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第12章(7) 女王

 俺を閉じ込めた会議室の扉を施錠し、[料理番]は速足で殺風景な通路を進んだ。世界中のどこにでもありそうな、特徴のない灰色の通路だ。観客の歓声が地鳴りのように伝わってくる。


 扉を押し開けると、眼前に夜の街が広がっていた。

 グラウンドの外壁に沿って、軽食や酒、〈コートボール〉関係のグッズを販売するキオスクが軒を並べている。チケットを入手できなかったクリケットファンとおぼしき連中が、キオスクに群がっている。食欲をそそる匂いが空中に漂っている。


 グラウンドの建物を出た[料理番]は、尖ったヒールでコツコツと舗道を抉りながら、ハルシオーネ・ホテル・コルカタへ向かった。


 二ブロックほど進んだとき。[料理番]の進行方向にある街頭テレビに光が宿った。一つだけではない。道路沿いのすべてのテレビにだ。

 市の提供する定時ニュースや臨時ニュースしか放映しないはずの画面に、妙に懐かしいへちゃむくれの顔が大映しになった。

 きんきんと耳を刺す、粘っこい声が街路に響きわたった。


「皆さん、こんばんはー。私が《女王》。深紅のバラの国を()べる美しき絶対君主、マキヤ様でぇす。トゥイードルダム・トゥイードルディー」


 死んだはずの教祖マキヤ・アスドクールだ。

 生前に撮影したマキヤの映像がたくさんあるとスナーク博士が話していた。これはその一つか。


「《女王》に忠誠を誓う、親愛なる臣下の皆さん。今こそ皆さんの本気を見せるときですよ。立ち上がって、私たちの王国を築くのです。《臣下の証》を持って、今すぐにコルカタ・クリケット・グラウンドに集まってください。いいですか? 《臣下の証》を持って、コルカタ・クリケット・グラウンドへ来てください。これは《女王》の命令です。トゥイードルダム・トゥイードルディー」


 定期的な間隔でずらりと並んだ無数のマキヤの顔が、完璧に同時に、傲慢な薄ら笑いを浮かべた。


「幸せの宝箱はグラウンドの真ん中に埋まっています。皆さんはただ、それを掘り出すだけでいいんです。そうすれば、悩みも痛みも苦しみもない永遠の幸福が解き放たれます。

 皆さんは本来、幸せになる権利があります。でも、世界が間違っているせいで、当然与えられるはずの特権を奪われてきたんです。いやですよね、そんなの? 腹が立ちますよね? でも、もう我慢もおしまい。コルカタ・クリケット・グラウンドで幸せの箱を開けましょう。《女王》の願いは、臣下の皆さんの笑顔。ただそれだけなんですよ。トゥイードルダム・トゥイードルディー」


 マキヤは「トゥイードルダム・トゥイードルディー」という謎の文句を、意図的にゆっくり、大きな口を開けて発音した。おそらくそれは、洗脳を目覚めさせるトリガー。過去にLCのスクリプトを受けたことのある連中に、《女王》の命令を聞かせるためのキーワードだ。


 [料理番]が軽く舌打ちをした。


「いやだ……もう始まっちゃったの? 早すぎじゃない」


 ひとりごとを呟きながら、焦ったように足取りを早め、小走りに近いペースでホテルへ向かう。


 黄金色に燦然と輝くハルシオーネ・ホテル・コルカタの玄関扉に近づくと。

 目の前で扉が開き、中から数人の男女が一斉に飛び出してきた。正装している者もいれば、室内着にスリッパ履きという姿の者もいる。全員が、高さ四十センチほどの、色大理石風の有機合成素材(オルガーニチ)でできた彫像を手にしていた。

 そいつらは、まるで[料理番]がその場にいないかのように、猛然と突進してきた。

 乱暴にぶつかられ、突き飛ばされて、[料理番]はよろめいた。


「ああっ! まったく、もうっ!」


 扉を抜けた先も混乱をきわめていた。ロビーの壁に埋め込まれた大型テレビ受像機にも、マキヤの顔が大映しになり、「みんな、コルカタ・クリケット・グラウンドへ急いで。《女王》が皆さんをお待ちかねですよ。《臣下の証》を持っていない人は、何か武器になりそうなものを持ってきてください。トゥイードルダム・トゥイードルディー」と連呼していた。ホテルのスタッフも客もあっけにとられた様子で画面を凝視している。


 [料理番]はすばやくロビーを横切り、ロイヤル・ペントハウス直通エレベータの、施錠された扉を開いた。分厚いカーペットが敷きつめられた、無駄に贅沢なエレベータケージは、高速で十六階まで直行した。


(グラウンドからホテルまでの移動に時間がかかり過ぎた。俺は[料理番]の五感と同期し続けるのが難しくなってきた。頭が重い。[冗長大脳皮質(リダンダント)]が熱を持っているような錯覚に陥る。[鏡の国(ルッキング・グラス)]は長時間持続できるスクリプトではない。

 だが俺は歯を食いしばり、霧散しそうになる集中力を取り戻した。頭痛を無視し、懸命に[料理番]の感覚にしがみつこうとした。せっかく敵の本拠地の様子を探る手段を得たのだ。ティリーの無事を確認するまでは、何としてもスクリプトを維持しなければならない)


 エレベータは、舞踏会でも開けそうなほど広々とした豪華な居間に直接通じていた。

 窓際の、いちばん大きなソファにスナーク博士が腰を下ろしている。体重があるせいで、博士の体はやわらかいソファに呑み込まれるように埋もれている。

 そのすぐ傍らの長椅子に、ティリーと、マーチとヘアの双子が座っていた。三人とも眠そうで、表情が鈍い。

 それ以外に部屋にいるのは、メグと[アオムシ]、そして初めて見る五人の男たちだ。

 五人は、二十歳にもなってないようなガキから初老まで年齢はまちまちだったが、妙に光のない、死んだ瞳が共通していた。壁に沿って、並んで立っている。五人とも、中央に赤い宝石の埋め込まれたクラブ(♣)型のバッジを襟元に光らせていた。


 こいつらが、クラブの幹部か。

 [アオムシ]の話によれば――スクリプトの強さではなく「殺す覚悟」に基づいて選抜された、《ローズ・ペインターズ同盟》の殺し屋たち。教団にとって都合の悪い人間を闇に葬ってきた実働部隊。


 男たちの姿に、[料理番]がぎゅっと唇を噛む痛みを、俺は我が事として知覚した。


 [アオムシ]がソファから立ち上がって[料理番]に近づいてきた。


「あんたが帰ってきてくれて良かったぜ、《♠7(セブン)》。話がわかる人間は一人でも多い方がいいからな」


 秘密めかした態度で[料理番]に囁きかけた。


「……あいつら、どうも薄気味悪いんだよな」


 つぶやきながら、[アオムシ]はちらりと視線をクラブの幹部たちに流した。

 この男は本気で内緒話をするつもりはないようだ。奴の声は十分大きく、室内の全員に丸聞こえだ。


 だが、クラブの幹部どもは、[アオムシ]の見えすいた挑発には乗らなかった。少年と言ってよい年頃のいちばん若い幹部でさえ、眉一つ動かさなかった。沼のようにどろりと濁った瞳、生気のない灰色の顔で、マキヤの顔が大写しになったテレビをぼんやりと眺めている。

 ――確かに、こいつらは、ただのちんぴらではない。人生の道程のどこかで魂を見失った人間の()をしている。


 [料理番]は手を伸ばし、[アオムシ]の脇腹を強くつねった。


「まだやってるの? さっき言ったでしょ、喧嘩売るのはやめなさいって。初見の相手とはとりあえず一度戦ってみて、強さを確かめるだなんて……そういうの、犬と同じだからね」


 落ち着いた物腰を保ってはいるが、[料理番]の両脚が頼りなくなっているのを俺は感じ取った。

 女は震えている。怯えているのだ。この非人間的な雰囲気をまとったクラブの幹部たちに。


 そのとき、壁に埋め込まれたテレビの画面が、マキヤの顔から切り替わった。

 戦争映画か何からしい。次々と轟く爆発音。各所で急激に膨張する灰色の煙。飛散する砂煙と黒い塊。戦場の場面だ。

 テレビセットの性能が良いせいで、画面の向こうの爆発が、まるでその場にいるかのような臨場感を持って[料理番]の体を震わせる。

 どーん、どかーん、という破壊音がいつ果てるともなく響き続ける。引きちぎられ、爆風で吹き上げられたとおぼしき()()が、無機物の沈黙をもって落下してきた。人間の上半身だ。派手なオレンジ色の服を身につけている。

 ――オランダチームのユニフォームの色によく似ていた。


 [料理番]も俺と同じ気づきに至ったらしい。眼球に力を込めてテレビ画面を凝視し始めた。

 そのおかげで俺も画面をじっくり観察することができた。絶え間なく湧き起こる爆炎を縫って、茶色の小瓶のようなものが飛びかっている。

 よく見ると――それは、小瓶ではない。さっきホテルの玄関から駆け出していった連中が手にしていた像だ。


「ベイカー……まさか、これ……コルカタ・クリケット・グラウンドなの? 観客席から投げ込まれてるの……『臣下の証』よね? 一体どういうこと? あそこで何が起きてるの?」

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