第1章(7) リデル
「……一回しか言わねえから、よく聞いとけよ。あんた、[認識界]って言葉を覚えてるか。学校で習っただろ」
「学校」の語を聞いて、ママはあからさまにひるんだ。勉強が得意なタイプでなかったことは説明されなくても一目瞭然だ。動揺した様子でエスプレッソのカップに鼻を埋めた。
「えーっと……私たちがいま見ているこの世界、っていう意味だったかしら?」
「まあ、だいたいそういう意味だな。俺たちの知覚は、俺たちの頭ん中にある[補助大脳皮質]によってコントロールされてる。俺たちが、この目で見て、この耳で聞いて、この肌で感じたと思ってるものはすべて、[ダイモン]のプログラムに従って、俺たちが『経験した』と信じ込まされているものだ。
――電脳が地球を支配する前、人間は、環境を人間に合わせて作り変えていた。周りが暗ければ、照明素子を山ほど使って明るくした。暑さや寒さを感じれば、再生不能燃料をガンガン使って部屋の温度を調整し、自分たちの快適な温度に変えた。騒音、悪臭、湿気、振動……五感の感じるあらゆる不快を、科学と技術をフル動員して排除し、人間にとって快適な環境を実現した。
今は、逆だ。[ダイモン]は、人間を環境に合わせる。[補助大脳皮質]が俺たちの五感を調整し、どんな環境でも不快を感じずに済むようにしてる。どんなに蒸し暑くて、臭くて、やかましい環境でも、それを感じないように調整されてりゃご機嫌で生きていける。電脳はいちばん安上がりな方法で俺たち人類を飼育してるってわけだ。
俺たちが知覚しているこの『現実』は本物じゃねえ……[補助大脳皮質]というフィルターを通した、調整済みの現実だ。暑くも寒くもなく、いつでもだいたい同じぐらいの明るさで、街じゅうに動物の糞が散らばっていてもにおい一つ感じない、最適化された現実。それを[認識界]というんだが」
茅尚ママの瞳が心なしかうつろになってきた。
俺は相手の顔のすぐ前で手のひらを振ってみせた。
「おい! 寝んなよ。あんたが聞きたいって言ったんだぞ?」
「ね……寝てないわよ。ちゃんと聞いてますぅ」
ママは、食虫植物の果肉のような唇を不気味に尖らせてみせた。
「いくら学校で習っても、ぴんとこなかったのよね。この世界が本物じゃないなんて。もし[補助大脳皮質]がなかったとすれば、私たちが生きてるこの世界は、私たちが感じているものとは全然違うってことでしょ? ……で、生物の授業の復習は、もう十分だわ。それがあなたの情報収集とどう関係があるの?」
「俺は、ネットワークを経由して他人の[補助大脳皮質]に干渉し、[認識界]を読み取ることができる。人の感じている世界を、そのままそっくり経験できるってわけだ。……だから、どんな秘密でも見つけ出せる。自分自身に対して隠し事をする奴はいねえからな」
俺はそこで説明を止め、熱いカップを口へ運んだ。こちらを睨み据えるママの漆黒の顔に「納得できない」の文字が大書きされているのが見えるようだった。
「信じられないわ、そんな話」
「……まあ、そうだろうな。俺も自分でしゃべってて、説得力がないと思うよ」
「小難しい話で煙に巻こうとしている、としか思えないんだけど。何か証拠を見せられる?」
面倒なゴリラだな。仕方ない。あと少しだけ手の内をさらしてやるか。
俺はママが手にしたカップをテーブルへ戻すまで待った。
「俺は他人の[認識界]を読み取るだけじゃなく、それを上書きできる。あんたで実演してやる」
target=()
run('easy_contraction')
俺がスクリプト[収納自在]を発動させるのと同時に、茅尚ママの巨体がぐらりと左側へ傾き、椅子から転げ落ちた。
「手が! 脚が! 一体どうなってるの!?」
「落ち着けよ。あんたの腕と脚は、本当はどうもなってやしねえ。……あんたの[補助大脳皮質]に、『手足が七分の一に縮んだ』と信じ込ませた。だからあんたはそれを現実として知覚する。幻覚じゃねえ。本物とまったく同じ知覚だ。
人間ってやつはみんな、自分の五感という牢獄に閉じ込められてるんだ。牢獄の外がどうなっているかを知ることは絶対に不可能だ。見ろよ、その短い手足。本当のこととしか思えないだろう?」
俺はスクリプトを解除した。手足の長さを取り戻した茅尚ママは、おそるおそる、といった感じで床から立ち上がり、椅子に座り直した。その無骨な顔に畏怖の表情が浮かんでいる。
「すごい……のね。これが幻覚剤の正体ってわけね。賭場の男たちを倒したのも……」
「今やってみせたのは、ほんの初級編だ。証拠が足りねえって言うなら、もう少しキツいのを体験させてやってもいいが。どうする?」
ハッタリだった。俺が使えるのは[収納自在]と[鏡の国]だけだ。地味なスクリプトしか使えないのが昔からの悩みだった。
だが予想通り、「結構よ」とママは首を横に振った。鍋だと思ってのぞき込んだら中は地獄だった、みたいな顔をしていた。懸命に気を取り直そうとする態度で、
「あなたはどうして、そんなことができるの? 超能力ってやつ?」
「訓練だ。そういう訓練を専門でやってる集団があるんだ」
真実を半分しか言わなかった。――半分の真実は、嘘と大差ない。
「情報を二つ」というのが当初の条件だった。それ以上サービスしてやるつもりはない。そうでなくても、すでに秘密を明かし過ぎているのだ。
「俺が今しゃべった話は極秘だ。誰にも言わないでくれ。万一この話が広まって、発信源があんただと奴らに……さっき言った集団に知られたら、奴らは口封じに来るぜ。あんたがどれだけ強くても、絶対に勝てない。それだけは保証しといてやる」
茅尚ママがどこかへ電話をかけると、十分もしないうちに、影法師のように印象の薄い、体重すら持っていないんじゃないかと思えるほど存在感のない男がアリスを連れてきた。
アリスは、どこも怪我をしていない様子だった。服装も乱れていない。手荒な扱いは受けなかったようだ。
とたたた、と足音を響かせて駆け寄り、椅子に座った俺に思いきりしがみついてきた。
――いや、待てよ。そんな「感動の再会」をされる覚えはねえぞ。
雨の夜に傘を貸してやっただけのことだろう?
ママが小刻みにうなずきながら俺たちの姿を眺めている。いかつい顔に、感じ入ったような表情を浮かべている。
「可愛い娘さんねー。あなたが取り戻そうと必死になったのもわかるわ、リデルさん。……お母さん似なのかしら? あなたとはあまり似てない……」
「やめろ。変な誤解すんな。俺の子なわけねえだろうが」
まだそんな歳じゃねえ、と言おうとして、実はこれぐらいの年頃のガキがいても不自然ではないという事実に思い至った。
ちょっと打ちのめされつつも、俺はアリスを連れて『媽媽的店』を出た。真夜中過ぎに、こんな小さなガキを連れて行ける場所なんて限られている。通りを横断し、俺のアパートへ向かうしかなかった。アリスはもう眠そうに目をこすり始めていた。
俺の部屋は狭いが、いちおうリビングにはソファがある。子供が一晩寝るぐらいならそれで十分なはずだ。
しかし、俺が予備のブランケットを探している間に、アリスは俺のベッドに潜り込んで寝てしまっていた。
あどけない顔で、唇をわずかに開いて、すーすー寝息を立てている。
こんな子供を叩き起こして「どけ」と言えるのは鬼ぐらいだろう。
そのとき、初めて気がついた。アリスのエプロンドレスの襟元に光る小さな銀色に。
ハート型のバッジだ。細かいダイヤモンドがびっしり埋め込まれており、中央に濃いピンク色の石が嵌まっている。明らかに、安物ではない。
こんな幼い子供のおもちゃにはふさわしくない。――よほど金持ちの家なら話は別だが。