第12章(11) 女王
「撃ってはいけませんよ! その男は計画の鍵なのですから!」
スナークが大声を上げた。
銃を構えた若者と初老の男はあからさまに不服そうな表情をした。
「殺さなきゃいいんでしょ?」
「命さえ残っていればいい、ってさっき言ってたじゃないですか、あんた」
俺は、歯を食いしばった。
ドローンの中にティリーがいる。[仮想野]にその存在が映っている。
ほんの十一メートル先だ。あと少しで取り戻せる。
頭が痛かろうと、耳から脳まで容赦なく抉ってくる爆音に意識に支配されていようと、そんなものは無視できる。五体に支障はない。
目の前の敵が俺に銃を向けているが、俺の運動神経は奴らに勝る。そう信じる。撃たれる恐怖で体がこわばったりしなければ、冷静に状況を見て動けば、必ず倒せる。
大事なのは自分をコントロールすることだ。
苦痛に満ちた自分を脱ぎ捨てる。肉体から離れ、上空から自分を見下ろしている己をイメージする。己は純粋な理性であり意思だ。肉体の苦しみは己には届かない。
状況を俯瞰し、チェスの駒を動かすように、勝利のために自分の体を遠隔操作するのだ。
俺の体は全力で突進した。
俺が動けるとは予想していなかったらしい。敵の反応がやや遅れた。
銃声が響き、焼きごてが当たったような熱さを腕に一瞬感じたが、たぶん肉をかすられた程度だ。俺の体は小柄な若者に激しくぶつかり、軽々と吹き飛ばした。初老の男の顔面に、今度はしっかりと肘打ちを決める。相手がひるんだ隙に、銃を持つ手首をつかみ、背中へ向かってねじ上げた。男の手から銃が落ちたが、俺はねじるのをやめなかった。まもなく骨が折れる乾いた音が響き、男が絶叫した。
スクリプト[破調賛歌]が止まり、すさまじい高音が嘘のようにさっぱり消えた。
死体の上に倒れた若者は、鼻血だらけの顔でこちらを睨んでいる。仰向けの姿勢から両手で銃を構えている。味方に当てずに俺だけを撃とうと、狙いに苦労している様子だ。
俺は、悲鳴をあげ続けている初老の男の体を、若者に向かって突き飛ばした。
銃声が響いた。
俺は硬直した。ちょうど[鏡の国]の後で、他人の体から自分の体に戻ったときのような感覚だ。
俯瞰が解けた状態で、自分の体を確認してみるが――さっきかすられた腕以外はどこにも傷はない。
気づくと、悲鳴が止んでいた。初老の男と若者は折り重なって動かなくなっていた。
初老の男の背中に、どす黒い小さな穴が開いており、そこから血の染みが急激に広がっていく。
仲間の死にざまを見て、残ったもう一人のクラブの幹部――俺に殴られた姿勢のまま体を丸めてうずくまっている少年が、情けない声を張り上げた。
「やめてぇっ! 僕は関係ない! 嫌だって言ってるのに勝手に連れてこられただけなんだっ! お願いっ……!」
俺は振り返らずにいられなかった。
観客席のいちばん下、フェンスぎりぎりのところに、ルーラント・サーフェリーが立っていた。きちんと撫でつけた髪、仕立ての良いダークグレーのスリーピースのスーツ。ここからじゃ見えねえがおそらく靴もぴかぴかに磨かれているだろう。あいかわらずの伊達男ぶりが、すべての秩序が崩壊したこの場所では、猛烈な違和感を放っている。
右手に携えているのは、たった今二人を一発で仕留めた大口径の無反動銃だ。
そして左手で、白のワンピースを着た女の体を肩にかつぎ上げていた。
ワンピースは、靴跡で汚され、ところどころ裂けていた。
靴を履いていない両脚はだらんとぶら下がり、動かない。
サーフェリーがフェンスに沿って移動すると、その動きにつれて、奴の背中側に垂れている鮮やかなピンクの長髪がちらちらのぞいた。
死んでいるのか。LCは。
サーフェリーは、命乞いをする少年にちらりと視線を投げた。しかし、殺すに値しないと判断したのか、すぐに顔をそむけた。
奴はスナークだけをじっと見据えた。俺も、それを言うならハクトも、奴の視界には入っていないようだ。
「よぉ、《♢A》。訊きたいことがあるんだがよ」
ギャングの声はしわがれ、かすれている。咳払いしてから言葉を継いだ。
「俺の子分も全員こいつのスクリプトに巻き込まれちまったのは、まあよしとしよう。逃がせるもんなら逃がしてやりたかったがよ。……だが、あんたは、こいつがまだ観客席にいるのを知ってて、《革命》とやらをおっぱじめたんだ。こいつが安全な場所へ移動するまで待とうとしなかった。なんでだ? 群衆雪崩が起きることぐらい予想できただろ? なんでもお見通しのあんたならよ」
「……」
スナークは眉をひそめてサーフェリーを見上げている。相手の言い分が腑に落ちず、困惑している人間の態度だ。
サーフェリーの声が強い感情で割れた。
「答えてくれ。俺はあんたの答えが知りたい」
スナークは鳥に似た無機的な動作で、丸い頭をこてんとかしげた。
「正直……LCのことは念頭にありませんでした。うっかり忘れていましたよ、避難させるのを。その娘の役割はもう終わりましたから」
「……………………今、何て言った?」
今度は、何を言われているかわからない、という顔をしたのはサーフェリーの方だった。スナークは大きく両腕を広げ、滔々としゃべり始めた。
「あなたともあろう人が、まさか本気でそんな小娘一人にこだわってるわけじゃありませんよね。コルカタ最大のギャング団のボスともあろう人が。……おまけに、この革命が成就した時点で、あなたは押しも押されぬ支配者階級の一員になるというのに。女など、よりどりみどりですよ。もっと美しくて賢くて、もっと……清潔な女たちが、喜んであなたの前に身を投げ出すでしょう。
あなたの感傷も理解できなくはないですが、それは単なる気の迷いですよ。一時的なものです。肩にかついでいるその死体を下ろして、こっちへ来ませんか。共に人類の至福の瞬間を見届けましょう」
サーフェリーは答えなかった。その唇の端が激しくひきつり、微笑んでいるように見えた。
奴は銃を投げ捨てた。
その右拳が、まっすぐスナークの方角へかざされる。
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差し出した掌の中に、桃色の肉塊が出現した。スナークの肝臓だ。
「てめえはっ、楽には死なせねえ。血へど吐きながら、のたうち回ってくたばれ」
だが、銃を捨てたのはサーフェリーの失敗だった。再び、すり鉢状の球場に銃声がこだました。サーフェリーの首から上が赤い爆発を起こした。頭を失った奴の体は、LCと共に床に沈んでいった。
うずくまって泣き真似をしていた、クラブの幹部の生き残りの少年が、笑いながら大口径の銃を両手で構えていた。
少年の銃口が滑らかにスライドして俺に向けられる。
やめなさい、とスナークが少年に叫ぶより一瞬早く、ハクトの[茶菓山積]が炸裂した。《VIVA☆カプサイシン》の真紅の奔流が少年の顔面にヒットし、唐辛子の粉末を飛び散らせる。
「ぎゃー! 痛い! 痛い!」
両手で目を覆って、少年がのけぞる。
俺は駆け寄り、少年の手から銃を取り上げた。それから、戦闘不能にするために腕をへし折った。どちらがこいつの利き腕かわからなかったので、念のために両腕とも折っておいた。
灰色の空から雨が降り始めた。
雨というよりは霧に近い。無数の細かい水滴が広大な空間を満たす。すべての物が音もなく濡れ始める。まるで、人を見捨てたことを悔やんだ神が涙を落としているかのように。
ほんの二時間ほど前、ここは華やかな祝祭の場だった。鍛え抜かれた肉体を持つ者たちがその技能を披露し、群衆が歓声を轟かせていた。
今、この巨大すぎる施設に満ちているのは「死」だけだ。
十数万人の死者に囲まれて、俺は腕が疲れて上がらなくなるまでスナークを殴りつけた。
自分の吐いた物の上に座り込み、上体をぐらぐら揺らしているスナークの顔は、こねている途中のピザ生地にトマトソースをぶちまけたような状態になっている。歯を失った口からは低い苦痛の唸りが漏れている。
苦しかろう。だが、気を失うことはできない。そうさせないように、俺が加減して痛めつけているからだ。
俺はふと、自分の拳を見下ろした。
バンダナでバンデージしていても、酷使した拳はひどく熱を持ち、腫れ上がっている。
その痛みさえ、今まで自覚していなかった。
「いくら殴ったところで……あんたのやったこととは釣り合わねえ。あんたが他人に与えた痛みを、そのままあんたに返してやることは不可能だ。あんたの罪は、でか過ぎるからな」
俺は、今にも倒れかかりそうなスナークの頭頂部へ向けて、言葉を落とした。
「さんざん殴っといてから、それ言うかー?」
背後からハクトがまぜっ返すので、「黙ってろ」と釘を刺してから、俺はまん丸な中年男に視線を戻した。
「だからあんたに『絶望』をくれてやる。――俺はティリーと一緒に消える。絶対に見つからない場所まで逃げる。あんたの計画はおしまいだ。あんたはここまで来るのに十二年かかったが、その年月はすべて無駄だったってことだ。
もし《ローズ・ペインターズ同盟》の組織が残っていれば、ひょっとすると、改めて革命を狙える可能性もなくはなかっただろう。だが、組織は消えちまった。それもこれも、他人を道具としか思ってねえあんたのせいだ。用済みになったら、ぽいと捨てる。スペードの幹部どももLCも、あんたが自ら手放したんだ。ここまで計画が進めば、もはや奴らは必要ない、と考えたんだろうが……浅はかだったな。一人頭の分け前を考えると、勝者の数は少ない方がいい、とでも思ったのか?」
スナークは何も答えない。口内がぐちゃぐちゃで物を言える状態ではないだろう。
だが、うなだれながらも、この男が一心に俺の声に耳を傾けている気配は伝わってきた。
俺は続けた。
「皮肉なもんだな。あんたは俺たちに二度、すべてを奪われたんだ。
俺の顔を忘れたか? 十二年前、バンダースナッチ研究所に潜入して《バラート》の攻撃の下準備をしたガキは、俺だよ。あんたともたぶん、何度か顔を合わせてる。俺たちが、研究所を破壊して、あんたの同僚を全員廃人にしたんだ。
あの後、あんたが[ダイモン]を破壊しようと思いつめたりしなければ……普通に、俺たちに復讐することを目指してれば……もしかすると成功していたかもしれねえのにな。
だが、それも終わりだ。もうあんたには何のチャンスもない。残りの人生、絶望と後悔にまみれて生きろ」
それは、どんな人間にとっても最悪の刑罰だ。
絶望はたやすく人を殺す。
スナークの場合はさらに、死後の地獄落ちも内定している。
「……!」
スナークが何かを言おうとした。しかし、唸り声が出ただけで、意味の通る言葉にはならなかった。
頬を伝う透明な液体が、すぐに血と混じって薄汚れていく。この男が涙など流すとは思えないから、それはきっと、強くなり始めた雨だろう。
「気が済んだか?」
ハクトが俺に尋ねた。拍子抜けするほど、のんきな口調だ。
俺は答えなかった。
「おまえ、まだ、スクリプト使えへんのか?」
二つ目の質問も同じぐらいのんきな、真剣味のない声音で放たれた。俺は「ああ」とだけ答えた。先刻までの激痛はなくなったが、それでも頭蓋骨のすぐ内側に存在感のある痛みが張りついている。神経を集中させるのは無理だ。
ふーん、とハクトはつぶやいた。
妙にのんきな声を出すのは、こいつが内心緊張している時だ。
案の定、俺の[仮想野]でアラートが輝いた。
illegal script detected ('oblivion')
id ('white_rabbit')
スクリプト[泡沫夢幻]が発動。
スナークの肥満体が勢いよく倒れた。肉に半ば埋もれた瞳から、一切の知性が消えた。
あうあうあう、と叫びながら、スナークはボールのように転がり回り始めた。
さあああっという雨の音が巨大なスタジアム内に響いていた。
俺は、自分と他人の血にまみれてのたうち回るスナークを見下ろした。
「……こんなことをする必要があったのか? こいつは、理性と記憶を保ったままの方が、苦しんだはずだぞ。おまえがやったことは制裁じゃなく救済だ」
俺の言葉に、ハクトは軽薄に肩をすくめた。
「俺は復讐をしてるんやない。上からの命令を執行しただけや。《ローズ・ペインターズ同盟》の首謀者を処断する、っつうのが俺の第一の任務やったからな」
俺はハクトから目をそらし、ピッチを見回した。
――すべて終わった。《ローズ・ペインターズ同盟》は消滅した。
犠牲は大きかった。あまりにも大勢が死んだ。
だが、コルカタ市はいつかこの巨大なダメージからも回復するだろう。世界は明日以降も、何事もなかったように動いていくだろう。
それはもう、俺の知ったことじゃない。
俺は緊急搬送用ドローンに向かって歩き始めた。ドローンの中でティリーが俺を待っている。
一緒にこの街を後にするのだ。行ける限り遠くまで行こう。
肺胞の一つ一つにまでこびりついた血の臭いを、さわやかな空気で洗い流したい。
「すまん。俺、おまえに嘘ついてた」
背後からハクトの声が響いた。まるで半笑いのような、のんきなゆるい口調だ。
俺は振り返った。
整髪料で固めてあったハクトの白い髪が、雨に濡れたせいで乱れ始めている。ざんばらの前髪の下、赤いフレームのアイシールドの向こうで、ウサギのように真っ赤な瞳がこちらをみつめていた。




