちあがる。


 空間を白い軌跡が削るような、渾身のアッパー。


 軌跡の先は、登戸の顎先。



 ― とどけ……! ―



 村雲は、見開いた目の奥に、白い煌きを感じた。


 大内が何かをわめいている。


 声だけが聞こえる。



 うるさいなあ。本当に。


 でも、先生の夏も最後だし、インターハイに連れて行ってあげたい。


 ……インターハイ? あれ? 今、予選決勝だ。



 村雲の意識は戻った。


 シューズの踵、右ふくらはぎ、右腰、右脇腹、右後背、そしてヘッドギアの右側部が、水色のリングマットに乗っかっている。


 彼女を向いて、レフリーがカウントしている。


 大内が村雲の名前をひたすら絶叫している。



 登戸千鶴と目が合った。


 リングロープに背を預け、両腕をかけている。


 燃え尽きた、でも祈るような目。



 ― 何て目をしてんだ!? 勝手に燃え尽きんな! 勝負はまだ終わってない。ふざけんな……! ―



 奥歯を噛んで、右ひじをつき、立ち上がろうとする。


 が、顎に力が入らない。


 関節が消えてしまったのかと思うくらい、ふわふわと力が入らない。


 どうやら、アッパーは斜め右に避けられたらしい。


 そのまま右フックのカウンターを貰った。



 それでも、村雲は立ち上がろうとした。


 シュールに笑う膝を無理やり黙らせ、戦いの構えを取ろうとし、中腰になりかける。


 が、その時、村雲の体は崩れた。


 同時に、リングの宙に白いタオルが舞う。



 大内が投げたのだ。


 村雲の意識と肉体が、離れ離れになっていた。


 全てがクリアなのに、体だけが動かない。


 今なら幽体離脱だってし放題だ、と村雲は思う。



 ― タオルは投げないから死ぬ気で戦ってこいって、言ってたのに。つるっぱげの嘘つき。 ―



 涙が目じりから溢れて頬をつたい、マットに落ちた。


 


 インターハイ県予選決勝。


 登戸千鶴との大一番は、村雲の第3ラウンドKO負けで終わった。


 命がけの左アッパーに、右のカウンターフックを合わせられた。


 見事なカウンター。



 この日、村雲の女子ボクシング部生活は終わり、その月に、顧問の大内は定年退職を迎えた。


 


 県予選の決勝まで進んだのだ。


 これは快挙である。


 しかも、村雲の高校は私立のちょっと有名な進学校だった。


 尚更快挙である。



 この栄光にも関わらず、村雨は腑抜けた。


 魂が、あの第3ラウンドでアッパーを放った瞬間に接着されてしまったらしい。


 引退から早2ヶ月。


 街を彩る緑は、淡い新緑から濃密な緑に変化していた。


 夏休みである。お盆も過ぎた。



 村雲は、羊羹も青春のハンバーガーも食べ放題になって久しい。


 もう誰にも憚る必要はない。


 走り込みだってしなくていい。


 息が上がるような事は、全くしなくても良くなったのに、全然楽しくないのだ。



 勝負の夏ということで、受験勉強はする。


 やることが無いので、猛然とする。


 だから大学の合格判定は1つ上がった。


 友達とハンバーガーだって食べるし、フライドポテトだって合わせ放題だ。


 でもやはり乙女なので、ジュースは0カロリー。


 


 彼女は充実しているはずだった。


 けれど、全く楽しくない。空虚だ。


 遠い目をしてしまう。


 その視線の先には、登戸千鶴がいる。



 ― あの子はどうしてるんだろう。―



 登戸千鶴は8月初めの本選で、1回戦負けをしていた。


 TKO、判定負けだ。


 


 悔しいだろう。


 いや、インターハイに進めたから、悔しくはないのか。


 進めたからこそ、物凄く悔しいのか。



 村雲は分からない。


 でも、できれば、この3年間に一度も勝てなかった彼女に会って、話したいと思う。


 公園の緑の木陰とかで、蝉の声でもうるさく聴きながら、2人でアイスキャンデーでも齧れば、何かが吹っ切れる気がするのだ。


 けれど吹っ切って忘れるには、あのリングの記憶は、眩しすぎるのだ。



 登戸千鶴は2つ隣町の工業高校、いわゆる工業女子だ。


 一方、村雲は家から徒歩で10分の私立高校である。


 電車で3駅分揺られさえすれば、気軽に会いに行ける距離だ。


 だからだろう、距離が気軽な分、気持ちが重くなる。


 踏ん切りがいる。そして、村雲にはそれがない。



 ちなみに、村雲の街から東に2駅、登戸のそれから西に1駅行けば、県庁所在のある駅に着く。


 その駅の北にはビジネス街と市立病院がある。


 南には県庁があり、繁華街から続く坂の向こうに大人の界隈や怪しいホテルがある。



 2学期の始業も近いある日、受験勉強の息抜きをしようと、友達に誘われた村雲は、その繁華街に足を伸ばした。


 繁華街だけあって、服飾店の軒先のワゴンには、キュートなフリフリピンクのブラウスとか、ロゴプリントシャツなどがてんこ盛りされている。



 村雲はこの眺めを楽しむ。


 彼女は別にギャルではないが、キュートな服はそれなりに好きな女子なのである。この日のコーデも、肩の出た白のフリルブラウスに、黒のデニムワイドパンツだった。



 軒先で熱帯の花のプリントTシャツを宙に拡げながら、友人と2人ああでもない、こうでもない、と言い合う。


 村雲はこのシャツに心は惹かれたが、買うまでは至らず、ワゴンに戻そうとする。


 この時、村雲は微かに顔をしかめた。


 ワゴンのシャツたちのしなだれ加減に、リングで倒れた自分を見る気がしたからだ。



 友人と2人で店内に入り、茶色のかすれ具合が良いミサンガを買って、村雲はさっそく手首につけた。


 近場のジャンクフード店に移動し、ハンバーガーを頬張る。


 友人と、ミサンガの願い(まだ決まってない)、模試の結果、アイドル、映画、薬物で捕まった芸能人、最近流行っている変な薬物、音楽などについて、とめどなく話す。


 この時間は楽しいし、ちょっと虚しい。


 


 村雲はふと、窓ガラスの向こうの人ごみに、登戸千鶴の横顔を認めた。


 笑っていた。


 酷く空虚な笑い方だった。


 男と腕を組んでいる。


 30代後半から40代の男だ。


 登戸自身も制服ではない。


 フレアのミニスカートにピンクのブラウスという大人女子コーデである。メイクも厚盛で、ぱっと見は20代半ばの女性だ。


 けれど間違いなく、登戸千鶴だった。


 村雲は、男女の行方を目で追った。


 ゆっくり、けれど足取りに迷いなく、坂に向かっていく。


 あの先には不健全な街と、いかがわしいホテルがある。



 村雲は立ち上がった。


 その動きが急だったため、椅子が後ろに倒れた。



「登戸千鶴」


 喉が自然に発音した。


「え?」


 友人が村雲を見上げる。


「登戸千鶴だ。ごめん、あたし行ってくる」


 村雲は男女を目で追いながらそう言って、足早に店を出た。


 登戸千鶴が消えた坂に眉をひそめ、息を深く吸う。


 それから、駆け出した。



 ― あたしに、勝ったあんたが、何やってんのよ? こんなの、絶対認めない。 ―





 村雲の中から、力が湧き上がる。


 怒りと言っても良い。



 彼女は疾走する。


 全力でフットワークを駆使し、鮮やかに繁華街の人波をすり抜ける。


 そして、速度は落とさない。



 落としたら、村雲がずっと勝ちたかった登戸千鶴の、『今』を認めてしまう。


 彼女はそんな気がしたし、それがたまらなく嫌だったからだ。



 村雲は繁華街を抜け、大人の坂を見上げた。


 昼間ということもあって、坂の人影はまばらで、視界もひらける。


 夏の灼熱の大気も、心なしか、ねっとりとした湿り気を帯びる。


 女子更衣室に染み付く汗に似た臭気が、村雲の鼻をつく。


 


- 登戸千鶴、なんで……? ―


 


 この臭気に、村雲はためらいを覚えた。


 彼女は、彼氏いない歴が年齢とイコールの、れっきとした非リア女子である。


 何も外見が悪いわけではない。


 目も鼻も口も左右対称に整った、丸顔である。


 頬骨が極端に高かったり、えらが残念なほど張っているわけではない。


 ただ、まつ毛の長い瞳が切れ長で、いわゆる三白眼であるというだけだ。


 下手に、鼻や唇が整っているだけに、黙っているだけで怒っていると思われる顔。そんな残念女子が村雲奈菜子なのである。


 


 だから彼女にとってこの坂は、大人の階段というよりもむしろ、大人の絶壁であった。


 恐怖に近い生理的抵抗を感じ、しばし立ちすくむ。



 その視界の中央には、50m前方を連れ立って登っていく、男女の後姿が映り込んでいた。


 女は登戸だ。


 ずっと勝てなかったライバルであり、村雲をダウンさせて中央に進んだ強者だ。


 その彼女が中年男と腕を組んだまま、左の脇道に曲がって消えた。


 その入り口には、立て看板があった。


 裸眼視力1・5の村雲は、看板の文句が読めてしまった。


『ホテルドルフィン』というゴシック体の下で、安っぽい青のイルカが跳ねて、ウインクをしながら値段を告知している。 



- ふ、……ざけんなああああああ!!! -



 村雲は、大人の坂を駆け始めた。


 人目は気にしない。


 補導員に声かけされたらどうしようとかは考えない。


 


 本当は考えた方が楽なのだ。


 大事な時期である。受験生である。くるりと踵を返して、友人の元に戻って、謝って、事情を話して泣けば済む話である。


 でも、それをしてしまったら、何かとても大切なものが汚れてしまう。


 彼女はそう考えた。


 だからこそ、全力でピンクの街を50m走ろうとしたのだが、30mで息が切れた。



- くっそ。走ってなかったから、体力さんガタ落ちだわ……。-



 痛むわき腹。


 しかし、村雲は痛みに感謝をした。


 あまり考えなくても済むからだ。


 村雲も駄々っ子ではない。登戸にだって、のっぴきならぬ事情があるのだろう。

 その事情は、ボクシングのライバルだったというだけで、立ち入るには、重すぎるかもしれないのだ。



- でも、間違っているよ。こんなの絶対だめだ。止めさせる! 殴ってでも止めさせる! そしてちゃんと訳を聴こう。あたしが出来ることは全部しよう。-



 村雲の瞳の底に、炎が宿った。


 が、脚はへろへろである。


 それでも、50mを一度も止まらずに走りぬいた。


 絶え絶えの息を、一度深呼吸して、ねっとりとした大人の街の空気にむせてから、脇道に視線を投げる。



 裏路地は暗く湿っていた。


 村雲は足を踏み出す。その一歩はとても力強い。



 ……壁面に描かれた、イルカの青が毒々しい建物の入り口前に、登戸がいた。


 彼女の足元のアスファルトには、影日向に咲く花がいくつか生えていて、その横で、中年男が(うずくま)っている。



 登戸は別の男にボディブローを放っている。


 男はまだ若い。


 黒のスラックスに、襟元の開いたシャツ。


 長い肢体くの字に曲がり、七三分けの髪が乱れている。


 ブローの先が肝臓にクリーンヒットしたのだ。



「登戸千鶴っ!」


 村雲は叫んだ。


 登戸に向って駆け出す。


 村雲の血相は酷く変わっている。 


 怒りでも、状況が分からない混乱でもない。


 それはただの主張だ。


 素人に暴力とか、間違っている。絶対に間違っているのだ。


 


 登戸と眼があった。


 うりざね顔、眉にかかった黒髪、メイクを念入りに施した瞼が大きく開く。


 視線を村雲に据えたまま、七三男の顎先にジャブ。


 男はアスファルトに崩れるが、やはり登戸は彼を見ない。


 視線の先は、あくまでも村雲だ。


 両手の拳を握り、構える。


 登戸は村雲より10㎝ほど長身である。


 リーチも長い。


 


 突進する村雲に、登戸の左ストレートが放たれる。


 上体を沈めかわす村雲の額を、登戸の拳がかすめた。


 村雲はインファイターだ。密着に近い間合いは彼女の空間である。


 腰を大きく回転。左鉤突き。拳の軌道は半円に近い弧を描き、登戸の右リバーに


直撃……する前に、こめかみに衝撃。


 


 村雲は、何が起きたのか分からなかった。


 ただ、首から上が吹っ飛ぶかと思った。


 横方向に吹っ飛び、肩からアスファルトに崩れる。


 暗い路地のアスファルトは生暖かく、肩の肌も酷く擦る。



 登戸は、半身になっていた。腰の上まで左膝を上げて、村雲を見下ろしている。


 酷く冷たい目だった。メイクが濃いからではなく、本当に別人の瞳だった。


 熱量が無いのだ。インターハイの時よりも、強くなっている。


 実力は伯仲していると評されていた村雲のこめかみに、膝回し蹴りを叩き込んだのだ。


 容赦もためらいもない、見事な一撃だった。一撃というよりも、それは熱量の塊だった。


 格闘に関わる者の拳には、熱がこもる。それは、身体を、技を、そして心を鍛えぬく時間が拳に宿るからだ。


 けれど登戸の瞳は、死人みたいだった。


 死体のような、冷たい潤み方をしている。


 彼女はその瞳のまま、大人の表通りに向けて踵を返した。



 黒猫が物影からひょい、と現れて、優雅に路を横断する。


 途中、村雲に一度視線をやってから、興味をなくしたのか、反対側の物陰に消えた。


 


 熱くぼやける視界の中に登戸の姿を探すが、もう、どこにも見えない。


 何故視界がぼやけるのか。


 膝回し蹴りの衝撃か、眼の端から溢れる涙のせいか、村雲は分からない。両方かもしれない。



「登、ど……」


 自分の喉から出て来るのが、呼びかけなのか、泣き声なのかも、村雲は分からなかった。ただ、とても悲しかった。





 ……気が付くと、村雲はバーガーショップにいた。


 全国に3000店舗近く展開しているチェーン店ではない。


 アメリカのカントリーソングがゆったりと流れている。


 清潔な白い壁には、大口をあけて笑う子供たちの顔が、油絵調で描かれている。


 村雲が腰を下ろす椅子はパイプではなく、しっかりした木の作りだ。


 照明は柔らかい。


 大きな窓ガラスの向こうでは、無数の黒い波がゆらゆらとして、その先が崩れるたびに、月の灯りに白く煌めいていた。


 闇の水平線近くに浮かぶ、その月は完全に満ちて、ゴビ砂漠の黄土に血を混ぜたような色をしていた。



 夜の岬のバーガーショップ。


 ハンバーグの焦げ目と、甘く酸っぱいケチャップ、ピクルス、焼き立てのパンの匂い。


 これが店内に、炭の香と共に満ちていたので、村雲はここがバーガーショップだと思った。夜だから、閉店が真近なのだろうか。村雲以外の客がいない。


 村雲は店内を見渡したが、店員の姿も見えない。いや、レジカウンターも、出口も無いのだ。



「悪いね。この店には、レジカウンターも出入り口も無いんだ。とても不完全な店だが、その分ハンバーガーは本当に美味い。一噛みしたら、アメリカ国家を歌いたくなるだろうね」


 正面から声がした。



 村雲はぎょっとして、視線を向けた。



 上等そうな黒のコートを羽織った男が、向いの席に座っていた。


 夏なのにコート。



 不思議に思った村雲は、男をまじまじと見てしまう。


 鼻が端正。口元に笑窪が浮かんでいる。


 30代半ば。清潔に刈り込まれた黒髪。


 煙草のポスターとかに出てきそうな中年だった。


 テーブルに片肘をついて、寒さを耐えるみたいに前かがみに俯いている。


 肘をついた右手の指先は青白く、フライドポテトをつまんでいた。



「アメリカ国家って、どんな歌ですか」


 村雲は思わず訊いてしまった。


 男がこちらを見る。



 思わず、悲鳴をあげそうになった。



 表情が、笑っても泣いてもいない。


 死んだ人みたいだ。


 目も、死体のような、冷たい潤み方をしている。


 村雲は、この潤み方に覚えがあった。


 登戸と同じだ。同じ、冷たさ。



「登戸千鶴を知っているんですか?」


 彼女は思わず訊いてしまった。


 男はこちらに首を傾げる。



「何でそう思うんだい?」


「え……」


 答える事ができない。


 瞳の感じがそっくりだから、と言っても、可哀そうな子と思われてしまう。


 男は何も言わない。


 けれど、彼の顔に表情が生まれた。


 口角が上がり、瞼が優しく下がった。


 


 村雲の中で、男に対する警戒が薄らいでいく。


 そんな彼女に、男は首を傾げた。



「登戸千鶴という子は、どんな子なんだい?」


「え」


「君と、どんな思い出があるんだい? 話してくれないかな」


 男の声は穏やかだったが、村雲は、背に冷たいものが走った気した。


 彼女は唾を飲み込む。


 男は苦笑する。


「そんなに固くならなくても良いよ。正直に答えてくれれば、ちゃんと帰してあげるし、飴もあげよう」



 ― 飴? 飴は嫌いじゃないけど、何で飴なんだろう……? それに、帰してあげるって……。―


 


 村雲はポカンとした。

 

そんな彼女の前で、男はフライを口に放り込み、咀嚼する。



「良い飴だよ。エンドルフィンを凝縮したような飴だ。麻薬でもないのに、とても幸せな気持ちになれる」



 村雲の脳裏に疑問符が溢れた。


 その瞬間、登戸の後ろ姿が脳裏をかすめる。 



 気が付けば、村雲はテーブルから身をせり出して、右ストレートを男の鼻っ柱に叩き込んでいた。


 拳から伝わる、軟骨が潰れる感触。



 そんな彼女に、男は悪戯っぽい目をした。


 


「君は登戸千鶴とは違うな。全く矛盾だらけだ。一般人への暴力を咎めておいて、自分は躊躇(ちゅうちょ)無く、それを振るう」


「登戸さんに何かしたでしょ。麻薬とか飴玉とか言って、あの子を変えた。あんたは人でなしだ」


 男は飴玉の美味しさを麻薬に例えただけかも知れない。登戸千鶴とのやり取りを知っているのも不気味だ。逆らったら本当に帰れないかもしれない。


 けれど、本能的な勘が、この男が危ないと告げている。



 村雲は男を見据えたまま、テーブルから離れて、両拳を握り、顎元に構えた。


 男は彼女を向いて、上目遣いに笑う。


 凄みのある笑いだった。



「そうだ。私はヒトではない」


 俯きそう呟いて、男はゆらりと立ち上がった。



 ……仰向けに寝ていた。頬をぺしぺしと叩かれていた。


 村雲の鼻のすぐ上に若い男の顔があった。彼が叩いていた。


 何処かで見たことのある七三分け。そのアップの向こうの天井で、青いペンキのイルカがウインクしている。


 


 - 青い、イルカ……? -



「起きたか……お? ぶっ!!」


 七三が言い終わる前に村雲は彼の前髪を右手で掴んだ。


 顎に右手をかけて引き寄せ、額を鼻にめり込ませる。鮮やかな頭突き。


 すかさず横に突き飛ばす。


 両膝を曲げて右肩から斜めに後転。


 起き上がりつつ、ファイティングポーズを取った。



「待て。いや、待ってくれ。君は誤解している」


 古くて臭いベージュの絨毯に尻餅をつき、左手で鼻を押さえながら、七三は言った。


 何が誤解だ、と村雲は思う。


 ここは青いイルカのホテルだ。登戸を追って大人の坂を駈けたら、大人の成層圏に打ちあがってしまった。今ここで戦わないと、衛星軌道に乗ってしまう。体は汚されても、心は汚れてやらない!


 村雲の2つの瞳に鬼気が宿った。



「いや、服、着てるだろう? 落ち着いて、何なら朝ご飯でも思い出しながら、確認するんだ」


 朝ごはんは生野菜サラダにヨーグルト、目玉焼き、それと豆乳コーンフレークだった。グレープジュースが美味しかった。


 男の言葉で思い出しながら、村雲は首から下を確認する。


 脇の汚れた白のフリルブラウスに、黒のデニムワイドパンツ。


 服はそのままだ。


 ブラウスから出た肩は、消毒のためかスースーとして、ガーゼがあてられている。


「君の手当てをしたんだ。襲うんだったら、わざわざ手当てなんかしないだろう? よく考えて欲しい。あと、朝ご飯で一番美味しかったのは何かも思い出して欲しい」


 グレープジュースが美味しかった。生のグレープを絞ったのだ。


 酸味と甘みに大自然を感じた。


 と村雲は思い返す。が、今考えるべきはそこではない。


 この七三は、よくよく見るとこんな優しそうな顔をして、意識の無い女子高生をこんな場所に連れ込んだのだ。



-けど、手当てをしてくれた。案外悪い人じゃ……いけない。誘導されている。-


 朝ご飯を訊いてくるのだって、よく考えたら怪しい。


 けど、今は怪しいとかどうとかを考えている場合ではない。


 この七三をノックアウトして、イルカワールドから脱出しないといけない。


 と、そこまで村雲が考えた時、七三の瞳が、ふっと、とても柔らかくなった。



「その様子だと、間に合ったみたいだな。良かった。まだ君は『抜かれて』はいない」


「え? 何が間に合ったの? 何を抜かれてないの?」


 村雲はわずかに首を傾げた。


 七三は胸元からティッシュを取り出して、丸めて鼻の穴に突っ込んだ。


 止血したのは分かったが、村雲は、ちょっと吹きだしそうになる。


 ハロウィンパーティの付け髭みたいで、面白かったからだ。


「君の頭突きが強烈だったから、鼻血も出る。因果関係的には心外だが、リラックスしてくれるのはありがたい。では、質問に答えよう。『出口の無い店』を思い出せるか?」


 村雲の頬から、血の気が引いた。


 七三の言い回しは芝居がかっていたが、威圧も不気味を煽るものもなく、穏やかで冷静だった。


 が、言われた彼女の脳裏には、あの、闇の海を見渡す店。


 レジカウンターも出口もない空間。


 そして、あの謎の男の死体のような、冷たく潤んだ瞳が甦る。



 村雲は三白眼の瞳を大きく見開き、喉は頬は舌は肺は硬直した。


 それは恐怖だ。



「落ち着いてくれ。後、朝ご飯で一番美味しかったのは何かも思い出して欲しい」


 朝ご飯で一番美味しかったのは、……。


 村雲は思い出せなかった。


 朝ご飯という出来事の記憶そのものが、すっぽりと頭から抜け落ちている。


 困惑に口が渇き、彼女の舌は潤いを求めてつばを飲み込む。



「足元を見てくれ。あ、見ても俺を攻撃しないでくれよ。君が立派なファイターなのは分かった」


 七三は、村雲の拳を警戒するように後ずさりながら、ベッドを指差した。


 その指先に誘導されて、村雲の視線は落ちる。


 


 右ソックスの親指部分、その先2cmに、オレンジ色の飴玉が転がっていた。


 プラスティック包装されている。



-飴? さっきは、無かった。飴なんて無かった。―



『良い飴だよ。エンドルフィンを凝縮したような飴だ。麻薬でもないのに、とても幸せな気持ちになれる』


 出口の無い店で、謎の男が言った言葉を思い出し、村雲は七三を睨んだ。


 下ろしかけた拳も再び構える。



「あんた、あいつの仲間なの?」


「昔は上司で、師匠だった。今は違う。説明すると長くなるが、とにかくその飴を舐めてみてくれ」


 七三の言葉に、村雲はためらう。



「怪しい薬じゃない。それは本来、君だけのモノなんだ」


 


 肩がスースーとした。


 七三の言葉は限り無く怪しいが、村雲を手当てしたのは事実である。


 彼女はその事に免じて、彼の言葉に従ってあげることにした。


 


 飴にしゃがみ込み、指先でつまみあげ、包装を破り取り出し、一度そこで止まって、七三の目を見る。



 七三は頷いた。



 村雲は覚悟を決めて、目を閉じ、口に放り込む。


 舌が飴の硬さを感じた。 


 オレンジ色なのにグレープ味だ。


 しゅわっと、炭酸で村雲の舌を刺しながら、瞬く間に溶け消える。



 -……朝ごはんは生野菜サラダにヨーグルト、目玉焼き、それと豆乳コーンフレークだった。グレープジュースが美味しかった。-



 村雲の脳に記憶が戻った。


 彼女の瞳は大きく開き、七三を直視した。


 七三は、ほっとした様子で、ゆっくりと頷いた。



「これが、お師匠と俺の力なんだ」


 


 ……その後、七三は色々な事を話してくれた。


 まず、彼の名前は岡田一斗(おかだかずと)。25歳。


 今年の冬に閉まった二椿(ふたつばき)探偵事務所で助手をしていた。


 彼の雇い主は、二椿史郎(ふたつばきしろう


 二椿も岡田も、記憶を飴玉にして取り出す能力がある。


 これは生まれもった素質に大きく依存する力らしい。


 高校生の時、岡田はとある事件に巻き込まれた。


 この原因は、当時の岡田の悪癖である。彼はスリが得意だったし、退屈しのぎによく、やくざの財布をスっていた。


 この事件をきっかけに、彼は二椿と知り合い、事件の解決を頼み込んだ。


 二椿は、事務所での労働と更正を条件に、岡田を救う。


 二椿の事務所でアルバイトとは名ばかりのただ働きをするようになった。


 ちなみに当時、二椿は新婚だった。渋くてクールな顔をして、10歳年下の可愛らしくて、猫の言葉が分かるくらいの子猫好きという、ちょっと不思議なアルバイトさんと、出来ちゃった結婚をしていたのだ。



「まあ、俺は妬いたよ。けれど、どうでも良かった。お師匠の元で働きながら、俺には大いなる野望が芽生えたからだ」



 その野望とは、記憶の飴を売る事だった。


 人から取り出した飴は、記憶の持ち主が舐めると、その記憶は回復する。


 が、持ち主以外が舐めると、『その記憶が含む感情』が再生されるのだ。



「誰かに褒められたり、告白が上手くいったり、子供が産まれたり、人生には色んな嬉しいイベントがある。飴玉には、その時の感情が詰まっているんだ。感情だけを伝える写真、と考えてくれても構わない」



 飴玉の含む感情は、色で分かる。


 赤は愛と闘争。青は知的歓び、安心と安堵。緑は自然と平和。白は美と神聖。


 オレンジは食欲。


 村雲の記憶はこれである。満たされる食欲。それにまつわる朝の記憶。



「お師匠も俺も、探偵業だ。人の不幸を飯の種にしている。で、あまりにも酷い不幸は記憶ごと抜くんだ。抜くには、不幸に関わることを思い出してもらえば良い。まあ、これはアフターサービスだな」



 こういう記憶は、黒の飴玉として、具現化するらしい。その感情は、恐怖と暗闇。そして絶望。


 二椿はこれを毒物としても使用していた。


 巧みな話術で、黒の飴玉を舐めるように薦める。


 舐めた者は無力化される。


 ダウナー系の麻薬を摂取、バッドトリップをした時に近い状態になるらしい。


 


 岡田は、黒の飴玉よりも、二椿の悪魔的な話術の方が、恐ろしいと思っていた。


 


 恐ろしい二椿の元で働きながら、岡田は計画していた。


 まず、酒場で適当な女に声をかけて、話をきく。


 ちょっと嬉しいことの記憶を抜かせてもらう。ちょっとというのが肝心だ。


 あまり大切な記憶を抜くと、人格が歪む。酷いと廃人になってしまう。


 それに、強すぎる感情も使えない。それは劇薬だ。麻薬のような依存性は無いけれど、日常全ての感情をぼやかしてしまう。


 記憶の飴を舐める事以外に、喜びを感じれなくなってしまうのだ。



 村雲は、登戸千鶴の死んだ目を思い出した。


 あらゆる物に、喜びを感じられない、冷たい目。



「でも、野望は実行する前に、お師匠にばれて、俺は酷くとっちめられた。それも皮肉だけどな」



 何故皮肉かというと、岡田の師匠の二椿は現在、それをして回っているからだ。


 きっかけは、年明け早々の事故だった。


 7歳の娘を連れて、信号待ちをしていた妻に、ワゴン車が突っ込んだ。


 その2日前に降雪があって、1日前に路面を覆う雪は一度溶けて、その日にまた凍り、薄い氷となった。この氷にワゴン車がスリップしたのだ。


 妻はワゴン車と電柱のサンドウィッチになる直前に娘を突き飛ばしたが、不幸な事に、娘も車体に接触し、後頭部を打った。


 娘は妻と同じく猫の言葉が分かるくらい子猫が好きで、ネコ型フードを被っていたが、それはクッションにはならなかった。



 この事故の結果として、妻は死亡し、娘は一命を取り留めたものの、その意識は戻らず、今も市立病院のICUで、昏睡している。


 



 この悲劇は二椿を酷く打ちのめした。


 妻の死の2週間後、二椿は通常の業務を終えて、市立病院に赴き娘の容態を確認してから、いきつけのバーでしこたま飲んだ。


 この時酷く泥酔し、コートに忍ばせていた黒の飴玉を、3個一気に口に詰め込み、噛み砕いてたりしていた。


 隣で一緒に飲んでいた岡田は止めようとしたが、1個放り込まれ、ダウンした。


 した。


 酒の効果も手伝って、酷い悪夢に放り込まれたような感覚に、脳の芯と視界をシェイクされた後、何とか回復すると、二椿は酒場から消えていた。


 翌日、二椿は水死体で発見された。


 泥酔したまま、川に落ちたらしい。



「あっけない最後だったよ。あれだけ抜け目ないお師匠がな」


「え」


「まあ、酔っぱらいだからな。しか、事故前のお師匠は酒もそこまで強くはないし、一杯をちびちびやるタイプだった。つまり、泥酔は、遠回りの自殺ってやつだ」


「あ、いや、そこじゃなくて」


 村雲は小さく首を振る。


「……そこじゃなくて、二椿さんって、亡くなってるの?」


 岡田はしばらく沈黙してから、頷いた。


「ああ。死んでる」


 村雲の背筋に、出口の無い店で味わった感覚が甦る。


 表面の濡れた氷が肌を滑るような、そんな悪寒だった。



 ……二椿が亡くなってから、記憶が『抜かれる』者が続出するようになった。


 その原因は分からない。二椿は、確実に荼毘に付されている。


 被害者は、繁華街から少し離れた市立病院を中心として、同心円状の広がりを見せている。範囲は現在も拡大している。


 彼らの飴は回収されない。が、誰かが拾う。


 ほとんどはゴミ箱行きだ。


 けれど誰かは口に含む。そして飴を舐める以外の全ての感情を、色彩を失うのだ。


 麻薬ではないが、麻薬と似ている。


 だから、最近はやくざが目をつけた。


 飴を集めて、売る事にしたのだ。



「本当に、やくざの貪欲さには、舌を巻くよ」



 やくざは、飴を探し始めた。


 依頼も二椿事務所に来たが、事務所は既に閉鎖されている。


 そこで、独立開業済みの岡田に依頼が回ってきた。


 彼は仕事を受け、1つの法則に気づく。



「被害は感染するんだ。つまり、誰かが記憶を『抜かれたら』、その誰かと縁や絆がある別の誰かも、『抜かれる』」



 恋人同士、または宿命のライバルなどが多いらしい。


 この宿命のライバルという言葉に、村雲は登戸千鶴を思い出した。


 そして、大内の事も。



「つまり、お師匠は、記憶を『抜いて』飴玉にする、非現実的な存在になった。が、『抜き方』には法則がある。つまり非現実だが、物理的という事だ」 



 そういう訳で、組の記録にあった記憶を抜かれた直近の被害者、登戸千鶴を見張っていたら、今日、男に騙されているのを発見したらしい。


 つまり、彼女は記憶を『抜かれて』から、何かのきっかけで別の飴玉を舐め、虜になった。


 そして飴玉を麻薬と勘違いし、ネットで売人に連絡を取り、金に加え色々な事をするという約束で、このイルカの建物の前まで来た。


 岡田は尾行を続けた。


 彼女は売人が持参したのが飴玉ではないと分かり激怒。


 猛然と売人を殴り始めたので、岡田は止めに入った。


 そして返り討ちにされる。


 暴れ足りない彼女の様子に、死を覚悟したら、村雲が駆けてきた。


 登戸は彼女も返り討ちにし、去っていった。



「後は、知っている通りだ。俺は君をここに運んで手当てをした。ああ、安心していい。受付とは知り合いなんだ。客にここを紹介してるからね。感謝されている」


「何で、紹介するの?」


「探偵を雇う奴ってのは、基本寂しいんだよ。でも我慢している。けれど、羽目を外したくなる。そういう時は、ばれずにしたい。で、俺に訊くんだ。あんたみたいな探偵に、見つからない所はあるかい? とな。で、俺はここを教える」


「汚い。(けが)らわしい」


「大人は汚くて汚らわしいんだよ、御嬢さん」


 口調が馬鹿にしていたので、村雲はかちんときた。


 けれど岡田は構わず、ぐいっと身を乗り出して、訊いてきた。


「お師匠の夢を見ただろう? 君は記憶を『抜かれ』かけていた。寝顔で分かった。だから起したんだ」


 村雲は思わず、背を反らしながら答える。


「うん、確かに35歳位の男の人と、話した」


「詳しく聴かせてくれ。君が初めてなんだ。非現実になったお師匠に、『抜かれかけて』無事な人間は」


「いいけど、1ついい?」


「なんだ」


「なんで非現実って言うの? お化けじゃないの? 二椿さん」


 村雲の問いに、岡田は堂々と答えた。


「お化けとか、非現実的なものは信じない。怖いからな」


 矛盾している、と村雲は思った。


 ……翌日、村雲は、拾った財布を届けるという名目で、登戸の家を訪れた。


 この財布はラベンダーピンクで、金色の王冠が刺繍されている。


 ちなみにこれは昨日、岡田が登戸に殴られながら、スッたものだ。


 その日の村雲のコーデは、下はベージュのジャージ、上は黒無地のTシャツというラフな格好だったが、これには理由があった。再戦である。



 事前に電話をしておいたので、深呼吸の後に、村雲がインターホンを押すと、扉が開き、登戸が出てきた。


 目は相変わらず死んでいる。


 村雲は彼女を見上げ、財布を渡す。



「はい」


「……ありがとう」


「ね、登戸さん。付き合ってよ、公園」


 登戸は、無感情に首を傾げた。


 村雲も合わせるように、満面の笑みを作る。


「わざわざ電車乗って来たんだよ。……歩きながら、話そ?」


 登戸は眉をひそめるが、村雲は構わない。


「学校に言うよ? 昨日のこと。あ、警察でもいいけど」


 登戸の眉根は、ますます歪んだ。


「あ、ジャージに着替えてね。それくらいは待つから」


 村雲はもう一度、笑みを作った。



 2人は蝉の音の中、連れ立って歩く。


 程なくして公園に到着した。


 この公園は住宅街の複数の区画にまたがる、登戸の街最大の憩いの場だった。


 敷地の70%を覆う木々が、緑の影をまだらに落とす中を、村雲と登戸は進む。



「予選決勝から、結構たったよね」


 村雲は、ぽつりと呟くが、返事はない。


「色々言いたい事はあるけど、とりあえず、……ここかな」


 村雲は立ち止まり、遊歩道の芝生を見渡した。


 樹がまばらだ。突き当たりのため、人も見当たらない。



 村雲が先に踏み入り、登戸が後に続いた。



「昨日しこたまやられたってのもあるけど」


 両指を組み合わせて、上空に向けて伸びをしながら、村雲は続ける。


「登戸さんが、被害者なのは分かる」


 登戸の黒い前髪の下の瞳が、少し大きくなった。


「でも、このままじゃ、あたしも、あたしの恩師のつるっぱげも被害者になっちゃうと思うんだ。だから」


 村雲は両手の拳を握り、構え、ステップを踏み始める。


「登戸さん、あんたを止める。あたしが勝ったら、言う事きいてね」


 


 登戸も構え、2人は睨みあった。


 


 だが、登戸はステップを踏まない。


 構えはボクシングだが、べた足だ。


 いわゆる空手スタイル。


 彼女のしなやかな身体は、村雲より10㎝ほど長身である。


 そのため村雲は向かい合うと、身長差以上のプレッシャーを受ける。


 


 しかし村雲は臆さずにステップを踏み続けた。


 そうすることで登戸の圧力を、木立を抜ける風に散らす。


 彼女は登戸を中心に、半分ほどの時計周りをする。


 2人を包む大気の中で、見えない均衡が臨界を迎えるのを、村雲は肌で感じた。



 「しゃあっ!!」


 と叫んで、村雲は登戸の右にステップインをする。


 村雲の顔面目掛けて、登戸の左ストレートが放たれた。


 上体を沈めかわす村雲の額を、登戸の拳がかすめる。


 村雲は腰を大きく回転。左鉤突き。


 拳の軌道は半円に近い弧を描き、登戸の右レバーを目指す。


 ここまでは昨日と同じだ。


 そして、ここからが違った。


 


 登戸が右に半歩踏み込む。


 村雲の拳の衝撃をずらし、両手で彼女の首を上から押さえる。


 左膝蹴り。ムエタイスタイル。



 物凄い膝蹴りが、村雲の顔面に迫る。


 鼻に直撃したら軟骨が潰れて、嫁に行くのが遅れそうだ。



「りゃあっ!!」


 雄たけびと共に、村雲は額をぐん、と振り下ろす。


 膝を額で受けたのだ。



- 毎朝ヨーグルト摂ってて良かった。カルシウムって本当に大事だわ -



 頭部が吹き飛ぶかという程の衝撃にも、意識は飛んでいない。


 村雲は登戸の左膝を、両手で裏から抱える。


 左足を登戸の軸足に絡めた。


 そのまま左肩で、思いっきり前に押した。


 


 2人は芝生に倒れ込む。 


 登戸が仰向けで、村雲がかぶさる形だ。


 上になった村雲は、すかさず登戸にマウントを取る。


 両膝で彼女の両肩も抑えた。



「……中学の時、柔道やってたの。あんたは空手だよね」


 


 こう言ってから、村雲は拳を振り上げた。


 容赦なく、登戸のうりざね顔に振り下ろす。


 もうボクシングスタイルではない。


 ルール無用のバーリトゥード。


 子供の喧嘩みたいな形だ。いや、元々これはただの喧嘩だ。



 村雲はひたすら拳を振り下ろす。


 だが、腰の入ったパンチではない。


 登戸はガードするが、5のうち1は当たる。


 3発が当たった時点で、登戸は村雲がロックした肩を押しのけて、顔を背けた。


 すかさず、村雲は彼女の背の横にまわり、後頭部から、顎の下に腕を滑り込ませ、腕をクロスさせる。


 


 チョークスリーパーだ。


 これが決まると、意識は落ちる。


 実際、彼女は3秒で落ちた。



 村雲の腕の中で、登戸の首がふにゃりと力が抜けて、逆に腕に頭部の重さを感じる。


 この時、村雲は何故か泣きたくなった。



 腕を解く。


 登戸の横で仰向けになって、木立で覆われた上空を見上げる。


 葉の隙間から見える空の青が濃く、眩しい。


 


 村雲の額がじんじんした。


 


 ― めっちゃ痛かった。―



 村雲はため息をついて、立ち上がる。


 横向きに気絶している登戸の肩を押して仰向けにし、踵に回り込んで、両足を上げる。これは、気絶の正しい蘇生法だ。



 ほどなくして、登戸の瞼が開いた。


 上体を起し、喉を涙目で押さえる彼女に、村雲はしゃがみ込む。


「あたしはあんたに勝った。柔道使ったけど、あんたも空手とかムエタイ使ったから、お互い様。だから勝ちは勝ち。もう、飴玉を探すのは止めて」


 登戸は返事をしない。代わりに、涙目の瞳が大きくなった。


 村雲は苦笑する。


「夢の中で変な男に思い出盗まれたでしょう。で、色々むしゃくしゃして、変な飴玉に手をだしちゃった。それで、もっと辛くなった。最近のあんたの事で、分かるのはこれだけ。けど、今のあんたの気持ちはすっごい分かる」


 登戸は何も言わなかった。


 が、村雲は不安に思わない。


 彼女の瞳に、光があったからである。


「悔しいよね。ずっと負かし続けたあたしに、さっき、あんたは負けた。すごい悔しい。男に盗まれた思い出は戻らないけど、今日のあんたには悔しいって感情と、思い出が生まれた」


 村雲は立ち上がった。



「あたしは大学で総合格闘やる。あんたもやんなよ。大会出たら、あんたとあたしはいつかは『当たる』。あんたには負けるつもり無いけど、リベンジしたいなら、その時にして」


 登戸は上目遣いに村雲を睨んだ。激しく奥歯を噛む。


 拍子に目じりからその頬に、涙の滴がいくつも伝った。



「……分かった」


 そう応えた彼女の瞳の底には、復讐者の光があった。


 確固たる意思の炎。それは生者の特権である。



「……じゃあね」


 村雲は三白眼の瞼を優しく落として登戸に微笑み、踵を返した。


  



「終わったか」


 遊歩道を歩いていると木陰から、七三分けの男が現れた。


 岡田だ。両腕に黒猫を抱いている。


 村雲はその黒猫をしげしげと眺めた。



「上手くいったんだ?」


「ああ」


「……本当に、猫だったんだ」


「俺も盲点だったよ」



 それは昨日の話である。


 村雲が出口の無い店での男とのことを語り終えると、岡田は親指の爪を噛んで俯いた。ヒトではない、ヒトではない、か……とぶつぶつと呟いている。


 ひとしきり呟いた後、2人はイルカの建物を後にして、坂を迂回し、繁華街に戻った。その途中、村雲は友人にラインをし、謝りの言葉と、先に帰って欲しいという旨を伝えた。


 繁華街に至る直前、岡田は、そうか、と言ってビルに区切られた天を仰いだ。



「お師匠は死んでるんだ。そしてあの人はクールないいかっこしいだが、自分をヒトじゃない、とか中2病な事は絶対に言わない。つまり」


「つまり?」


「記憶を抜いて回っているのは、お師匠の『イメージ』だ。誰かの記憶が人格みたいになって、悪さをしているんだ。その記憶はヒトではないモノとごっちゃになって、詰めを甘くしている」


 岡田は村雲に向き直った。


「何か見なかったか? あの店の夢を見る前に」


「……猫?」


「それだ!!」


 誰かの記憶は猫に宿る。猫と人間は違う。人間ほどの知能はもたず、本能で生きる。だからこそ、飴玉を作るだけで放置して去り続けた。ではその猫に宿るのは誰の記憶か。夢で力を行使するもの。常に眠り続けている存在。猫に心を通わせる事ができる。そして、二椿史郎の力を受け継ぐ者。つまり彼の娘だ。


 眠る彼女に記憶を埋め込まれた猫は、獲物を次々と変える。獲物と縁のある、次の獲物を、猫は観察し続けるだろう。つまり、猫の中の記憶が興味を持つような事をすれば、猫はおびき出せる。その後は、岡田の仕事だ。



 ……遊歩道を連れ立って歩きながら、村雲は岡田に訊いた。


「その猫どうするの?」


「連れて帰って、何とか『記憶』を吐かせる」


「良かった」


「?」


「処分するとかだと可愛そうだから」


 岡田は笑った。


「俺は犬派だけどな。命は大切にするよ。でも、目的は別なんだ」


「?」


「吐かせた記憶をお師匠の娘さんに戻す。多分、目が覚める。そうしたら、夢は力を失い、世の中から脅威が1つ消える」


「そうかあ。めでたしめでたし、ね」


 村雲は、おでこをさすりながら、笑顔を作った。


 岡田も微笑む。


 間を置いて、彼は黒猫に視線を落とした。


 頭を撫でながら、ため息をつく。


「まあ、正直気が重いけどな。あの子が起きたら、悲しみと向き合わなければいけない。それに、能力で記憶を暴走させたのは、あの子の深層意識だ。つまり、『わたしが寝たきりで、他の人が幸せなのを、お父さんが許すはずがない』って事だ。無理やり言葉にするならな」


 村雲は分からない。


「7歳でそんな事、考えるのかな?」


「7歳だから考えるんだよ。子供はもともと残酷だ。色々なものにくじけて、それでも頑張って、世の中と向き合い続ける事で、優しい大人になっていくんだよ」


 岡田はそう話してから遠い目で、天を仰いだ。




……翌々年の夏。


 国立大学生、村雲奈菜花は、リングの上で拳を構え、登戸千鶴と向き合っていた。


 総合格闘のアマチュアリーグ、県代表本選だ。


 


「村雲お! 気合入れろおおお!!」


 


 大内先生の声が鼓膜に届く。


 観に来てくれたのだ。めっきり皺が増えた先生だけど、相変わらず声はうるさい。



 村雲は、顎を引いた上目遣いで、登戸千鶴と目を合わせ、目だけで笑った。


 余裕をみせたいとかじゃない、ただ、ずっと待っていた。


 そういう笑いだ。



 登戸も笑みを作った。


 武者震いを招く、凄みのある笑みだ。


 


 が、村雲は震える代わりに、


「しゃあっ!!」


 と叫んで、登戸の右にステップインをした。


 インターハイ県予選決勝。


 登戸千鶴の息は切れ切れになって久しかった。

 彼女はアウトボクサーである。

 軽やかなステップでリングを舞い、的確に急所を撃ち抜く。

 これがこの少女のスタイルだが、村雲は距離を取らせてくれない。

 この四角い空間を、無限に追いかけてくる。

 

 ボクシングは空間の削り合いだ。

 なのに、この恐るべき女子高生は無理やり懐に飛び込んでくる。

 その動きに登戸はチーターを連想した。

 ぎりぎりで空間は削られてない。

 防波堤は決壊を防がれている。

 防ぐに当たって、パンチも幾つか入れている。

 ポイントは登戸がリードしている。

 けれど……。


 ― 追いつめられているのは、わたしだ。 ―


 水色のリングに倒れる自身の姿が登戸の脳裏に浮かんだ。

 まつ毛のさきまでくっきりとした、鮮やかな映像だった。


 村雲は左右にステップを踏みながら、拳を両の頬に構えた。

 上目遣いの村雲の視線が、登戸の瞳に突き刺さる。

 視線というよりも、それは意志だ。明確な覚悟だ。


 登戸は村雲に、目だけで笑う。

 余裕をみせたいとかではない。

 ギリギリの体力を、本当にすっからかんにした時に出る、笑いが、目に浮かんだのだ。


 刹那、村雲がステップインをしてきた。

 彼女の体全体が、空間を抉るような曲線を描いて、登戸は一気に距離を詰められたのだ。


 反射的に左ストレートを繰り出す。

 が、(から)された。


 わき腹に衝撃。

 熱いとか痛い、ではなく、ボーリングのボールのような重い何かが、脇腹に発生。

 全てが抉られるような錯覚。

 全身から汗が引くのが分かる。

 くの字に曲がった身体から汗から舞う汗の一粒一粒が、映画みたいなスローモーションを描いている。

 内臓が喉にこみ上げる。

 頬が、自然に膨らみ、マウスピースがぐらつく。


 それでも登戸は、視線を村雲から外さない。


 村雲は右に倒れ込むように、アッパーを繰り出してくる。

 それは登戸の頬をかすった。

 1㎝ずれていれば、顎関節が吹き飛んでそうな、そんな風圧。

 かわしざまに撃った右フックが、村雲の顎先を捉えた。

 村雲の豪打に比べれば、酷くか弱い、けれど精密な打撃。

 それが入った。


 村雲はマットにぐらりと崩れる。

 糸が切れた人形みたいだ。


 カウントが始まったが、登戸にとっては遠くの出来事のような感じがした。

 ふらふらの頭でロープ歩き、よろめきながら、両腕をかけてもたれる。

 とにかく、息を吸って吐く。

 マウスピースの位置を直す。

 そうしているうちに、村雲の瞳が開いた。


 目が合う。

 手負いの獣に見上げられている感覚。

 それは恐怖というより、どちらかと言うと、まな板の上の鯉の気分だ。

 彼女はリングロープに背を預け、両腕をかけているが、ロープが無ければ、床にへたり込んでいるだろう。


 登戸は燃え尽きた、しかし祈るような目で、村雲を見下ろした。

 見下ろされた村雲は奥歯を噛み、燃えるような激しい目で登戸を見上げ、立ち上がろうとした。

 実際中腰になりかける。


 登戸は覚悟をした。負ける。

 勝てないにしても、最後まで戦いたい。

 上がらない腕でも、ステップを踏めない足でも、それでも戦う事が、彼女の矜持だった。

 

 登戸は、息を深く吸った。

 瞬間、村雲は床に崩れ落ちる。

 彼女のコーチがタオルを投げ、それが、登戸の瞳には斬首執行直前の恩赦のような、救済に映った。

 あるいは天使の羽根。


 瞬間、登戸は床マットに崩れ落ちたいと思った。床に崩れている村雲が羨ましかった。

 脇の激痛は続いている。本当は嘔吐したいのだ。


 けれど、奥歯を噛みしめて、意識を保つ。

 淡々と振る舞う事が、3年間のライバルだった、村雲奈菜子への礼儀である。。

 

 ……インターハイ県予選決勝。

 村雲奈菜花との大一番は、登戸の第3ラウンドKO勝ちで終わった。

 当たったら顎が砕かれるような左アッパーに、右のカウンターフックを合わせることができた。



※※※


 登戸千鶴は8月初めの本選で、1回戦負けをした。

 TKO、判定負けだ。

 彼女は万全の態勢で試合に臨み、自分と同じタイプのアウトボクサーと戦った。

 1発の重さは村雲の方が重い。

 空間の取り方は登戸の方が巧い。

 手数は同じ、ポジショニングの実力も伯仲。

 ただ、相手のリーチが登戸より3㎝長い。

 そのため拳は、数発分、多く届き、結局それが勝敗を分けた。

 

 試合終了後、登戸千鶴は俯いて、コーチの慰めの言葉を聴く。

 コーチは試合内容を詳細に渡って振り返りながら、『負けてはいなかった』という事をひたすら言い続けた。

 が、彼女の心はそこになく、ただ、2か月前の試合を思い出していた。

 砲弾のような女子高生、村雲奈々子との濃密な時間。

 

 工業高校の村雲からすれば、私立進学校の女子生徒など、なまっちょろいもやしと変わらないはずだった。

 が、村雲が放つ異彩は群を抜いていた。

 その異彩と2か月前に、魂をぶつけ合ったのだ。


 ― 予選決勝でわたしが勝った時、村雲奈菜子(あのこ)はどう思ったんだろう? ―

 

 敗北は魂に響いてきて、頬を涙が自然に伝う。

 それを手の甲でぬぐいながら、登戸は村雲と話したくなった。


 その晩、彼女は不思議な夢を見る。

 翌朝起きると、何かとても大切な記憶が、喪われているのを感じた。

 それが何か分からない。

 ただ、村雲奈菜子と話したい、という気持ちは綺麗さっぱり消えてしまった。

 

 その夜、彼女は自宅を抜け出し、自転車で繁華街のクラブに向った。

 年齢を偽って入店し、音楽に合わせて身体を動かす。

 波にたゆたうクラゲのような気分で、ひたすら踊る。


 これは、ごくたまにする彼女の火遊びだった。

 火遊びといっても、仏頂面のため声はかけられないから、問題は起きない。

 が、この夜は違った。


「むしゃくしゃしてんだろ」

 金髪に顔中ピアス。前歯が上下一本ずつ欠けた男が、話しかけてきた。

 むしゃくしゃしているのは、事実だった。

 大切な何かが喪われている。だけど、それが何か分からない。

 焦り、不安、悲哀、その全ては一体となって、結局怒りという感情になった。


「『飴玉』あるぜ。とびきりのヤツだが、お試しって事で、タダでいい」

 分かりやすいやり口。

 普段なら無視をする。が、この時は違った。

 登戸は頷き、金髪に先導されて、トイレ前まで行く。

 変哲の無い、赤の飴玉を渡され、男に首を傾げる。

 男は悪戯っぽく笑った。


「ま、試してみろって。すげえから」


 本当にスゴかった。

 大切な物とか、記憶とか、この世のあらゆる物がどうでも良くなる位の多幸感。

 とても熱く濃密な感覚。全てを出し切った後にこそ到達できる境地。

 

 ……登戸は飴玉の虜になった。

 

 翌日、貯金を全額下ろしてクラブに向う。

 男を探し、金を渡して、ありったけの飴玉を買った。

 そして、その晩に全て舐め切ってしまう。

 飴玉は固いが、舌の上にのせると、一瞬で溶けるのだ。


 その夜、登戸は親の財布から金を盗み出し、やはりクラブに向った。

 が、男は

「もう、在庫ねえよ」

 と言って肩をすくめて笑うのみ。

 それは価格を釣り上げる方便だとか、口実に何か怪しい事をさせる、とかそういう事ではなく、本当に

無い様子だったので、彼女は落胆した。

 が、仕方ない。

 それならば、自力で探すのみである。


 

※※※


 怪しい界隈のイルカのホテルに向かいながら、登戸千鶴は不快を感じていた。


 彼女が現在腕を組んでいる男とネットで接触したのは3日前だ。


『飴玉』は高価で、品切れ状態だから、女子高生に卸すには無理がある。が、10万円に加えて特別な事をしてくれるのなら、融通は出来ると、男は彼女に伝えた。


 この時、登戸は元彼の笑顔を思い出す。

 それは、初めてのキスの時に、彼が見せた笑顔だった。

 その先の経験、時間、空間、匂い、汗や湿りの感覚も思い出す。

 それから、別れの時の握手も。

 吹奏楽部の彼と登戸の握力は互角だったが、彼女の方が強く握った。

 本当は別れたくなかったのだ。

 高校が違うという理由は、そこまで大きなものには思えなかった。

 好きな子ができたんでしょう、と問い詰めたい。

 けれど、彼女は訊けなかった。

 だからその問いを、握力にこめた。

 

 あの時の感触は、今でも彼女の手の内側に残っている。

 整理はついたはずなのに、とても鮮やかな記憶。

 インターハイで負けた翌日に喪われたのは、彼との記憶ではないらしい。


 登戸は、初めての相手が彼で良かった、と思った。

 未経験だったら、男の提案に、彼女はもっと葛藤するはずだったからだ。

 彼女はモニターの向こう側の提案を受け入れた。

 

 待ち合わせ場所は、県庁所在地の駅。

 大人っぽい身なりをしてくるように、との指示も受ける。


 こうして現在、登戸は15分前に駅で待ち合わせた男と、腕を組んで歩いている。

 男は中年で、組んだ腕は汗でべとついている。

 体臭は彼女の鼻の奥をつき、生温い黴が上ってくるような錯覚を覚えた。

 何より不快なのは、男が肘を胸に押し付けてくる事だ。

 その度に、男の息は荒くなる。


 登戸は不快に眉をひそめたくなるが、代わりに微笑む。

 彼女は、仏頂面の登戸は怖いからもっと笑え、と元彼によく言われたのを思い出す。

 あの頃は、そういう努力に慣れていなくて戸惑ったが、戸惑えた事も幸せだった。

 今の彼女には、戸惑いは無い。

 その胸には『飴玉』希望だけがある。

 この希望は、何ものにも優先するのだ。


 ……この忍耐は、イルカのホテルの前で限界を迎えた。

 身体を自由にさせる前に、確証が欲しい。

 一個舐めて、安心したいと思ったからである。

 

 飴玉を探している間、登戸は副作用を実感した。

 もう何も楽しくないのだ。視神経は色彩を感知するのに、脳が刺激を覚えない。

 あらゆる感覚に対して、何の感動も覚えなくなってしまったのである。

 飢餓感を覚えるのは、飴玉に対してだけだ。

 後はどうでも良い。

 

 そんな彼女に、男はいやらしい笑みを浮かべて、

「仕方ねえな」

 と言ってながら、バッグから白い錠剤を1つ取り出した。

 飴玉ではない。

 錠剤だ。


 登戸は激昂した。

 その声は声になる代わりに、拳となって男を襲った。

 脇、腹、顎、腹、ステップ、脇、腹、顎……。

 怒りは、絶望は登戸の肢体を衝き動かす。


 男の唇は瞼はみるみる腫れあがる。

 拳が脇に突き刺さる度に、みしり、という感触が彼女の拳骨を伝う。

 が、止めない。

 死ぬまで止めないはずだったが、 ()めが入った。

 見知らぬ男だった。

 若い。七三分け。

「止めろ。死ぬぞ」

 

 登戸は構わなかった。

 むしろ彼女は、お前も殺してやる、と思いつつ男の腹に拳を繰り出した。

 ブローの先は、肝臓にクリーンヒット。

 男の身体はくの字に曲がる。

 この時、登戸には何の感情も生まれなかった。



「登戸千鶴っ!」

 女の子の声が、登戸の声を叫んだ。

 視線をやると、インターハイ予選の相手、村雲だった。

 だが、彼女との記憶が無い。

 知識としてはあるのに、予選の記憶がすっぽり抜けている。

 が、彼女は動揺を覚えなかった。

 飴玉に比べれば、そんな記憶の欠落など、些事に過ぎない。

  

 村雲がこちらに駆けて来る。

 登戸は視線を村雲に据えたまま、七三男の顎先にジャブ。

 男はアスファルトに崩れるが、やはり彼女は彼を見ない。

 視線の先は、あくまでも村雲だ。

 両手の拳を握り、構える。

 登戸は村雲より10㎝ほど長身である。

 リーチも長い。

 

 突進してくる村雲に、登戸は左ストレートを放った。

 上体を沈めかわされる。拳は村雲の額をかすめたのみだ。


 登戸の膝が、意志を持つ生き物のように動いた。

 覚えのある感覚。

 村雲は大きく体を捻っている。

 リバーフックだろう。が、膝の方が疾い。

 腰と共に小さな弧を描いた膝の先は、綺麗に村雲のこめかみに入った。

 

 彼女は横方向に吹っ飛び、肩からアスファルトに崩れる。


 登戸は、半身になったまま、つまり腰の上まで左膝を上げたまま、村雲を見下ろしている。

 ストレートをかわされた瞬間、彼女の膝は自然に動いたその感覚を反芻してみた。

 特に何の感情も湧かない。

 ただ、記憶だけが甦る。


 中学の時の記憶だ。

 空手をやっていたし、夜にはムエタイの教室にも通っていた。

 体が覚えている、その記憶。


 登戸のしなやかな肢体はムエタイ向きだったし、動体視力も優れていた。

 が、細身すぎて重いパンチが打てない彼女は、高校でボクシングに進んだ。

 ずっと忘れていた動きだった。

 が、何かとても大切な、高校ボクシングの総括と言えるような記憶がなくなったからだろう。

 代わりに中学の空手を、身体が思い出したのだ。


 登戸にとってそれは驚きだったが、感動ではない。

 ただの事実である。

 膝をこめかみにまともに受けて、地にはいつくばる村雲奈菜子は、呼吸する肉の塊であり、それ以上の意味を持たなかい。

 だから登戸は感情なく、村雲を見下ろしたのだ。

 飴玉が無い以上、もうここにいる意味はない。

 

 登戸はくるりと踵を返した。



 ……登戸は坂を下ってから、繁華街を抜け、駅に至ったが、その時点でバッグから財布が消えている事に気が付いた。

 どこかで落としたのだろうか。

 男2人と少女を1人、派手に打ちのめしたのだ。

 財布を落としたのなら、そこだろう。

 と、登戸は思ったが、戻る気にはなれなかったので、彼女はそのまま自宅まで歩くことにした。

 照りつける陽は強い。身体は水と塩分を欲している。

 が、それ以上に強いのは、飴玉に対する飢餓感だ。

 彼女は一度眉をひそめてから、自宅に続く路。

 市立病院の前を通る大通りを歩き出す。


 その晩、村雲奈菜子から電話があった。

「財布落としたでしょ。拾ったの」

 電話の向こうの声には、微かな緊張が浮かぶ。

 そりゃ、昼間に叩きのめしたのだ。恨みも抱いているだろう。

 けど何故電話して来るのか分からない。

「だから、明日届けてあげる」

 そういう言葉つらなりの後で、電話は切れ、登戸は自家用電話に視線を落としながら、眉をひそめた。 


 ……翌日、村雲が、本当に登戸の家を訪れたてきた。

 彼女は、下はベージュのジャージ、上は黒無地のTシャツというラフな格好をしていたが、その切れ長な三白眼の底には、意志の炎が燃えている。

 

 登戸を見上げながら、村雲は財布を差し出してきた。


「はい」

「……ありがとう」

「ね、登戸さん。付き合ってよ、公園」

 登戸は意味が分からない。首を傾げる。

 三白眼の少女は満面の笑みを作った。

「わざわざ電車乗って来たんだよ。……歩きながら、話そ?」

 登戸は眉をひそめるが、村雲は構わないようだ。

「学校に言うよ? 昨日のこと。あ、警察でもいいけど」

 登戸の眉根は、ますます歪んだ。

 敵意。

 そう、胸の内に久しぶりに燃える感情。

 これは敵意だ。

 いいだろう、昨日みたいに、打ちのめしてやる。


「あ、ジャージに着替えてね。それくらいは待つから」

 村雲が笑みを作ったので、登戸はその鼻っ柱に左ストレートを入れたい衝動に駆られた。

 が、耐えて、

「待ってて」

 と言って自室に踵を返した。


 2人は蝉の音の中、連れ立って歩く。

 程なくして公園に到着し、そのまま緑の木陰を進む。


「予選決勝から、結構たったよね」

 村雲が、ぽつりと呟くが、登戸に、返事をする気は起きない。


「色々言いたい事はあるけど、とりあえず、……ここかな」

 村雲は立ち止まり、遊歩道の芝生を見渡した。

 樹がまばらだ。突き当たりのため、人も見当たらない。


 村雲が先に踏み入り、登戸はその後に続いた。


「昨日しこたまやられたってのもあるけど」

 両指を組み合わせて、上空に向けて伸びをしながら、村雲は続ける。

「登戸さんが、被害者なのは分かる」

 

 どういうことだろう。

 飴玉か。欠けた記憶か。

 この三白眼は、何を知っているのだ?


 脳内に疑問が渦巻き、登戸の黒い前髪の下の瞳は、自然と大きくなった。

「でも、このままじゃ、あたしも、あたしの恩師のつるっぱげも被害者になっちゃうと思うんだ。だから」

 登戸に向い、村雲は両手の拳を握り、構え、ステップを踏み始める。

「登戸さん、あんたを止める。あたしが勝ったら、言う事きいてね」

 

 登戸は構えた。

 そう、何を知っていようが、今ここで打ちのめす事は変わらないのだ。


 2人は睨みあう。

 

 だが、登戸はステップを踏まない。

 構えはボクシングだが、べた足だ。

 いわゆる空手スタイル。

 中学の記憶が強い今は、こちらの方が滑らかに体が動いてくれる。

 それは昨日確認済だ。


 しかし村雲はステップを踏み続け、視線だけを投げて来る。

 彼女は登戸を中心に、半分ほどの時計周りをする。

 2人を包む大気の中で、見えない均衡が臨界を迎えるのを、登戸は肌で感じた。


 「しゃあっ!!」

 と叫んで、村雲が登戸の右にステップインをしてきた。

 登戸は村雲の顔面目掛けて、の左ストレートを放つ。

 上体を沈めかわされた。拳だけが、村雲の額をかすめる。

 村雲は腰を大きく回転。登戸の右レバー目がけて、左鉤突きを放ってくる。

 半円に近い弧を拳の軌道が描いてくるのが分かる。

 

 昨日と同じだ。

 学習能力が無いな。この三白眼のお嬢様は。

 

 

 登戸はそう思いながら、右に半歩踏み込んだ。

 村雲の拳の衝撃をずらし、両手で彼女の首を上から押さえる。

 左膝蹴り。ムエタイスタイル。


 鼻の軟骨を潰してやる。

 後悔するがいい。


 渾身の膝蹴りを、村雲の顔面に放つ。


「りゃあっ!!」

 声が響いた。

 膝の皿に衝撃。額で受けられたのだ。


 村雲の両手が登戸の左膝に伸びる。

 登戸は膝裏に両腕を挿し込まれた。

 軸足に左脚を絡められる。

 左肩を腹に押し付けられ、肘打ちを村雲のうなじに振り下ろそうとした瞬間。


 ぐん!


 と木立で覆われた上空が視界に覆いかぶさって来た。

 

 芝生に仰向けに倒された。 

 のみならず登戸は、村雲にかぶさっている。

 有無を言わさず、村雲は登戸にマウントを取ってきた。

 登戸の両肩は両膝で抑えられる。


「……中学の時、柔道やってたの。あんたは空手だよね」

 

 この言葉と共に、村雲が振り上げた拳が、ズームアップ。

 容赦なく、登戸のうりざね顔に振り下ろされる。

 

 土砂降りの雨のように感じた。。

 腰の入ったパンチではない。

 ガードは出来なくもない。

 が、数が多すぎる。


 登戸はガードするが、5のうち1は当たる。

 3発が頬に、鼻に、瞼の上に当たった。

 登戸は恐怖を感じ、村雲がロックした肩を押しのけて、顔を背けた。

 村雲の気配を背に感じる。

 後頭部から、顎の下に彼女の腕が滑り込んできた。首が締まる。

 

 チョークスリーパー。

 登戸の意識は、木立を透かす陽光の中で、白く消失した。


 気が付くと、村雲が登戸を見下ろしていた。


 登戸は上体を起し、喉を押さえる。存在を確かめたいのだ。

 視界が涙で滲む。

 彼女に、村雲はしゃがみ込んだ。


「あたしはあんたに勝った。柔道使ったけど、あんたも空手とかムエタイ使ったから、お互い様。だから勝ちは勝ち。もう、飴玉を探すのは止めて」


 登戸の涙目の瞳が大きくなった。

 この子は……。知っているのだ。

 やはり、知っている。


 登戸は苦笑された。


「夢の中で変な男に思い出盗まれたでしょう。で、色々むしゃくしゃして、変な飴玉に手をだしちゃった。それで、もっと辛くなった。最近のあんたの事で、分かるのはこれだけ。けど、今のあんたの気持ちはすっごい分かる」

 

 分かるとか分からない、ではない。

 けど、色々な事情を分かった上で、この子は私に挑み、そして、私はこの子に負けた。


 登戸の瞳に、光が宿る。

 村雲の言葉は続く。


「悔しいよね。ずっと負かし続けたあたしに、さっき、あんたは負けた。すごい悔しい。男に盗まれた思い出は戻らないけど、今日のあんたには悔しいって感情と、思い出が生まれた」

 村雲は立ち上がり、登戸は彼女を見上げた。


「あたしは大学で総合格闘やる。あんたもやんなよ。大会出たら、あんたとあたしはいつかは『当たる』。あんたには負けるつもり無いけど、リベンジしたいなら、その時にして」

 登戸は上目遣いに彼女を睨んだ。激しく奥歯を噛む。視界がまたぼやけた。

 拍子に目じりからその頬に、涙の滴がいくつも伝った。


 悔し……い悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい!

 感情が登戸の胸中を反響、増幅する。

 絶対に、復讐してやる。この屈辱を、晴らしてやる。


「……分かった」

 そう応えた彼女の瞳の底には、復讐者の光があった。

 確固たる意思の炎。それは生者の特権である。


「……じゃあね」

 三白眼の瞼を優しく落として踵を返す村雲の後ろ姿を、登戸はいつまでも睨み続けた。

  


 ……翌々年の夏。

 専門学生、登戸千鶴は、リングの上で拳を構え、村雲奈菜花と向き合っていた。

 総合格闘のアマチュアリーグ、県代表本選だ。

 

「村雲お! 気合入れろおおお!!」

 

 村雲の元コーチの声が登戸の鼓膜に届く。

 

 嬉しそうな顔して。その顔は、3分後には泣き顔になっている。

 今度はお前が、屈辱を感じる番だ。

 


 村雲が、顎を引いた上目遣いで、登戸千鶴と目を合わせてきた。

 目だけで笑ってくる。

 余裕をみせたいとかじゃない、ただ、ずっと待っていた。

 そういう感情が伝わってくる、笑いだ。


 登戸も笑みを作る。


 復讐してやる。

 鼻の軟骨も潰してやる。

 何より、長い屈辱を晴らしてやる。

 私は勝者になるのだ。

 

「しゃあっ!!」

 と叫んで、村雲が登戸の右にステップインをしてくる。

 登戸は迎撃の左ストレートを繰り出した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ