エピローグ
「だれが気にするもんですか」と、アリスは言いました。「あんたたちなんて、ただのトランプじゃないの!」
そう言ったとたんに、トランプたちはいっせいに宙に舞い上がり、アリスめがけて飛びかかってきました。アリスはこわいやら腹が立つやらで小さな悲鳴をあげ、カードをはたき落とそうとしましたが、気がつくとお姉さんのひざに頭をのせて、土手の上に寝ていたのでした。
『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル作、脇明子訳)
――七か月後、コルカタ――
俺は六十五番街の路地裏で、三人組のちんぴらが女を襲っているのをみつけた。
よくある光景だ。政治経済が崩壊し、社会インフラが停止し、秩序が失われた今のご時世――特に、警察が治安維持を放棄し、積極的に略奪する側に回ってからというもの――「弱肉強食」が世界のデフォルトだ。弱い者は、力ある者に食らい尽くされる。それを抑える法律もモラルも、もはや存在しない。
だが、よくある光景だからといって、見過ごすわけにはいかない。
俺はちんぴらたちを女から引きはがした。二人を路地の壁に叩きつけ、残る一人のみぞおちに手加減なしの拳を入れて悶絶させた。
[ダイモン]消滅後、素手で戦う機会がめっきり増えたので、今では弱っちい三人組ぐらいなら呼吸も乱さずに倒せる。その程度の人数差ではハンデにもならない。
通行人の多い表通りまで女を送ってやり、「一人で帰れるか」と尋ねると、女はふるふると首を横に振った。
「あの。すみません。もう少しだけ一緒にいてくださいませんか。一人になるの、怖くて……」
震えて聞き取りにくい声。女の目から涙が落ちた。
それも珍しい反応ではなかった。
「この近くにガイナント伝道教会の聖堂がある。親切な教父もいる。そこへ行くか?」
俺の言葉に、女が何度もうなずいたので、教会へ連れていくことにした。
歩き始めた俺たちの進路を、漆黒の影が遮った。
そこには、めかし込んだマウンテンゴリラが立っていた。曲線的な仕立ての、ショッキングピンクのスーツを着込んでいる。趣味の悪いそのスーツの上には、厳つい顔が載っていた。左頬を縦断する派手な傷跡のせいで、凶悪さが五割増しぐらいになっている。
女が怯えたように俺の背中に隠れた。まあ当然だな。
「あいかわらず大災厄クラスの顔面をしてやがるな。前より箔がついたんじゃねえか?」
「久しぶりね、リデルさん。元気そうで安心したわ」
かつて四十二番街で『媽媽的店』を経営していた茅尚ママが、頬の傷に指先を触れ、不気味に微笑んだ。
真新しいスーツを着ているところを見ると、羽ぶりは良さそうだ。
[ダイモン]の消滅と同時に、全世界の通貨も、[ダイモン]から人類に提供されていた無尽蔵の技術データベースも消滅したので、世界中の全企業が大打撃を受けた。そのときに崩壊した生産流通システムは、今もまだ復旧しきれていない。その結果、世間に新品の服などほとんど出回っていない。
「六十五番街一帯を仕切ってる、おっそろしく強いアリスって男がいると聞いたんだけど。リデルさん、知らない?」
「アリスは俺だが。仕切ったりはしてねえぞ」
「大勢の女を集めてハーレムを作ってると聞いたわよ?」
「……その噂を流してる奴を連れてこい。ぶん殴ってやる。適当なこと言いやがって」
俺の言葉をさらりと流し、茅尚ママは妖怪めいた仕草で小首をかしげた。
「仕事のオファーに来たのよ。……私ね、暫定政府の配給局の役人から基本栄養食を横流ししてもらって、闇市で売りさばいてるんだけど。貴重な商品なので、悪い奴らにしょっちゅう狙われるの。命がいくつあったって足りやしない。安全な商売のために、腕の立つ用心棒が欲しいのよね。
報酬ははずむわよ? 配給受給者証七枚でどう? 偽造じゃない、配給局が発行した本物の受給者証よ。悪くないでしょ?」
配給品の売りさばきとは――このゴリラ、あいかわらず暗い場所で商売してやがる。
通貨が消滅した結果、それまで補助的な手段でしかなかった現金が今では広く使われているが。買うべき物が存在していないので、金を持っていてもあまり意味はない。産業の崩壊で、世間ではありとあらゆる物資が欠乏しているのだ。
[ダイモン]が運営していた基本栄養食の自動工場と、食品を都市へ運ぶための自動列車を、人力で稼働させるのに三週間かかった。それまでの間、世界中で大勢が餓死した。
現在、コルカタ暫定政府は市民に配給受給者証を配り、基本栄養食をはじめとする生活必需品の配給制度を敷いている。
配給は、量が少なく、遅れがちだ。人は、足りない物を買うために闇市へ走る。闇市へ行けばどんな物でも手に入る。そのほとんどが後ろ暗い所から不正に流れてきた物資だ。
闇市での買い物の基本は物々交換だ。現金での支払いは歓迎されない。
配給受給者証を七枚余分に持っていれば、七人分の食糧や物資を定期的に受け取れる。それは現金よりはるかに大きなメリットだ。余分に手に入った物資を闇市に流すこともできる。
しかし――。
「悪いが他をあたってくれ。俺は、いま手が届く範囲を守るだけで精一杯だ」
「報酬、七枚じゃ足りない? もう一枚追加しましょうか?」
「そういう問題じゃねえんだよ。ここには俺を頼りにしている人たちがいる。置き去りにはできねえ」
「『頼りにしてくれている人』、ねえ……」
ママは、ふふっと笑った。その怪奇な面相を見た女が恐怖に喘いだ。
「あなた変わったわね、リデルさん……いえ、アリス。ずいぶん変わった」
「『周りに手を差し伸べろ』と、あんたも言ってただろ。忘れたか?」
茅尚ママはそれ以上追求してこなかった。ママがひさしぶりにティリーの顔を見たいと言うので、俺たちは連れ立って教会へ向かった。
街には、この数か月、嵐のように荒れ狂った暴力と略奪の爪痕がはっきりと刻み込まれている。道路に面したすべての店舗や事務所は窓を叩き割られ、看板や扉を持ち去られ、時には放火された焦げ跡をさらしている。中にあった商品や什器は根こそぎ奪われ、からっぽの空間がむなしく口を開けている。
管理清掃ロボットの巡回がなくなったので、舗道はごみや動物の糞だらけだ。大量の蠅が耳ざわりな羽音を立てて飛び交っている。道路の真ん中には馬車の残骸が打ち捨てられたままになっている。
何よりも厄介なのは、この暑さだ。
肌を直火であぶるような苛烈な日光が容赦なく降り注いでくる。
これは俺たちが生まれて初めて経験する本物の夏だ。かつては[ダイモン]が俺たちの知覚情報を調整していたから、一年を通して、体感温度にほとんど差はなかった。この七か月、人類は「夏」「冬」という語の本当の意味をいやと言うほど痛感させられている。
「暑い」ということが、これほど体にこたえるものだとは知らなかった。弱っている者なら命を落としかねないレベルだ。
教会は、六十六番街と六十五番街のちょうど境目のあたりに、古びた姿で佇んでいた。
聖堂の横の路地を奥へ入って行くと、裏庭に出る。日当たりの良いその裏庭では、暑さをものともせず、十四、五人の子供たちが歓声をあげて駆け回っていた。その中に、長い金髪をなびかせて走る小さな姿も交じっている。
裏庭の隅にこしらえた畑に水をまいていた教父が、近づいてくる俺たちに気づき、淡く微笑んだ。
「お帰りなさい、アリスさん」
――ガイナント伝道教会のこの教父とは、二年越しの顔見知りだったが、これほど深いつき合いになるとは思ってもいなかった。
[ダイモン]消滅後、俺は、街で困っている人たちを見かけるたびに助けてきた。放っておけなかった。世界の終わりに手を貸したのは、まぎれもなく俺だ。目の前の人々の困窮は俺のせいだ。そう思うと体がひとりでに動いた。荒くれに襲われている女子供、略奪を受けている商店を見るたびに、救うために割って入った。
一方、教父は、行き場のない人たちのためのシェルターとして教会を提供していた。
[ダイモン]消滅直後の大混乱で、大勢の市民が命を落とした。街には孤児があふれていた。教父は身寄りをなくした子供たちを引き取り、教会に住まわせていた。
教父たちが夜盗に襲われているところに出くわしたのがきっかけで、俺は用心棒として教会に住み込むことになった。
「守ってほしい」と様々な人が寄ってくるようになった。教父が気前よくそいつらを引き受けるので、シェルターで暮らす人数は増える一方だった。ふくれ上がる集団を見て、少数だが「手助けしたい」「一緒に守りたい」という奴らも現れた。
つまるところ、人には群れたがる本能がある。それは、人類がひ弱な裸の猿だった頃からの生存戦略だ。明日が見えないこんな時代には、誰もが誰かと力を合わせたくなるんだろう。
俺は、女を教父に紹介した。教父は「冷たい飲み物でもいかがですか」と、女を教職舎へ導いた。
教職舎には――ハーレムではないが――いつも何人かの女が身を寄せている。襲われていた女も同性に囲まれれば安心できるだろう。
ティリーが遊びの輪から抜けて、まっしぐらに駆けてきた。どしんと音がするような激しさで俺の腰にぶつかってきて、抱きついた。
見れば見るほど昔のレジィナにそっくりな顔が、目を輝かせて俺を見上げる。澄んだ声が明るく叫ぶ。
「アリス! お帰り!」
ティリーちゃん、大きくなったわね、と茅尚ママが感じ入ったように叫んだ。ティリーは、最後に会ったときより傷が増えている猟奇的な顔を見ても少しもひるまず、無邪気な笑みをママにも振りまいた。
茅尚ママはしゃがみ込んで目線をティリーと合わせた。
「久しぶりね。元気だった? 楽しくやってる?」
ママの質問に、ティリーはうなずいた。暴れていたので、まだ息を弾ませている。
漆黒のゴリラは、こわれものに触るような手つきで、分厚い掌をそっと金髪頭に載せた。
「またいつか、ティリーちゃんに私のドルチェを食べさせてあげたいわねぇ」
しんみりした口調でつぶやいた。
「いつもおいしそうに食べてくれたものね。また、たくさん作ってあげたいわ」
「……」
ティリーは髪を撫でられながら、無言でにこにこしている。
「ねえ、そんな日が、また来ると思う? ちゃんとした材料と道具を使って料理を作れるようになる、そんな日が?」
急に質問を投げかけられ、俺はママを見下ろした。腕の一振りで五人ぐらい瞬殺できそうな筋肉達磨が、やけに真剣な表情で俺をみつめていた。
心が痛んだ。
やってしまったことを後悔はしていない。何度同じ状況になっても同じ決断をするだろう。だが、[ダイモン]消滅のせいで、大勢の人々が苦しんでいる現状は、心にこたえる。電脳を破壊しろとティリーを促したのは、俺だからだ。
いくつかの宗教の経典に、人が楽園から追放される原因を作った奴らの話が出てくる。俺はそいつらの気持ちがわかる気がする。
七か月前に人類に起きたことは、まさしく「楽園追放」だ。人類という家畜を、行き届いた快適な檻の中で飼育してくれていた飼い主が消えたのだ。
「来るだろ、たぶん」
ママの強い視線に耐えながら、俺は答えを絞り出した。
「人間は図太い。これまで疫病も世界大戦も異常気象も乗り越えてきた。あの大転換期からでさえ立ち直ったんだ。今回だって立ち直れるさ」
「……だといいけど」
茅尚ママは分厚い唇を曲げ、ほろ苦く笑った。
裏庭を囲う急ごしらえの有刺鉄線のフェンス越しに、広い道が見える。その道を、揃いの山吹色の制服を着た十数人の男女がぞろぞろと歩いている。ブラーフモ・ドクトリンの説法師の制服だ。道に散乱するごみを拾って回っている。道端にしゃがみ込んで雑草を抜く者、器具を使って動物の糞を集めている者もいる。
この教団の奉仕活動を、最近よく目にする。公園で炊き出しをやっていることもある。
教父に聞いた話だと、ブラーフモ・ドクトリン内部で半年ほど前にクーデターが起きたそうだ。緊急事態に対応できない上層部に、若手の下級説法師たちが反旗を翻した、という。
なんとなく、ハクト・イナバの顔が目に浮かぶ。あいつもクーデターに関わっているのか?
この界隈でも、廃材をかき集めて作られた屋台や仮設の店舗が少しずつ増えてきた。簡単な食べ物や飲み物を売る呼び込みの声が、そこかしこで上がる。香ばしい揚げ物の香りが、辺りに充満する糞尿の臭いの中で、心地よいアクセントとなる。
人は生き延びようとあがく。どんな環境でも。
どこからでも前へ進み続ける。
世界が終わっても、絶望と混乱に呑まれても、人間のあがきは終わらない。――世界を壊した俺が言うことではないが。
そして俺は、ティリーのために「まともな父親」になってやろうと決めている。
それは、レジィナが最後まで持ち得なかったものだ。もし生前のレジィナに、信頼できる――時には叱ってくれる「まともな父親」がいれば、あんな結末にはならなかったかもしれない。
引きずっているわけではないが――父親としてティリーの成人を見届ける。それが俺の使命だと思っている。
問題なのは、ティリー一人では済みそうにない、ってことだな。
俺はティリーの脇の下に手を入れ、高く差し上げた。ティリーのはしゃぎ声と同時に、わーきゃー俺も私も僕も、という叫び声が湧き起こり、子供たちがこちらへ殺到してきた。
一斉に突き出される数十本の手と暑苦しい体温に囲まれ、俺は笑いながら、陽光に満たされた青空を見上げた。【了】




